俺のやり方


「俺の琥太郎が……とうとうマジの傷物に……」

 次兄がめそめそしている。帰ってきた実家、リビングにいた俺、飛びついてきた兄、見つかったうなじの噛み痕。噛み痕を見た瞬間、声にならない声で叫び声を上げ、兄は崩れ落ちた。そしてめそめそしている。
 それを見た両親が、あきれた様子で諭している。

「蒼大、琥太郎は別におまえのもんじゃない」
「そうよ、それに、相手の子はきちんと分別のあるお嬢さんよ」

 そうだろうか……。兄も、俺と同じ感想を抱いたらしく、遠い目をしている。対面した日のことを思い出しているのだろう。
 でもたしかに、俺がいいと言うまでうなじを噛まなかったのはほんとうにすごい精神力だと思う。ちまたでは、望まない相手に無理やり噛みつかれてつがいにさせられたオメガの話も聞かないわけではないから。
 しょぼくれている兄に、俺は声をかける。

「……織は、俺がつがいになりたいって思うまで待ってくれたんだ。だから、この噛み痕は俺が望んだことなんだ」
「…………」
「最後まで、俺のことを考えてためらってくれてたよ」

 この兄には、絶対に三宮にレイプされたことは言えない、と思った。両親にも、頬のあざはうまいことごまかして、言っていないんだけど。言ったが最後、三宮の命はない。

「……俺は……」
「……?」
「小さい頃から、琥太郎がかわいくてかわいくて仕方なかったよ。ほんの四つしか離れてないけど、おまえが生まれてきたときマジで母さんは天使を産んだと思ったよ」

 普段から溺愛されているけど、これは恥ずかしい。ごまかして笑っちゃいそうになる口元を手で覆い隠し、変な声が出そうなので相槌は首を振るだけにとどめる。

「実はさ……俺は、おまえがほんとはオメガなんじゃないかって、何度か思ったことがある」
「……え」
「これだっていう根拠や思った理由があるわけじゃないけど、なんかそう思ったことがあるんだ。なんとなく、こいつオメガじゃないのか、って」

 アルファの本能なんだろうか、兄にそう思わせたのは。自分でも気づかなかったオメガ性だけど、兄はなんとなくそうじゃないかと思っていた。その事実に、素直に驚く。

「確信があったわけじゃないし、母さんたちはおまえをアルファだって思って育ててたし思春期に発情もなかった。でもなんとなく、ずっとそうかなって思ってて、だから俺がおまえを守ってやらなくちゃ、俺しか気づいてないんだから、って思ってた」
「……蒼大兄さん」

 兄が、深々とため息をついた。そして、座っていたテーブルに両頬杖をついて、顔を手で覆った。

「エゴだよなあ……」
「っそんなことない」

 否定して、エゴってなんだろうな、と思う。兄が俺を思って奮起してくれたことがエゴなら、きっと世の中の全部はエゴだろうなと思う。でもそれでいいんだよな、人間って自分以外のためには生きられない。
 たとえ兄の行動が俺のためと言いつつ自分のためであったとしても、それに俺はずいぶんと助けられて生きてきたし、これからもきっとそうしていく。

「南條さん、優しい?」
「うん」
「なんか嫌なことされたら即兄ちゃんに言いつけろよ」
「ははっ」

 織に嫌なことをされたとしてもたぶん言わない、よっぽどのことがないと。でも、笑って頷いた。ぐしゃぐしゃに髪の毛を掻き混ぜられて撫でられ、兄はもうこれきり話題を変えることにしたようだ。

「琥太郎、もうすぐ就活だな」
「あ、うん」
「何がしたいとか、目当ての企業とかあるの?」

 兄には悪いが、話題はぜんぜん変わらないのだ。

「あのさ、俺、就活すげえがんばろうと思う」
「ん? うん、そうだな?」
「織の一族に認めてもらうには、それなり、じゃ駄目だと思うから」
「……」

 真剣なまなざして、俺を見た。しばしそうして見つめたあと、視線を下に逸らしてため息をつく。

「人を採るとき、露骨にオメガを選り分けるようなことはなくなった。履歴書にも書かなくていいしな」

 兄は大手のコンサル会社で人事に携わっている。だから、そのあたりの事情には詳しいんだろう。

「でも、やっぱり、オメガは結婚して妊娠するからとか、発情期があるからとかで、採りたがらないやつもいる」
「分かってる」

 でも、だからこそ、やらないと。

「特におまえなんか、噛み痕あるから採りづらいと思う」

 たしかに、結婚指輪みたいなものだもんな。うなじを撫でて、眉を寄せる。

「なあ、やっぱり早まったんじゃないのか」
「……俺は、織を言い訳にはしたくない」

 そりゃ、三宮のことがあって、早まったかもしれない。でも、それを言い訳にして就職ができないとか、そういうのは違う。織のことがあってもなくても、これは俺のことだ。自分の人生を織のせいにしたくない。
 大変だと思う。つがいがいるために、すぐに妊娠するんじゃないかと思われてそもそも採ってもらえない可能性は多分にある。実際のところ織はまだ高校生だけど、どのタイミングでこどもを望んでいるかは話してみないと分からないが、まさかほしくないわけがないとは思う。でも俺はこれを越えないと、織とは一緒にいられない気がするのだ。
 自分が胎に子を宿すとか、ぜんぜん考えたこともないけど。
 でも、織のこどもなら、いいかなと、そう思っている。
 年が明ければ、就活に向けて本格的に準備を始めなくてはならない。織とも、きっと今までみたいには会えなくなるしそれに、彼女はあのスイートを出て行ったのだった。父親を説得するために、家に帰った。
 三日経つが、音沙汰はない。支配人は忙しいのだろうし、会えていないのかもしれないが、少し不安にはなる。織はどうしているだろう、だいじょうぶなんだろうか。
 でも、俺のほうから、どう、なんて聞くのも違う気がするしな……。
 自室に戻って、スマホの画面を見ながら悶々とする。そして、織に電話をかけてもいい至極単純な理由を見つけた。番号をタップする。

『もしもし、琥太郎?』
「織」
『どうしたの?』
「声が聞きたくなった」

 織の声がワントーンくらい高くなる。

『ほんとう? あれっ、今日って満月だっけ?』
「……織は、満月だけでいいわけ?」
『あっ、あっ、違うの、そうじゃないの、うれしくなって』

 思わず忍び笑いしながらからかうと、慌てたように言い訳がぽんぽん飛び出す。俺の笑い声に気づいた織は、わざとらしく咳払いして言った。

『あのね、琥太郎』
「ん?」
『フット・イン・ザ・ドアって知ってる?』
「……? 知らない」

 ドアに足をかける、という意味なのだろうが、それが今何を意図するのかまでは分からないので、素直に知らないと言っておく。織が、自信満々に言い放つ。

『ビジネス用語でね、小さなことから順番に要求を通していくことで最後の大きな要求も通す、っていう技よ』
「へえ……」
『あたしは今までわがままに育ってきたから、今更殊勝な態度で琥太郎のことを認めてもらおうとは思ってないの。ちょっとずつ、わがままを大きくしていくつもりよ』
「ほお……」

 率直に言って、それはうまくいかない気がする。言いたいことは分かる、人が叶えやすいお願いごとから少しずつ相手の懐に入っていく戦法だ。でも、それは今まで散々わがままを通してきた相手に通用するのだろうか。ビジネス用語ということは、相手はわりと見も知らぬ相手を想定しているのではないか?

『さらに、あたしは賢いから、説得の順番も間違えないの』
「順番」
『まずはおじいちゃん。それからおばあちゃん、そしていろいろ飛ばして最後にパパ』

 織に甘い順番なんだろうな。そこは正しいと思う。外堀からじわじわ埋めていく戦法だ。支配人もそうとう織に甘いように見えたが、そうではないのだろうか。

『パパはね、あたしに甘いけど血筋についてはとっても厳しいから、一番最後』
「そうなんだ……」
『あのね、なんにも心配しなくていいのよ。あたしは絶対ぜったい、みんなを説得するから』

 不安な気持ちが声に出ていたのかもしれない、織はそう言い切って、ころころと気楽に笑った。
 でも、なんでだろう、織がそう言えば言うほど、俺は不安になる。

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