運命のつがい


 濃厚なバニラのようで、ミントのようにさわやかな、複雑で甘い香りに包まれている。毒のように全身の神経を刺して、ピンで留められた蝶のように動けなくなる。荒い息をつきながら、額ににじむ汗を拭おうと腕を上げようとするのだが、あまりのだるさに指一本動かせない。
 は、は、と空気を食みながら、ここはどこだ、と意識の端っこを掴もうとする。

「あ!」

 不意に、びりびりと背筋を鋭い感覚が突き抜けた。動かせなかったはずの身体が脊髄反射でしなる。今の感覚は、と考えるよりも先に、続けての衝撃が来る。

「あっ、あ」

 身体を太い杭のようなもので貫かれているような鈍い刺激に、俺はたしかに快感を見出している。なんだ、これは。
 固く閉じていた目を開けると、信じられない光景が広がっていた。

「えっ、あっ」

 俺の上に、美少女が覆いかぶさっている。揺れる長いツインテール、嘘みたいに丸い瞳、上気した頬。淡いピンク色の唇を、赤い舌がぺろりと舐めた。額に玉のような汗が浮かんでいて、その一滴が俺の口元に落ちた。無意識で舐める、甘い塩の味がした。

「なに、して……」
「ん……? 気持ちいい……?」

 頬を細い指で撫でられて、尻に肌が当たる感覚があって、俺はようやく自分が今何をされているのか理解した。

「なん、なんで」
「いい子ね、すごく気持ちいい」

 息を乱しながら、彼女は俺の身体を貫いて、絶えず腰を振る。奥の奥まで届いては、抜けるぎりぎりまで腰を引かれ、一気に突き上げられる。
 信じられないことをされているのに、さらに信じがたいことに、俺の身体はそれらの動きをすべて快感として拾っていた。
 むせ返るような甘い匂いが、ひときわ濃くなって、意識が真っ白に染まる。ちかちかと涙と星が揺れる視界で縋りつくように覆いかぶさる女を見れば、いとおしげにほほえんで、くちづけが落とされた。舌も絡めないこどもだましのキスなのに、ぶわりと顔に熱が溜まった。
 ずるり、引き抜かれ、女は後始末をしている。息も絶え絶えにここがどこかも分からないまま転がされている俺は、ようやく、現況の把握に努めることとなる。見回すと、どうやらそこはホテルの一室のようだった。ただ、俺が普段恋人を連れて行くような安っぽいラブホテルではなく、相当に格式の高い場所であることがうかがえる。
 丁寧に計算し尽くされた配置の調度品、間接照明が照らす部屋の壁の一面が窓ガラスになっていて、光り輝く夜景が見渡せている。肌ざわりのいいシーツに、俺の尻からとろりと粘性の高い液体が零れた。

「……!」

 そっと、そこに手を伸ばす。触れると、ねとねととした白い液体が指に絡んだ。

「……なんで……」

 俺はアルファだ。両親は母親がオメガであるものの、兄弟は皆アルファで、だから俺もアルファだし、オメガの女を抱いていた。
 混乱している。この女は、俺を犯していたということはアルファであるのに違いない。女のアルファにも男性器が備わっていることは知っている。ただ、だからなんだ、というわけで。だって俺はアルファで、アルファの女に抱かれる理由なんてひとつも……。

「ぼうっとして、まだ発情がおさまらない?」

 鈴を転がすようなかわいらしい声にささやかれ、はっとしてそちらを見る。優しげな眉を寄せて、くん、と匂いを嗅ぐように鼻を動かす。

「匂いは、だいぶ薄まったけど……」

 そうだ、匂い。あの甘い匂いで俺はおかしくなった。女の言う通り、あの甘い匂いはたしかにだいぶ、ほのかに香る程度に薄くなっている。さっきまであんなに暴力的に嗅覚を嬲っていたのに。

「俺……」

 俺が戸惑っているのを、女がどう受け取ったのか分からない。小首を傾げ、俺の髪の毛を撫でつけるように梳きながら額にくちづける。

「順番が逆になっちゃったわ。あたし、自分のつがいとは、もっと時間をかけて近づきたかったのに」
「……つがい……」
「そもそも、オメガの発情がないと運命のつがいが見分けられないっていうのが、もう構造に問題があるわよね」

 かわいく唇を尖らせた彼女は、まだ年の頃は二十歳を超えていないだろうという、悪ければ高校生かもしれないというくらいの幼い見た目だった。

「オメガ……?」
「……どうしたの? さっきから、なんだか上の空」

 少女の言っていることの、半分も理解ができなかった、理解したくなかった。誰がオメガで、誰が発情したんだ。誰と誰が、運命のつがいなんだ。
 答えはもう、出ているのに、俺はそれを認めたくなくてただ力なく首を振った。

「…………もしかして、自分の性を知らずに生きてきたの?」
「俺は、アルファだろ……?」

 縋るように、目の前の名も知らぬ女に問いかける。少女は口をつぐみ、真顔で俺を見つめたあと、言い放った。

「いいえ。あなたはオメガ。昨日の夜レストランで発情を起こして、わたしがここに連れてきた」

 鈍器で頭を殴られたように、視界がくらむ。気遣いもなければ優しさもない、オブラートに包まれない言葉を、女は何のためらいもなく吐いた。

「初めての発情はなかなかおさまらないから、あたしもちょっと我を失ってしまって……身体はつらくない?」

 俺はオメガじゃない。俺がオメガであるはずがない。だって今日までアルファとして育てられてきて、アルファとして生きてきたのに。いきなりオメガだの発情だの言われても、そんなの知らない。

「うそだ……」
「どうして嘘なの?」

 ベッドに呆然と寝転がる俺のわきに腰を下ろし、女は俺の腕に触れた。

「あなたはあたしのかわいいつがい」

 その言葉を聞いて、はっとした。

「おまえ、俺に……」
「え?」
「俺に……中出ししただろ……」

 羞恥心を捨てきれないで声が小さくなる。しかし、静かなこの部屋で女は言葉をしっかり拾い、そしてきょとんとした。

「したわ」
「何してくれたんだよ!」
「どうして? 運命のつがいだもの、ゴムみたいなもので隔てるほうがどうかしてるわ」

 唖然とする。認めたくもないが、俺がオメガなら、アルファの精液なんか胎に食わされたら妊娠する。それを、一生の問題になることを運命なんて言葉で軽く片づけるつもりか、この女は。

「運命なんて、俺は信じてない」
「でも、匂いを嗅いだでしょう」

 匂い。それで、ほんのりと思い出された母親の子守唄代わりの昔話。「お父さんと出会ったときに、甘い匂いがしたの。ちょっと甘すぎるけど、ずっと嗅いでいたいようないい匂いよ。それでお母さんは、この人がわたしの運命のつがいだって分かった。あなたにもきっと、そういう匂いの人が現れる」。母親は俺をアルファだと思っていたのだろう、だから、そういう甘い匂いをさせるオメガのつがいがいると思っていたのだろう。
 俺が自分をアルファだと信じて疑いもしなかった理由。それは、青春期に訪れるはずの発情が俺には訪れることがなかったからだ。

「あたしもあの匂いを嗅いだときに、あなたが運命だって確信できた。だから抱いた。運命よりも大事なものなんて、ないわ」

 そう、きっぱりと言い切った彼女は、もしも自分の前に現れた「運命」がどんな姿をしていてもきっと受け入れる。そんなみずみずしさと潔さに満ちていた。
 だけど、俺にとってその価値観は到底受け入れられるものではなかった。

「人の気持ちは、その運命の気持ちはどうでもいいのかよ」
「あなたは……運命を信じないの?」
「あいにく、俺は今の今まで自分をアルファだと思って生きてきたし、これからもそうする予定だ」

 これは一夜のあやまちだ。小さな汚点だ。何度も何度も上書きするうちに、しっかりと消えるはずのいやな思い出だ。
 身体の奥で疼くようにくすぶる熱をごまかして身を起こす。シャワーを浴びたかったが、彼女にそのお伺いを立てるのも気が引けたし、何より早くこの場を去りたかった。ベッドのわきから部屋の入口まで点々と散らばっている俺の服を拾い集めながら一枚ずつ身に着ける。実際は、入口からベッドまで、というのが正しいのだろうが。
 デニムに足を通すときに、股の間から粘液が垂れてきたのを感じて息を詰まらせる。だるい身体に鞭を打ち、部屋のドアノブに手をかける。そんな俺の背中に、女の声が届いた。

「運命には逆らえない。きっとまた引き寄せられる」
「…………」

 運命なんてクソ食らえだ。この少女とも、金輪際会うことはない。
 そんな思いで、ドアを乱暴に音を立てて閉めた。

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