抗いがたい衝動


 バイト先に俺がオメガだと知れ渡ったその日の仕事上がり、着替えてホテルを出ると、従業員出入口のすぐそばに少女がしゃがみ込んで猫を撫でていた。ふわふわのフリルがふんだんに使われたかわいい服を着ている。昼間と同じ格好だ。

「……」
「遅かったのね、残業?」
「……おまえには関係ない」

 そういえば、少女を前にして甘い匂いがしない。やっぱりあれは気のせいで、俺とこの女が運命のつがいだなんて錯覚なのだ。そう納得し、昼間の恨みも兼ねて彼女をことさら粗雑に扱うことに決める。

「関係なくないわ。あなたはあたしの」
「いい加減にしろ。運命だのなんだので俺を縛っておけると思うなよ、だいたい……」

 ふと、暗い裏路地が明るくなる。見上げると、分厚くかぶさっていた雲が晴れて月が覗いていた。昨日はスーパームーンとやらだったらしいが、今日もなかなか大きい。煌々と照る月を見つめていると、鼻先を甘い香りがかすめた。

「……!」

 本能的に、その場を逃げ出そうとする。これ以上ここにいたらまずいと、頭の奥で誰かが告げる。しかし、俺が逃げようとするよりも先に、少女が腕を掴んだ。見かけによらず強い力でその場に引き留められて、掴まれた腕がぶわっと熱を持った。
 濁流のように甘い香りが押し寄せてきて、立っていられなくなる。飲み込まれるように膝をついたところで、思い出す。鞄に、発情抑制剤を入れたはず。掴まれた手を振り払おうと引きながら、鞄を片手で探る。震える手で注射器型の抑制剤を探り当て、それを腕に刺そうとした瞬間、手を払われて抑制剤が路地の隅に転がった。

「あ……」
「アルファとして生きるとか豪語してたわりには、油断ならないものを持ってるじゃない」

 不敵に笑った彼女は、甘い匂いを漂わせながら俺の首に腕を巻きつけた。駄目だ、近すぎる。呼吸が荒くなって、視界が涙でにじむ中で、少女が俺の股の間を膝で軽く押し潰した。その刺激に過敏すぎるくらいの反応を示して背中を丸める。
 息ができなくなりそうなくらいの情欲に身体が蝕まれて、肌に擦れる服にすら反応してしまうくらい敏感になっている。身じろぎすらろくにできなくてつらいのに、少女は容赦なく俺の肌を撫でて首筋にくちづけをする。

「やめ、ろ……」
「……駄目、もう我慢できない」

 座り込んだ俺を軽々と立たせ肩で支えながら、少女は今俺が出てきた従業員出入口を通ってホテルに入ってしまう。待て、ほかのスタッフにこんなところを見られるわけには。

「ま、待て、頼むから、誰かに見られたら……」
「だいじょうぶ、あなたのこんな顔誰にも見せないわ」

 俺はどんな顔をしているんだ。考えたくもないそんなことが浮かんで、唇を噛んでうつむく。
 でももう、ろくな抵抗ができなかった。ふらふらと、支えて歩かされるのが精一杯で、しっかりと意思を持っているかのような甘い香りにあてられて呼吸すら苦しかった。
 早く、早くこの重たい身体を楽にしてほしい、誰か。
 いつエレベーターに乗せられたのか分からないし、ロビーラウンジのバイトの俺には、彼女がどうやってフロントを通さず部屋を取ったのかも分からない。ただ、最上階の部屋と思われるスイートらしい部屋のベッドに押し倒されてのしかかられたとき、俺の身体はもうとっくに切羽詰まっていた。
 この痛いまでの疼きを掻き消してくれるなら誰でもいい、それくらい切羽詰まっている。だけど理性の崖のふちのところでどうしても落ちることができない、プライドに引き留められて、ぎりぎりのところで欲望に素直になれない。

「さ、わんな、触んなっ……!」

 闇雲に手を振って、少女の手を払う。普段なら、人に、特に女の子に手を上げるなんてことは絶対にしないのだけど、今はそれどころじゃない。これ以上触れられたら、自分が自分でなくなる、壊れてしまう。

「だいじょうぶ、だいじょうぶよ、琥太郎、怖くないわ」

 名前を呼ばれた瞬間、感情の波が決壊した。

「うえ、もういや、だ、……ひっ、たすけて」

 ぼろぼろ泣きながらみずからを守るように身を縮め、情けなくしゃくりあげる。濃い甘い匂いが頭の奥や腹の底を殴ってくる。鈍痛が、じくじくと身体を蝕んでいく。
 つらい、たぶんこのまま放置されたら死ぬ。
 そんなふうにまで思ったとき、燃えるような目で俺を見つめていた女が服を脱いだ。かわいらしい下着に包まれた胸元があらわになって、彼女はためらうことなくそれも脱ぐ。

「かわいい……もう耐えらんない」
「はっ、は、あ、いやだ」

 細い指が手が俺の服を乱して肌の上を這う。その刺激は、疼きを掻き消すようで、新しい疼きを上書きするようで、もどかしい。まさぐられて、下肢の付け根がじくじくと痛む。
 こんなの俺じゃない、こんなの俺の声じゃない、こんなの俺の身体じゃない。なのに。
 彼女が触れるたびに、心まで震えるような快感が背筋を貫いて走る。快楽の濁流に飲み込まれてもう身体が言うことを聞かない。俺が俺じゃなくなってしまったかのように、少し手前を走っている快感を追ってしまう。
 こんなやわな女の子に好き勝手されて、プライドをずたずたに傷つけられて、それでも俺は快楽に勝てなくて、泣きながら気持ちいい気持ちいいと目の前の少女に縋りつく。
 汗とか、涙とか、よだれとか鼻水とかでぐちゃぐちゃになった顔を、彼女はいとおしそうに見つめてキスをする。そのかわいい顔からは想像もつかないくらい、いやらしく舌を絡めたキスに、頭の奥深くが煮崩れる。蜂蜜みたいにとろんととろけて、もう何も考えられなかった。
 気持ちいい、頭が真っ白だ、視界で揺れるかわいいツインテールの美少女は……誰だ?

「琥太郎、あいしてる、だいすき、あたしの運命」

 大波にさらわれた意識が戻って正気を取り戻す頃には、もうあの甘い匂いは鳴りを潜めていた。全裸で、ベッドの上でぼんやりと天井を見つめている。
 少女はシャワーを浴びている。たぶんこの隙に服を着て部屋を出てしまうのは賢いとは言えない。だって、このホテルの支配人の娘だ、その気になれば俺の履歴書だのを閲覧して個人情報を入手することも、解雇することも可能かもしれない。ここで角を立てるのは馬鹿だ。
 でも、どうすれば。
 このままここに全裸のまま横たわっているのも馬鹿だと思う。なるべく、相手に敵対心があることを分からせるような態度で待っているべきだと思う。でもだるくて身体が動かないのだ。
 シャワー室の扉が開いた。バスローブに身を包んだ女を、俺は結局何もできず全裸でベッドに横たわる格好で迎えていた。

「シャワー、浴びる?」
「……」
「この間、シャワー浴びずに帰ってしまったでしょ? だいじょうぶだったの?」
「……」

 せめてもの抵抗で無言を貫く。彼女はそんな俺のかたくなな態度を一切気にしていないようなあっさりとした態度でベッドに乗り上げてきた。そして、汗で湿った俺の髪の毛を軽く撫でつけて、こめかみにキスを落とした。

「もっと、ゆっくり距離を詰めなくちゃいけないのは分かってるんだけど……琥太郎のフェロモンが強烈すぎて、全然駄目ね」
「……」
「たぶんあたしは運命のつがいだからことさら効くんだろうけど、でも、ほかのアルファも誘いそうで心配。あたしのいないところで発情しないでね……」
「黙れ性欲魔人」

 まるで淫売とでも言われた気持ちになって、思わず口を開いて罵倒する。と、女はにっこり笑った。

「よかった、しゃべってくれて。怒ってるかと思った」

 黙れ性欲魔人と罵られて「怒ってない」と思えるこの認知の歪みはすごい。
 いっそ尊敬さえしかねない勢いで、こいつとは分かり合えないという事実を噛み締めていると、彼女はバスローブの襟元を正してベッドに正座をした。なんだ、と思っていると、恭しく俺の左手を取り、甲にくちづける。

「自己紹介が遅れてしまった。あたし、南條織、織物の字で、おり。あなたの運命のつがい」
「…………」

 もはや名前以外に情報がない。こんな自己紹介はない。またアフターピルを飲まなくちゃいけないのか、医療費がかさむ、と思いながら、けだるい腕を振って彼女の唇を払う。

「あなたのお名前……は、知っているけど、あなたの口から知りたい」
「叶琥太郎」
「ありがとう」

 仏頂面で名前だけ告げると、花開いたように鮮やかに笑う。顔だけならめちゃくちゃかわいいのにな……。

maetsugi
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