「それよりさあ、あたし聞いちゃったの」
「え、何を?」
「ミーアのこと!」

 ヘンリーが来た次の日のことだ。ヴィンセントさまはお仕事の都合で屋敷を留守にしている。そんな折、廊下を掃除していたメイドさんたちが、固まって噂話に興じていた。執事長に怒られてしまうのでは、と思いつつ、私の名前が出たのでちょっと興味がわいて、柱の陰に隠れて会話を盗み聞きすることにしいた。興奮した様子のレイラが、口早に告げる。

「ヘンリーがね、ミーアにアイデンティティが生まれ始めてるって言っていたの」
「えっ、どういうこと?」
「つまり、ヒューマンペットのくせして、いっちょまえに感情を持ち始めているらしいのよ」
「あら、やだ。ヒューマンペットはおとなしく旦那様の夜伽の相手でもしていればいいのに」
「でしょう、ミーアが感情なんて持っちゃった日には、あたしたち首になるかも分からないよ!」
「散々いじめてきたものねえ」

 あいでんてぃてぃ、知らない単語だ。あとで辞書で引かなくては。
 ヒューマンペットには感情がない。そんなことは知っているし、私は実際感情というものを持ち合わせていないと思う。じゃあ、感情を持つようになったら、それはきっともうヒューマンペットじゃない。
 泣いたり笑ったりすることがよく分からないけれど、ヒューマンペットじゃない私を世話する価値などないのだから、そんなふうに私がなってしまったらきっとヴィンセントさまに捨てられてしまう。そんなの、悲しい。……悲しい?
 私はヒューマンペットなのに、感情を持ち始めている?

「……アイデンティティ」

 ヴィンセントさまの書斎の大きな辞書で、意味を調べる。自己同一性、と書いてある。ヴィンセントさまの辞書は難しくてよく分からない。
 一生懸命意味を理解しようと唸っていると、書斎の扉が開いた。

「ミーア」

 ヴィンセントさまが帰ってきたのだった。私はぱたんと辞書を閉じて、おかえりなさいと言う。
 スーツのネクタイを緩めたヴィンセントさまは、ソファに座って私に甘ったるい視線を投げかけた。

「おいで」

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