届かない


 まぶしい。太陽が近い。絶対近い。
 タイムズスクエアを足早に抜けて観光客気分を味わってみたり、自由の女神に登ってみたり、ひと通りのお上りさんはやり尽くした。
 英語がまあまあできて、よかった。おかげで日常生活にはわりとすぐに溶け込むことができた。仕事のほうは、裏方ではあるものの、たまに日本語しか喋らない観光客が来たときに駆り出される。
 ニューヨークは物価が高いと言われるけれど、そもそも最低賃金も高いのである。だから、日本で暮らすのとさほど生活水準は変わらない。
 アパートに帰って泥のように眠り、翌朝また出勤する。学生の気楽なバイトとは明らかに違う、社会人としての暮らし、それも異国での。ホームシックになるかな、と思ったけど、案外そうでもなかった。兄ふたりが早くに家を出ていて、実家が静かだったのもあるのかもしれない。
 大学を卒業して、すぐに日本を発って、もう半年経つ。織のいない生活は張り合いがない。もともと俺の人生に織はいなかったのに。不思議な気持ちだ。
 慰謝料なんてクソみたいなことは言わなかった。ただ、俺は俺のせいで苦しんでいる織をもうこれ以上見ていられなくて、それで支配人に電話をかけた。

「……もしもし、叶です」
『ようやくか。いくらにする?』
「お金はいらないんです。でも、ひとつだけ口利きしてほしいことがあります」
『……?』
「あなたにそういった権限があるのか分からないままお願いします。俺を海外のホテルに飛ばしてほしい」

 支配人は、すぐに俺の魂胆を読み取った。織には内緒で、こっそり人事を動かすと約束してくれた。
 たぶん支配人は、俺が慰謝料を要求しても同じことかそれに近いことをするつもりだったのだろう、話は異様なまでにスムーズに進んだ。よく考えれば当たり前だ、俺が金を受け取って織と縁を切っても、織の知っている場所に俺がいるままでは意味がないのだから。
 そうして、俺はニューヨークに身一つでやってきた。
 毎日が慌ただしい。慣れない言葉で進む日常、慣れない裏方業務、ひとりで生活のすべてをこなさなければいけないせわしなさ。それでも、織のことを考えないでいられる時間が少し減ったのはありがたかった。
 でも、夜、特に満月の夜は、織を思い出してしまう。まあるい月を見上げるたびに、ぞわ、と身体がもうまるで条件反射のように震えて鳥肌が立つ。性欲なんてもともと強いほうじゃなかったのに、今はもう、めちゃくちゃに甘やかされて抱かれないと満足できない身体になってしまっている。そして、身体と同じくらい心が、織が恋しい。

『コタロー、これちょっと運ぶの手伝ってくれよ』
『分かりました』

 ひとつ年上のブラウンと、タオルをリネン室に運ぶ途中、彼は不意に呟いた。

『きみは不思議な男だな』
『え?』
『つがいの噛み痕があるのに、いきなり日本からひとりでやってきた』
『ああ……』

 いい意味で純粋、悪く言えば無神経なのかもしれない、ブラウンは、察すれば薄々分かりそうなものをずけずけと聞いてくる。

『……まあ、さながら未亡人ってとこですかね』
『その年で?』
『かっこいいでしょ?』

 にっかりと笑って見せると、ようやく何か薄暗いものを察した様子で、閉口する。ブラウンは、リネン室のドアを開けてタオルを棚に戻しはじめる。

『まあ、俺の相手は女の子なので、未亡人とは違うのかも』
『けっこうみんな、きみの素性を気にしてる。急な人事だったし、差別のつもりはないけど、日本人のオメガがここに来ることなんて、あまりにも珍しいこと、前例のないことだから』

 みんな、俺の事情を知りたくて、噂話にしたいけれど聞けなくて、それでブラウンに白羽の矢が立ったというわけか。彼の、丁寧に撫でつけられた暗い金髪を眺め、別に秘密にしているわけじゃないし箝口令は敷かれなかったが、べらべらしゃべることでもない、と思う。
 ただ、今日は満月なのだ。感傷的な気持ちになる。

『……つがいには黙ってここに来ました』
『……』
『ほんとにかわいい女の子で、俺より頭ひとつ小さくて、ツインテールが似合って、うさぎみたいに愛らしくて、いつも自信満々で、勝気で、元気で……。でも、そんな彼女が俺のせいで痩せていくんです、しおれていくんです、疲れ果ててしまうんです』
『……だから、黙ってこっちに?』

 洗いたてのタオルに顔をうずめて泣きたくなるのをこらえて、口端を持ち上げる。ブラウンは、首を傾げ顎をさすり、呟いた。

『よく分からないけど……、黙って来てしまったってことは、相手は今コタローがここにいることを知らないんだな。コタローのために頑張ったその子が急にコタローを取り上げられて、どんな気持ちだろう』
『……でも、俺のせいで苦しむよりは何倍もましだ』

 バスローブから何から何まで棚に戻して、空になったワゴンをもとの位置に戻して、ブラウンが、助かった、ありがとう、と言う。それから、持ち場に戻ろうとする俺の背中に、声をかけた。

『Love means never having to say you're sorry』
『……?』
『ラブ・ストーリーっていう映画で二回出てくる台詞だ、知ってるか? 身分違いで駆け落ちしたふたりの話』

 これはまた、事情を知らないくせにタイムリーな映画を持ってくる。映画はあまり詳しくないので、素直に知らないと首を振る。

『最後、女のほうが病気で死んじまうんだけど、まあ紆余曲折あって、男の父親が謝ったときにな、男がそう言うんだ』

 その紆余曲折が説明されないと、俺はたぶん今放たれた英文のニュアンスを理解できないと思うんだが、だいじょうぶだろうか。

『つまりさ、愛してるなら、ごめんとか、申し訳ないとか、ひとりで考えていても仕方ないと思うんだよな。その子は、コタローと一緒に考えたかったかもしれない。ふたりのことなのに、ひとりで決めてしまうのは、駄目だろ』

 だって、織に言えばきっと余計に火がついて無茶をしてしまう。俺のせいで織がつらい思いをするのを、見ているだけなんて耐えられない。きっと今頃、織もほっとしている。俺がいなくなって、悲しんだだろうけど、きっとほっとしている。
 そう思わないと、心が裂けて血が出てきそうだ。
 月日は、経っていく。張り合いのない生活は、過ぎるのが早く感じる。暮らしの濃度が薄い。濃密さが、一切ない。気がつけば俺は二十五歳になっていて、織は向こうで大学生だな、と思う。順当にいっていれば……もちろん織が単位を落としたりなんてことはあり得ないので、彼女はもう大学二年生だ。
 とっくに転職した。支配人の息がかかった状態ではいずれ織に知られる。そう思って、俺はさらに逃げるように、職歴を洗っては染めた。今は、妊娠も抑えられない発情期もないことを理解してもらって、シアトルにあるネット通販会社に雇われている。
 織がそばにいなければ発情も薄いので、まるで自分がアルファとして生きていた頃を思い出す。自分も、両親のように幸せな家庭を築くと疑ってすらいなかった、オメガの恋人がいた頃。あの子たちどうしてるんだろうな、みんな、幸せに、アルファのつがいを見つけられたのかな。
 転職したことは、実は家族にも言ってない。織がうちの家族にコンタクトを取ることを、きっと支配人が裏で手を回して止めているとは思うものの、誰かに接触しないとは限らないし、俺は織に何を聞かれても絶対に俺の行き先は伝えないでと残してきたけど、それが破られないとは限らない。
 冬の海辺で、テイクアウトした熱いカフェラテを舐めながら、休日をぼんやりと過ごす。
 シアトルの海は、たぶん日本につながってない。だって、織の甘い匂いはこれっぽちも届かない。

maetsugi
modoru