「ミーア、何かあったのかい? 目が腫れているけれど」

 点検に来たヘンリーが、私の目を鋭く指摘する。泣いて目をいっぱい擦った翌日はまぶたが腫れてしまうのだとヴィンセントさまが教えてくれた。もう少し、優しく擦るべきだったね、とも言った。

「昨日、私泣いたの」
「え……?」
「なぜかとても悲しくなってしまって、止まらなくなったの」
「……」

 ヘンリーが真面目な顔をして黙り込む。そして、失礼、と言いながら私の点検を始めた。
 特殊な機具で、私にはよく分からないことをしながら、ヘンリーは言う。

「ねえ、ミーア」
「なに?」
「君は研究所にいる前のことを覚えている?」
「ううん、覚えていない」
「そう」
「でも、記憶にはあるの。誰かがジャズを流しながら、髪の毛を撫でてくれる記憶」

 点検の途中、ヴィンセントさまが出かける支度を済ませて顔を見せた。

「ミーア、今日は遅くなるから、先に寝ていていいよ」
「アランさま」
「何だ?」

 ヘンリーが真剣な顔をしてヴィンセントさまに耳打ちする。ヴィンセントさまの表情が歪み、ヘンリーを怒鳴りつけた。

「まだ言っているのか!」
「そうは言っても、これが僕の仕事で……」
「もうミーアは誰にも渡さない! 何があってもだ!」
「アランさま……」

 ヴィンセントさまが怒鳴っているのなんて、初めて見た。……初めてじゃない。
 ふざけるな、そんな怒鳴り声が脳裏をざらりと撫でる。ミーアはどうなる、誰かがそう頭の中で何度も怒鳴りつけている。
 誰だったっけ、どうしてあの人は怒鳴っていたんだっけ、私はどうして忘れているのだっけ……。
 テーブルに突っ伏して、どこかにある何かを探る。

「ミーア?」
「う、う」
「ミーア。具合が悪いのか?」

 ヘンリーが私の目に光を当てる。異常は見られないみたいだった。

「少し、眠たいです」
「そうか……眠っていればいい。ベッドに入っていなさい」
「はい」

 ヴィンセントさまに付き添われて、私は自分の部屋に戻る。そんなヴィンセントさまに、ヘンリーが声をかけた。

「僕だって、ミーアに二度も忘れられたくないんで!」
「……ヘンリー?」
「ミーア、おいで」

 ヴィンセントさまが扉を開けてくれる。私はベッドに横になると、目を閉じてヴィンセントさまを送り出した。
 今日は遅くなるというので、もうこのまま眠ってしまおうかな。
 うとうとし出す頭とは裏腹に、神経は高ぶっていた。ぴりぴりと、記憶をなぞり出して、止まらないのだった。

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