私は、おそるおそる近づいて、頬にそっとキスをする。

「ミーア、どうした? 怯えているね」
「……そんなことありません」
「またメイドに何か言われたのかい?」

 びくりと肩が浮く。それを見逃してくれるほど、ヴィンセントさまは優しくはなかった。眉をひそめ、私の顔を覗き込む。

「今度は何を言われたんだい?」
「何も、ほんとうに、何も」
「ミーアは嘘をつくのが下手だな」
「……ヴィニー、アイデンティティって、なんですか?」
「アイデンティティ? ああ、それで今辞書を引いていたんだね。簡単に言えば、自分が自分であることだよ。……まさか、昨日のヘンリーとの話を聞いていたんじゃないだろうね」
「いいえ、聞いてません、でも、……」
「でも?」

 私は言葉に詰まった。どうしたらいいのだろう。今まで人間の持つ感情というものを、ヴィンセントさまやほかの人たちを見て知ってはいたけれど経験したことがないので、戸惑う。
 私が感情的なことを口にすれば、ヴィンセントさまは困るだろうか。それとも、怒って私をお払い箱にしてしまうだろうか。再びオークションに、ヴィンセントさまの手によって出品されてしまうのだろうか。
 私は試作品だから数も少なく希少価値が高いのだとレイラは言っていた。それはつまり、今ならヴィンセントさまに買っていただいたときよりも高く売れるということだ。
 どうしよう、どうすれば?

「ミーア。……ミーア?」

 ヴィンセントさまの声が遠くで聞こえる。私は、そのままふっと意識を失ってしまった。

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