ほかの誰かにはなれない

 最近、ヴィンセントさまはあまりご機嫌がよくなさそうだ。
 私にはとても優しいけれど、どこかカリカリしていると言うか、気付けば眉が寄っているだとか、そういうふうなことがある。今も、書類を前にして仏頂面している。

「ヴィニー」
「ん、なんだい?」

 執務室のスツールに腰掛けていた私は、仕事中のヴィンセントさまに近寄るのはどうかな、と思ったので遠いその場所から呼びかけてみる。

「何か、あったんですの?」
「え?」
「最近、とてもご機嫌が悪そう」
「……」

 ヴィンセントさまは苦虫を噛み潰したような顔をした。でもそれも一瞬で、すぐにいつもの笑顔に変わる。

「少し仕事が忙しくてね。あまり構ってやれなくて、ごめんね」
「……私は、いいんですの」

 さみしいのは我慢すればいい。けれど、ヴィンセントさまが忙しくして体調を崩してしまったりするのは、とてもいただけない。それに、私はいつまでもこどもじゃないのだ。ヴィンセントさまが忙しいときは邪魔をしないだとか、そういうことも分かってきている。
 唇を尖らせたのをやせ我慢だと思ったのか、ヴィンセントさまが甘いため息をついて微笑んで、立ち上がる。

「休憩だ。おいで」

 ソファに座ったヴィンセントさまに近づくと、そっと猫の耳を撫でられた。彼の頬にキスをして、膝の上に座る。私は、大きくなってしまったから、もう膝の上は重たいんじゃないかと思って身体に力を入れてみる。
 とろけるような甘い笑みを浮かべて、ヴィンセントさまは私を抱きしめる。

「ミーア」
「なんですの?」
「呼んでみただけだ」

 私に感情が芽生えても、ほかの人の考えていることが分かるわけじゃない。名前を呼んだだけでどうしてそんなに幸せそうな顔をするのか分からない。でも、その笑顔を見ると私も少し、うれしくなるから、分からなくても問題ないと思う。
 私にはデータを蓄積する能力があるのに、ちっともヴィンセントさまに歯が立たないチェスのお話をしていると、扉がノックされた。

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