昔ミーアが好きだった、ゆったりとしたジャズをかける。コントラバスの深い響きが眠気を誘うそれを、ベッドに寝そべったミーアは耳をぴくぴくさせて聴いていたが、そのうち苦しそうに表情を歪めた。

「ミーア? どうした?」

 どこか具合が悪いのだろうか。この間ヘンリーが言っていた、「一度死んだ」という話を思い出して問いかけると、ミーアはふるりと首を横に振った。

「違うんです。ただ、とても……」
「とても?」
「の、のす」

 何を言わんとしているのか推測する。ミーアは覚えた言葉を忘れることはないが、こうして思い出すのに時間をかけることはある。そういう態度を見ると、やはり、と期待が首をもたげる。

「のすたるじあ」
「ノスタルジア?」
「はい、とてもノスタルジアです」
「……研究所で、聴いていたの?」
「いいえ。もっと昔に、私の頭を撫でながら、この曲を口ずさんでいる方がいらっしゃるんです」

 一生懸命喋ったせいか、少し言葉が怪しいが、ミーアは確かにそう言った。短く息を飲む。
 飲んでいた紅茶をテーブルに置いて、寝そべるミーアの横に腰掛けて髪の毛を撫でた。さらさらの指通りのいい髪の毛をゆっくりとすいていると、ミーアは眉をひそめた。

「……私、昔はないのですが」
「そんなことはない。きっと、昔ミーアの髪をこうして撫でながら誰かが……」
「ヴィニーが大事にしてくださるから、どうでもいいです」
「いいや。思い出すべきだ」
「ヴィニー?」

 言葉にならないで、ミーアの頬をするりと撫でる。体温が確かに指に伝わって、生きているのに、と思う。
 生きているのに、彼女は感情を持たないなんて、嘘だ。

「ミーア」
「なんですの?」
「思い出してくれ……」
「……」

 ミーアはぽかんとした顔で俺を見ている。間抜けに唇を開いているその表情に、思い出しそうな気配は一切ない。
 心は目に見えない。身体や脳の構造とは一線を画した場所にあると思いたい。だから、いくらチップに脳を支配されていようが、その脳自体が人工だとしても、俺は諦めたくはないのだ。
 記憶を失くしても、ミーアはミーアであって、ほかの何者でもない。思い出さなくても、彼女が今こうしてここにいるのならそれでよしとすべきかも分からない。
 けれど、俺に感情を向けてくれたミーアを、どうしても取り戻したくて。もう一度、幸せそうな表情で名前を呼んでほしくて。
 そっとミーアの唇に己のそれを寄せる。必ず、記憶の底から俺を引きずり出して見せる。そんな誓いを胸に秘めて。

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