募る思い
肩身の狭いバイトを終えてロッカールームに向かう途中、通路の向こうから支配人の姿が見えた。ぎくりと肩が浮くが、身をひるがえすのも失礼なので、一礼してその場を通り過ぎようとすると、呼び止められた。
「叶くん」
「……はい」
振り向こうとする前に、支配人が俺のシャツの襟に指を突っ込んだ。
「わっ」
「ああ、やはりか」
うなじをまじまじと見つめられ、冷や汗が出てきそうな気持ちになる。下手に男前なのもあいまって、緊張でじっとりと心臓が汗をかいて吐きそうだ。
心拍数が跳ね上がっている俺をよそに、支配人は落ち着いた様子で言った。
「いくら必要だ?」
「…………へ?」
なんのことを言われたのか分からずに、間抜けな声が出る。いくら必要だ、とは。
「我が一族にきみを迎え入れるわけにいかないのは分かるね。とすると、ほかにつがいをつくれないまま、フェロモンでほかのアルファを誘うこともできなくなって世界に放り出されるわけだ。慰謝料はいくら必要だ?」
心が凍りつく心地がした。腹の底に冷たい氷が落ちて派手に割れる。
「……織は。あなたを」
「そうだね。説得しようと右往左往しているようだが、いくらわたしの両親を説得し、全一族を味方につけたとしても、わたしが絶対に首を縦に振らないことは分かっていそうなものだが……」
絶対にみんなを説得する、と高らかに息巻いていた織を思い出す。彼女はもしかして全部分かっているのか。自分の父親が、どうあがいても絶対にいいよとは言わないことを。じゃあなんで説得なんてことを。まさかそれを承知でそれでも説得するつもりでいるのか。
「きみも、織のことが大事なら、あの子に無駄なことをさせたくはないだろう」
「……」
「いくらでも積むよ。決まったらここに連絡を」
彼は、取り出した名刺の裏に、プライベートな番号であろうものを走り書きして、俺に突きつける。なすすべもなくそれを受け取るしかなかった。立ち去る支配人の背中をじっと見つめ、名刺の裏を見る。
「誰が、こんなもん……」
指に力を込める。握り潰そうとしててのひらを丸めたところで、指を開いた。少し曲がっただけの名刺を睨みつけた。歯を食い縛る。
織が無駄なことをしている、とはっきりと言葉にされて、不安が現実のものとなる。俺のために、織が無駄なことをしている。織の努力は絶対に実らないし、それはつまり俺と織には未来がないという意味だ。
「……こんなもん」
びりびりに割いて捨てたいのに、俺はこれを捨てることができない。これは、俺が織を解放できる唯一の切り札だ。
ぐっと息を飲み込んで、いろんな気持ちも一緒に飲み込んで、歩き出す。
使うわけじゃない。こんな番号に電話をかけることは絶対にない。そう強く言い聞かせながらも、ロッカールームに入って手早く着替える。着替え終えて、名刺を財布の札入れにしまう。スニーカーに履き替えて、部屋を出る。
金で解決しようなんて、馬鹿げている。いくら積まれたって織の手を離すわけがない。そんなこともあの支配人は分からないのか。俺の気持ちを金でどうにかできると思われたことが何よりの屈辱だった。
今日はこのあと、織と会う約束をしている。待ち合わせ場所に着くまでに、俺は平常心を取り戻していつもの顔をしている必要がある。
ホテルを出て歩きながら、ぶつぶつと呪いのように支配人の悪口をつぶやくことで精神を落ち着かせる。くそ、父親のくせに娘の幸せを願えない馬鹿野郎が、くそ、人を金で釣ろうとしやがって、くそ、くそ、くそ。
「こたろ〜っ」
待ち合わせの駅前に着くと、いつも通りふわふわのフリフリで華やかに着飾った織が両腕を上げて俺に向かって手を振っている。満面の笑顔だ。ほっとして、駆け寄る。
「恥ずかしいからやめて」
「ええーっ」
腕を下ろさせて手を取る。
「飯食うんだろ? どこ行く?」
「んっとねえ……あたし、チーズフォンデュが食べたい」
「ん、分かった」
スマホでチーズフォンデュの店を調べていると、俺の顔をじっと見つめていた織が、呟いた。
「……なんか、元気ないの?」
「え……?」
見破られていることに心臓がずきりと音を立てる。でも、それをそのままろ過せず剥き出しにするわけにはいかない。
「いや……今日も忙しかったから」
「そう? 今って、繁忙期?」
「まあ、冬のフェアでバイキングしてるから、繁忙期っちゃ、繁忙期」
「ふうん」
今いる場所からほど近い、チーズフォンデュの店を探し当てて向かうことにする。道すがら、織はご機嫌そうに俺に宣言した。
「あのねっ、おじいちゃんが、おまえの好きにしたらいい、って!」
「……マジで?」
正直なところそんなとんとん拍子にうまくいくなんて思っていなかった俺は、驚いてしまう。織の祖父の娘、つまり彼女の母親は、まだ幼い娘を残して運命のつがいと出奔したと聞いているが、それについてどう思っているのか、もしかして俺の認識が違ったのかもしれなかった。
「おじいちゃんを攻略したら、もうおばあちゃんも説得したも同然!」
「……」
浮き立っている気持ちを抑えもせずに、織がスキップする。コートの裾がひらりと揺れた。
でも、いくら祖父母やほかの親戚を篭絡したところで、彼女の父親がうんと首を縦には振らない。絶対に振らないと、彼はそう言い切った。
織は、俺のために無駄なことをしている。
織に、俺のせいで無理を強いている。
祖父の説得だって一筋縄でいったわけがない。織が実家に戻ってから二ヶ月、ほとんど会えなかった。電話口ではあんなふうにおどけていたけれど、頭のいい織のことだ、あんな姑息なテクニックをほんとうに使ったわけがない。きっと地道に、真剣に、説得したに違いないのだ。その証拠に、今だって。
「織こそ、疲れてるんじゃないのか?」
「え〜?」
「目の下、クマできてる」
「うそっ」
クマ、と言うより全体的に少しやつれたというか、顔に元気がない。でも、それをまるまる指摘はできなかった。
「久しぶりに琥太郎と会えるから楽しみで、昨日よく眠れなくって……やだなあ、変な顔?」
「いや、かわいい」
「……ほんとに?」
疑るような口調で、織が俺の顔を覗き込んでくる。ほんとだよ、と囁いてツインテールを崩さないように頭を撫でる。
チーズフォンデュは、おいしかったし楽しかった。織も満足げに、出された料理を食べ尽くした。それから、織はまだ十七歳なので、夜の街を徘徊もせずちょっとだけ夜景を楽しんで、別れた。少し前からは考えもつかない、健全なデート。
それ以来、職場で支配人の姿をよく見るようになった。バックヤードで顔を合わせると、いつも決まってこう言われる。
「きみは案外強欲だな、いくらふんだくろうか悩んでいるのかな」
返事を滞らせていることがそんなふうに取られるのが、もちろん支配人がそう思っていないこと、煽りであることは分かるものの、苛立つ。
聞き分けがない、と言われているようだった。
織がおまえのためにこんなにつらい思いをしているのを指を咥えて見ている腑抜け、と罵られているようだった。
ふつうに見える織は、今どれだけの重荷を背負っているのだろう。どれだけつらい思いをしているのだろう。だって、俺とのことを頭ごなしに反対されていい気持ちがするわけがない。
就活に向けて動き出しながら、織からの連絡が減っていくのを、たまに来る電話でも、親戚の説得が難航しているのを隠そうとする織を、俺は黙って見ているしかできなかった。
四月、新年度がはじまって。織のほうからはめったに連絡が来なくなって、ああ、芳しくないから自分からは連絡できないんだな、と察してしまえる自分が嫌で。俺のほうから電話して会おうよと言って会うたびに、から元気の織を見るたびに。
つらい、という気持ちが胸を支配する。
「今日は暑いから、クリームソーダが飲みたいな」
「ぜんぜん因果関係が見えないな」
喫茶店に入って、緑色の液体にアイスクリームが浮いている飲み物を頼み、織がうっとりして見とれている。
「きれい」
「うん」
俺の前には、砂糖が入ったコーヒー。織は、アイスクリームがどろりと溶けてくるまで、それを見つめていた。
俺は、そんな織を見つめて、じっと、思う。
なあ、織。おまえの父親は、俺のことを絶対に認めないよ。もうやめようよ、織が今そんな目に見えて痩せるまで身を粉にしてがんばってくれてることって、全部無駄になるんだよ。そりゃあ俺も、織と幸せになることを夢みてるけどさ、でも織がこれ以上苦しんでるのは見たくないな。なあ、織。俺もう、おまえの愛人でもなんでもいいから。一緒にいられたらそれでいいから。もう、やめよう。
そんなことを、実際口に出して言ったところで、織が聞く耳を持たないのは分かっている。
だから、もう、仕方ないんだ。
五月。
「……もしもし、叶です」
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