仮眠室は熱帯夜
オメガであるというだけで、夜道がこわくなった。
俺や父親、兄弟たちは気性が荒いほうではない。なので、オメガに対して当たりがやわらかい。つまり優しい。けれど、いろんな人間がいるように、いろんなアルファがいる。たとえば出会って二秒で運命を盾に人を好き放題犯しまくる女アルファとか。
……いや、織の話は今はいい。
自分でフェロモンが出ているかどうかはいまいち分からない。もしかしてもっとオメガとしての自覚が早ければそういう感覚も身に着いたのかもしれないが、何せ俺はオメガとしての目覚めはほんの一ヶ月前だ。織は、俺のフェロモンがほかのアルファを誘わないか心配だ、と人を淫乱扱いするような言葉を吐いていたが、それもあながち嘘でもなかった。俺の意思にかかわらず、誘われて粗野な態度で接してくるアルファがこの世にはいるのである。
「離せよ」
「自分から誘っといてよく言うよ……」
誘ってない。断じて俺は、誘ってない。そっちが勝手に、人の家の砂糖のポットが開いているところに無断で手を伸ばしてきたようなものだろう。
遅番帰りの深夜、ホテルを出て駅に向かうまでの間で、意味ありげな視線を投げかけてくるアルファらしき男に尾けられている気配はあった。嫌な感じを覚えつつも電車に乗ろうとすると、腕を引かれて叶わなかった。無情にも、目の前でドアが閉まる。
「離せ!」
俺よりも身長は少しばかり高いくらいに見えるが、力の差は歴然としている。俺だって腕っぷしに自信がないわけではないのに、同じ男なのに、ろくに抵抗ができない。そのせいなのか、俺にもその気があると思われたようで、俺の勤務先とは似ても似つかない安っぽいラブホテルに連れ込まれそうになる。
冗談じゃない、冗談じゃないぞ。
さすがに身の危険を感じて、本気で腕を振り払う。少しは効いたのか、うっとうしそうに俺を振り返る。
オメガが性犯罪に遭うニュースを聞くたび、ほんの少しだけ、危機意識が低かったんじゃないのか、隙があったんじゃないのかと舐めてかかっていた自分を恥じる。世の中、うちの家族みたいな温厚なアルファだけではないのだ。いくらこちらが気をつけていたって犯罪者には何も関係ないのだ。
ラブホテルの入口で揉める俺たちを、通行人(主にカップル)が訝しげな顔で見て通り過ぎていく。しかし誰も助けてはくれない。自力で助かるしか方法はない。
こんな男に、俺だって好きでフェロモンを垂れ流しているわけではない、ということを理解してもらうのは無駄だ。とにかくひたすら抵抗を続ける。これだけ人目がある中でしぶとく抵抗され、さすがに気が削がれたのか、男は最後には舌打ちして俺の腕を離した。解放された瞬間、足に力を込めて駅まで全速力で走りだす。
駅に着いたとき、ちょうど電車が行ってしまったところだった。そしてそれが終電だったことを知り、俺はがっくりと肩を落とす。
オメガだと分かってから、何があるか分からないから夜の外出や外泊はなるべく避けていたのに。
父親に車で迎えに来てもらうか、タクシーで帰るか。とりあえず父親に連絡してみる。
「あ、もしもし」
『どうした』
「あー、終電逃しちゃって、迎えに来てもらえないかなって」
『ああ……晩酌しちゃった』
申し訳なさそうに言う彼に、飲酒運転しろとは口が裂けても言えないので、仕方なくタクシーを拾うことにした。だが、金曜の終電が過ぎた時間帯とあって、なかなか捕まらない。タクシー乗り場も長蛇の列だ。
くそ、あんなクソアルファ男に絡まれさえしなければ。
悪態をつきながら、事情を話して職場の仮眠室にでも泊めてもらおうとホテルまでの道を歩く。
従業員出入口を通り過ぎバックヤードに向かうと、支配人の姿があった。ドアマンのマネジャーと何やら揉めている様子であるので、俺はとりあえず姿を隠して様子を見る。
どうやら最上階に泊まっている客から、従業員の態度に対してのハードクレームが入ったらしく、上を出せ上を出せという要求が徐々に大きくなり、最終的に支配人マターになってしまったようだ。全面的に従業員側に過失があるらしく、支配人は謝ってきたあとのようで、教育がなってないとかなんとか説教している。
「……」
入りづらい……。
入口のところで固まっていると、説教が終わった支配人が出てくる気配があった。まずい、と思ってももう遅い。
「あれ、きみは」
隠れる間もなく見つかってしまう。慌てて、姿勢を正して一礼する。
「織のつがいだね。叶くん……だったかな」
「いえ、僕は別にそういうのでは……」
滅相もない、と首を振るのだが、男はにこにこと笑みをたたえて俺の肩に手を置いた。
「まあ、織もまだ若い。気まぐれに付き合ってやってくれ」
「……」
「まったく困ったものだ、運命のつがいだなんて戯言に熱を上げて」
俺だって、そう思ってはいる。運命のつがいなんて馬鹿らしい、どうせ気まぐれなんだろう、と。
ただ、父親にそんなふうに否定されてしまう織は、少しだけかわいそうだな、と。そう思う程度には情が移っているのかもしれない。
彼も彼で、今しがたクレームを片づけたばかりで、疲れているのだろう。真夜中だし。そう納得し、去っていく背中を見送った。
「どうした、叶くん」
「あ、実は、諸事情で終電を逃してしまって、仮眠室で過ごさせてもらえないかなって」
「ああ、まあ、いいよ」
快諾を得て、俺は仮眠室のベッドに潜り込む。疲れた。どっと疲れた。枕を抱きしめてうとうとし始めると、ふんわりと甘い香りが漂った気がしてむくりと起き上がる。
「……気のせい、だよな……」
再び横になり、ふわりふわりと漂う甘い違和感に、足を擦り合わせていると、仮眠室のドアが開いた。正当に、業務交代で仮眠室を使う従業員が来たのだと、その瞬間はあまり気にしなかったが、すぐに異変に気づいて身体を起こす。
「織……」
「あたし分かっちゃったんだけど」
ドアから入ってきた人物から、強い甘い香りがしたのだ。俺の気持ちを無理やり高ぶらせる甘い香り。
二度目のセックスのあとで分かったことだが、織はこのホテルで暮らしている。あの日連れ込まれた最上階のスイートルームで。だから、フロントを通す必要もなかったし、エレベーターに乗ってしまいさえすれば誰にも会わずに俺をあの部屋に連れ込むことも可能だったのだ。
「琥太郎は満月の夜、ちょっとエッチな気分になっちゃうよね?」
「……」
あ、と思う。だから、さっき変な男に絡まれた? 満月だから?
織が近づいてきたせいなのか、もはや自分の身体を自分の力で制御できなくなっている。息が荒くなって、どうしようもなくなって織に縋るしかない。
「おまえ、ふざけんなよ……それ分かっててわざわざ来たのかよ……」
「……だって、甘い香りをたどってきたらここに着いていて、琥太郎がいたんだもの」
欲情した、ぎらついた目つきで俺を見て、舌なめずりしながら俺をベッドに押し倒し顔の横に手をついた。安いスプリングが派手に軋む。
「なんで帰らなかったの?」
「……それは……終電を逃して……」
「なんで? 残業?」
「や、その……」
残業かどうかなんて、調べればすぐに分かる。嘘はつけないが、真実を言うつもりにもなれない。
「……ちょっと、腹痛くてトイレ行ってた……」
「ふうん?」
疑るような目つきで見下ろされるが、俺の沽券にかかわるので男にラブホテルに連れ込まれそうになっていたなんて言えない。
それよりも、そろそろ会話を楽しめる精神状態ではないのだが。
一ヶ月のうち織に何度も何度も塗り込めるように犯されるうちに、俺の身体は変わってしまった。もともと性欲が強いほうではなかった、むらっとくる、ということはなかった。でも、今はもう違う。この甘い香りに侵されるともう駄目だ、自分でも信じられないくらいの情欲に掻き立てられて、背筋が粟立っていてもたってもいられなくなる。そしてその疼きをおさめる方法は、この少女に好き勝手されるほかにないのだ。
この一ヶ月で俺のプライドはぐちゃぐちゃに丸めてゴミ箱にポイ、状態である。
ベッドが壊れるんじゃないかと危惧するくらいにスプリングが軋む。外を人が通れば、この部屋で誰かがセックスしているのがすぐに分かってしまうだろう。ほとんど焼き切れたような理性で、俺は織を止めようとはする。
「織、おりっ、ここ、かみんしつ、だからぁっ」
「鍵閉めたわよ……っ」
「そう、いう、もんだい、じゃなっあっ」
かわいい、お花みたいな女の子が、俺を抱くときだけ獣のように危険な目つきになる。ぎらぎらと燃えるような炎を宿した瞳が俺をシーツに縫い留める。
耳を覆いたくなるようなぬかるんだ水音がまき散らされて、部屋中に甘い匂いが充満する。もう何度も射精しているのに、気持ちいいのがまだ来る、終わりがない。奥を穿たれてぶたれるのがたまらなく気持ちいい。
もう、ここが仮眠室で、仮眠に来た人の迷惑になっているだろうことや、きっと俺の喘ぎ声やこの水音や肌のぶつかる音が廊下に漏れてしまっていることなどが、どうでもよくなる。それくらいの快楽に支配されてしまう。
奥の奥まで入り込まれて、思い切り、絶対妊娠する、と思うくらいに濃い精液を叩きつけられて、俺は意識を飛ばした。
mae|tsugi
modoru