■ ■ ■

 僕が逃げたように、「トラ」もきっと逃げ出したのだ。

「華に教えてあげなきゃ」
「……どうやって?」
「……そりゃあ……その……」

 あおちゃんは言いよどむ。僕たち猫が、ヒトと交流するすべを持たないことを思い出したようだ。正確には、交流はできるけれど情報のやり取りはできないということ。
 結局、僕は勝手にテレビをつけたことについて華さんに叱られた。華さんが帰ってくる頃には、「トラ」の姿は消えていて、クイズ番組になってしまっていたのだ。だから、あのドキュメンタリーを彼女が知る由はない。

「仮に教えたとしても、華さんが行けるような場所じゃないと思う」
「どういうこっちゃ」
「なんだか、日本じゃなかったような気がするんだよね」
「ガイコクってやつか」

 「トラ」の背景として広がっていた街並みは、普段僕が目にする町の風景でもなければ、テレビに映るいわゆる日本の風景でもなかった。看板は英語ばっかりで、道を行くヒトたちもどこかちょっと日本とは違っていて。
 じゃあどこ、って聞かれると、よく分からないんだけれど。

「トラは、お風呂に入るみたいだった」
「はあ? 風呂?」
「うん、取材をしていた奴が、入浴って言った」
「お前そりゃあれだ、分かったぞ。にゅうよおくだ」
「にゅう、よおく?」

 入浴となんら変わりないような、ちょっと違うような言葉が出てくる。いつもの集会所であおちゃんと話し込んでいると、背後からのしのしと姐さんがやってきて話に混ざってきた。

「ニューヨークがどうしたのさ」
「にゅうよおくってなに?」
「トラは何にも知らないねえ。イギリスの町さ」
「ばか、アメリカだよ」

 知ったかぶっているのが、果たしてイギリスと言ったあおちゃんなのか、アメリカと言った姐さんなのかは分からない。けれど、どうやら「トラ」がいるのはそのどちらかにあるにゅうよおくという町らしい。変な名前の町だ。
 そりゃあ、あの弟分が探しても探しても見つからなかったわけだ。「トラ」は日本にいないのだから。

「華さん、にゅうよおく行くかなあ」
「どうだろうね」

 にゅうよおくを知らない僕でも、日本じゃないところに行くには海を越えなきゃならないことくらいは知っている。海を越えてどれくらい時間がかかるか分からないけれど、でも海って大きいし、きっとすごく長くかかるんじゃないかなって思う。
 どっちにしろ、華さんに僕がにゅうよおくという言葉を伝えることはできない。なので、華さんは「トラ」がにゅうよおくにいることを知らないままだ。
 冷たい風が吹き荒れて、これはいわゆる、天気予報のお姉さんが言っていた冬将軍が来る合図なんだろうかと思う。冬将軍、僕は見たことないけれど、盛んにテレビでは言っているのだから、きっとなんかすごいやつなんだと思ったら、姐さんに聞いたところただの落ち武者らしい。
 身体の芯から冷えて縮こまってしまいそうな寒さに、僕は身震いして首を竦める。そんなことをしても寒さが逃げていくわけではないが。
 にゅうよおくは寒いのかあったかいのか、僕はそれすら知らないのだ。けれどひとつだけ分かるのは、「トラ」が日本から逃げ出していた、ということだ。遠い町から逃げてここへ辿りついた僕のように。


20160611
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