これは運命ではない


 開いた口がふさがらないとはこのことである。
 あのホテルを出てからその足で、生活圏から離れた病院を受診して、望まぬ相手と関係を持たされたことを強調してアフターピルを処方してもらい、ついでとばかりに発情抑制剤も処方してもらって帰路についた。
 大学生三年目だが実家が大学から便のいい立地にあるため、ひとり住まいはしていない。朝帰りになったところでもう成人している息子のことなんか両親も今更咎めないが、今日ばかりは勝手が違った。

「どうしたの、なんだか具合が悪そう……」
「…………母さん」

 親には、話しておかなければならないのだろうか。そう思い、自室に母親を招き入れ、俺は、自分がどうやらオメガであったらしいことを、細部を少々ぼかして打ち明けた。

「……昨日、発情がきて、それで慌てて病院に行って、俺は、オメガだったらしい……」

 ぼかすどころか大ぼらを吹いたがここは許してもらいたい。成人男子は母親に「発情がきて俺のことを運命のつがいだのと呼ぶ女に連れ去られて犯されまくったあげくアフターピルを飲まなければならない事態になった」なんて言えない。
 母親は、俺の告白を聞いて目を丸くした。

「そう……なの……。大丈夫だった? 身体に異常はない?」
「ない……」

 俺は自分を、アルファだと思っていた。選ばれた存在なのだと。
 ベータやオメガを馬鹿にしているわけではなく、ただアルファが特別であるという意識はあった。だから、自分はまったく特別ではなかったことにがっかりもしているし、何より、自分が今までずっとそう思い込んでいたものがいきなりひっくり返されたのを、とても受け入れられはしなかった。
 オメガの母親は、物思うように黙したあと、俺の背中を撫でた。

「そっか……。琥太郎はオメガだったのね……ちゃんと検査を受けさせていれば、勘違いさせることなんてなかったのにね……」

 二十歳も過ぎて母親の手に泣く日が来るなんて思いもしなかった。目尻に涙をにじませながら、少しだけその細い肩を借りた。
 俺は自分がオメガだったという事実を、どこまで知らせるか少しだけ悩んだ。オメガだからアルファだからベータだから何かに有利不利なわけではない。いや、やっぱりアルファであるほうが就職なんかは有利、と言うよりはアルファは個体的に優秀な人間が多いので必然的にそうなるわけだが、履歴書の欄に男女の区別を書く欄はあってもそれらの区別の欄はない。だから、俺の生活は特段変わらない。今まで通り、大学に通って、バイトをして、四年になったら就活をする。
 ただ……、恋人とは別れないといけないと思った。彼女は俺をアルファの男と思っている。それに、昨晩あの女に連れ去られた俺を見て、どう思っただろうと、少しこわかった。もう、顔を合わせられる自信がなかった。
 ひとりになった部屋で、恋人の電話番号をじっと眺める。声を聞く勇気も話をする気力もわいてこない。メッセージアプリを開いて、そういえば彼女から何の連絡も来ていないことに気づく。昨日の夜の待ち合わせの連絡を最後に、メッセージも電話も来ていない。

「…………」

 たぶん、あれで俺がオメガだって分かって幻滅されたんだろうな……。と納得し、それならこちらから藪をつつくこともあるまいと、トーク画面を閉じた。
 そして時計を見て唐突に思い出す。

「バイト行こ」

 まだ時間に余裕があったので、シャワーを浴びることにした。昨晩めちゃくちゃに犯されてから風呂に入っていないのだ。さすがに汗もかいたし股の間が気持ち悪い。
 少し熱めに設定したシャワーの水滴を浴びながら、そろそろと尻に手を伸ばす。広げるように割り開くと、まだとろりと垂れてくる。どんだけ出したんだあいつ、性欲旺盛かよ、猿かよ。いや猿に失礼だ。
 不本意ながらも指を突っ込んで掻き出していると、あまりの情けなさに泣けてきた。なんで俺がこんなことをしなくちゃならない。なんで俺がこんな目に遭わなくちゃならない。なんで俺がオメガでしかも運命のつがいとやらが女なんだ。男だったらいいとか一言も言うつもりはないが、屈強な男にねじ伏せられて無理やり、のほうがまだあきらめようがある。あんな華奢でかわいい女の子に好きなようにされたとあっちゃ、俺のプライドはずたずたである。
 シャワーを流したまま、しゃがみ込んだ。高い位置から落ちてくる水滴が背中に当たって砕ける。それらが排水溝に流れていくのを眺めながら、俺は声を殺してむせび泣いた。
 涙も汗も忌まわしい精液も、排水溝に流して。俺は着替えてバイト先のホテルに向かっていた。外資系チェーンの高級ホテルのロビーラウンジで給仕をしているのだ。コーヒーの値段が馬鹿みたいに高い代わりに最高のサービスが提供される。まあ給仕は俺みたいなバイトも多いが。
 ホテルの従業員出入口から入りタイムカードを通して、ロッカールームでスラックスと黒いベストに着替え、髪の毛を撫でつける。しっかりと鏡で全身をチェックしてからロビーに出たその瞬間、俺は、いつもと雰囲気が違うことに気がついた。

「……?」

 ものものしいと言うか、ロビー全体が緊張していると言うか。ただ、店内はいつもと特別変わった様子はなく、いつものように、マダムたちのお茶会や商談をするサラリーマンなどの客に加え、今日は大安なのだろう、お見合いと見えるカップルが散見されるだけだ。
 耳につけたインカムから、チーフマネジャーの声がした。

「叶、今日の十五時に支配人がお見えになる予定だ。失礼のないように」
「……分かりました」

 ものものしさの原因は、今しがた俺に耳打ちされた事実によるスタッフの緊張だったというわけだ。
 俺としては、誰が相手であろうが、マダムだろうがサラリーマンだろうがアフタヌーンティー目当ての女の子だろうがお見合い客だろうが、接客の態度を変えるのはおかしいと思っている。だから、うちの支配人が来るからと言って態度を変える気は一切ない。いつもと同じように、丁寧に心を尽くして接客するだけだ。
 総支配人、とは言わなかったから、数あるチェーンの中の、ここの支配人なのだろう。顔は知っている。凛々しい男前だったのが記憶に残っている。
 時計の短針が三に振れて少し経ってから、その男は現れた。そして、それにいつもほかの客にするように応対しようとした俺は、空いた口がふさがらなくなってしまったのだ。

「また会えたわね、あたしの運命のつがい」
「なんでおまえがここに」
「おい叶、言葉を慎め! お嬢さまになんて口を利く!」

 インカムから、チーフマネジャーの怒号が聞こえた。それとほぼ同時に、支配人に連れられていた少女が長い睫毛を震わせて、いとおしそうに俺に向けてほほえんだ。
 状況からして、このホテルの支配人の娘が俺を犯した少女であるのは明白だった。
 どんな客でも決して態度を変えず最高のサービスを提供する、それが俺の信条。その、揺るぎないポリシーが音を立てて崩れそうになったのをすんでのところで抑え込み、俺はほほえみを返してふたりを席に通す。

「お待ちしておりました、どうぞこちらのお席へ」

 リザーブドの札が立っていた席に案内すると、ふたりはおとなしく座り、メニューを開いた。

「ねえパパ、あたしこの桃のパルフェが食べたい」
「いいよ、なんでも頼みなさい」

 にっこりと笑って俺を呼びつける支配人に、笑顔で注文を取る。男のコーヒーと少女のパルフェのオーダーを請け負い厨房に通しに行こうと一礼し去ろうとしたところで、男に呼び止められた。

「きみが、織のつがいか?」
「……は……」

 思いもよらない、しかし聞かれるのはある意味当然の問いかけに、俺は言葉を失くしてしまう。固まった俺のインカムにチーフマネジャーから、おい、おい、と呼びかけが入っているのが遠くで聞こえた。
 おり、というのがこの少女の名前なのだと分かる。テーブルに両頬杖をつき小さな頭を支えている少女を一瞥し、俺は首を振る。

「滅相もございません。支配人の大切なご息女に僕みたいな男は」
「そうか? いい男だと思うよ、きみは」
「ありがとうございます」

 こんなに、褒められてうれしくなかったのは初めてだ。笑顔を引きつらせないように気を配りながら、なんとかそのテーブルを離れようとするのだが、少女がそれを許さなかった。

「つれないわ。昨晩はあんなに甘えてきてくれたのに」
「……お嬢さま、たいへん失礼とは存じますが、ただいま業務中ですので」

 唇を尖らせた少女に、父である支配人はいとおしいものを見るように目を細めた。

「織は、言い出したら聞かないからな……」

 そこは父親の威厳でどうにかねじ伏せろよ。
 笑顔が限界で、そそくさと一礼して厨房のほうに引っ込む。注文を通したところで、同僚で同じく大学生バイトの三宮が近づいてきて、こそりと耳打ちした。

「おまえ、オメガだったの?」
「……」

 あの女はどこまでも俺を貶めたいらしい。

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