ふたりの問題


 翌日、スイートからそのまま階下に降りてチーフマネジャーのもとへ向かうと、俺の腫れ上がった顔を見て深々とため息をついた。勧められるままに、その辺のパイプ椅子に腰を下ろす。

「いきなりふたり分も穴開けられるこっちの身にもなってみろよ」
「すみません……」

 三宮があのあとどうなったのか知らないが、あれだけ織に踏んづけられてけろっとした顔で仕事はできないだろう。知りたいような知りたくないような……とそわそわしていると、マネジャーはそんな落ち着きのないだろう俺を見て目を細めた。

「……三宮がどうなったか知りたいか?」
「え? あ、その」
「今頃市大病院の手術台の上だよ」
「……え……」

 そんなに大ごとになっているのか。織がいくら力が強かったとしても、女の子に踏んづけられたくらいでそんなことになるものなのか。俺が表情を引きつらせたのをどう思ったのか、彼は追い打ちをかけてくる。

「あのお嬢さんは空手と柔道の段持ちだし、ひと通りの武道はやらせたって支配人が自慢するし、一度キレたら手が付けられないらしいからな」
「…………」

 いろんなことに納得がいった気がする。とすると、ロッカールームのドアもやはり、織のしわざなのか……。

「で、三宮は辞表出したよ」

 ぎくり、と肩が浮く。で、という一言には、おまえはどうする、という問いが含まれていることが分かったからだ。進退を迫られている、それも、果てしなく退かなければならない方向に。

「……俺、辞めたほうがいいんですか」

 ずるい聞き方をしていると思った。案の定マネジャーは、困ったように眉を寄せた。

「叶は、正直バイトにしておくには惜しいくらいにいい働きをする。万一就活に失敗したらうちに来てほしいと思うくらいだ。でも、支配人のお嬢さんとねんごろな状態でそれはできないんだよ。縁故だのコネだの、騒ぐやつもいるしな」
「……」

 何も反論ができない。そんなことはよく分かっている。そもそも俺はホテル業界に就職する気はないのだけど、それとこれとはまた別問題だ。

「とにかく、こういう言い方はあんまりしたくないけど、叶が望むなら卒業までは置いておけるけど、肩身が狭くなることは覚悟してくれ」

 うなだれる。これは自主退職の流れだ。だって、バイト仲間とあんなことになって、支配人の娘とつがいになってしまった俺に、ふつうに接してくれる同僚なんてきっともういない。

「……いろいろ言ったけど、大変だったな、叶。三宮については、たぶん南條家がうまくやってくれるよ」
「うまく……って?」
「刑事告訴はしないだろうけど、あのお嬢さんのことだ、社会的抹殺とかやりかねない」
「そんな」

 愕然とする。たしかに、あれは合意の上じゃないし、俺は拒否したから立派なレイプだ。でも、そこまでしなくたっていいだろう。マネジャーの想像とは言え、織のことだ、ほんとうに言いかねない。顔から血の気が引いていく。三宮が百パーセント悪いのは間違いないけど、フェロモンを出しっぱなしにしていた俺にも落ち度はあったのかもしれないし、もっとうまく俺がフェロモンをコントロールできていればああはならなかったのかもしれないのに。

「だから、そこを南條家がうまくやるって言ってるんだ」
「それって」
「お嬢さんの暴走を一族が止めて、秘密裏に慰謝料くらいで手を打つって話」

 ほっとして、腰の力が緩む。座っていたために大事には至らなかったが、立っていたら間違いなく腰が抜けていた。
 それきり、話は終わったと言わんばかりに仕事を再開したマネジャーに、肩を落としてバックヤードを出る。
 織とこうなったことを一切後悔していないけど、弊害はあるようで、俺は織になんて言ったらいいのか分からなくて困っている。織はきっと気にする、自分のせいで俺の道を狭めたことを。
 スイートに引き返しながら、そういえば家に連絡していないことに気づく。スマホを開くと、母親から、だいじょうぶ? と一言だけメッセージが来ていた。ごめん、連絡を忘れてた。と打って送信する。それから、少し悩んで、だいじょうぶ、ともう一件打つ。
 何がだいじょうぶなんだか、と思いながらも、でもたぶんだいじょうぶなんだよな、と納得している。
 スイートに戻ると、織の姿がない。スマホも、身の回りの品もすべて置きっぱなしだ。不思議に思い、ソファに腰かけてじっと彼女のスマホを見ていると、画面が光った。着信、パパ、と書いてある。

「……どうしよ」

 小刻みに震え続けるスマホに、もちろん俺は出なくていいし放っておいていいのに、なんだかそわそわしながらあたりを見回してしまう。気まずい思いをしながら、早く着信が切れることだけを願った。
 やがて、スマホが静かになる。ほっと息をついたとたん、ドアが開いた。

「あれ、琥太郎帰ってきてたの?」
「どこ行ってたんだよ、電話鳴ってたぞ」
「ルームサービスを頼もうと思ったんだけどね、なんだか歩きたい気持ちだったから、近くのデリでテイクアウトしてきたの。琥太郎の分もあるよ」

 袋からいろいろと取り出しながらご機嫌そうに、これは何、こっちは何、と説明をしてくれる。おいしそう。

「それで、電話鳴ってたんだっけ?」
「あ、うん。パパって書いてあった」
「あー」

 塩レモンのソースがかかったチキンを指でつまみながらそう言えば、織は眉を寄せた。

「何?」
「ん〜……あの男の処分について、話し合いをしているの」
「……あ、そう、なんだ……」
「あたしはね、あんなクソ犯罪者は刑務所にぶち込むとか、なんか社会的制裁を受ければいいって言ったのよ? でもパパは、事態を明るみに出すのは琥太郎のためにもよくないだろって、慰謝料で内々におさめよう、って」

 マネジャーの言った通りの展開になっていることに、どんな反応も正しくない気がして、青ざめることも笑うこともできなくて凍りつく。

「あたし、こういうのってお金の問題じゃないと思うのよね」
「……」
「目には目をって言うじゃない、だから、おんなじ目に遭わせればいいと思うの」

 ぞっと、顔面だけじゃなく背筋が凍った。おんなじ目、って。何言っているんだこいつ。

「だって、琥太郎が嫌だって思った気持ちをお金で解決するのって、なんか違わない? まあ、同じ目に遭わせたらそれはそれで犯罪だし? だからそこはちゃんと法にのっとって社会的制裁だって言ってるのに……」
「織」

 手を引いて、となりに腰を下ろさせる。それで、目を見つめ、諭すように言う。

「これは、俺の問題だから。織がそう思うのも分かるけど、俺の意思尊重して。俺は、あいつを訴えるつもりも、慰謝料もらうつもりもないよ」
「……どうして? 許すの? 琥太郎にあんなにひどいことしたのに?」

 許す、というのとは少し違う。もちろん俺に無体をはたらいたことは絶対に許さないし、元の同僚、仲のいい友人という関係に戻れるとも思っていない。でも、慰謝料も社会的制裁も、俺の中ではしっくりこない。だって、結局三宮自身が反省して、もう二度とほかの人間にああいうことをしない、と思わないと意味がない。かたちだけの制裁なんかなんの意味もないんだ。

「……琥太郎は、優しいね」
「自分でも甘いとは思うけど」
「うん、甘い。でもあたし、琥太郎のそういうとこ、大好き」

 敵わないなあ、っていうふうに、仕方ないなあっていうふうに織が笑う。俺の膝にしなだれかかってきて、まあるい瞳が見上げてくる。長い睫毛が風を起こすような錯覚。まじまじと見なくてもじゅうぶんにかわいいのに、こうして見つめるとほんとうにかわいい。嘘みたいにかわいい。
 猫のように膝上でごろごろする織の髪の毛を撫でて梳いて、俺はふと頭をかすめたことを、そのまま口に出してしまった。

「織の家って、オメガいないんだよな」
「……え?」
「あ、……いや、その……」
「琥太郎?」

 兄が言っていたことが思い出される。彼女の一族は代々アルファ同士で婚姻関係を結び、優秀な血を継いできた。そこに俺が入り込める余地はない。そんなことは分かっているけれど、うなじに噛み痕がある今、俺はそれを仕方ないと諦められなくなっている。

「……琥太郎」

 身を起こした織が、俺の身体を跨いで膝立ちになり、頭を撫でた。腰に腕を回して、それに甘える。

「あたし絶対、パパとか、おじいちゃんとか説得して、琥太郎と結婚してみせる」
「……うん……、でも……」
「説得する相手はいっぱいいるけど、琥太郎のためならそんなの全然苦じゃないわ」

 俺も力になりたいと思ったけど、できないのだ。織の家族を説得するなんて、俺が取り掛かったら火に油だ。俺は織が孤軍奮闘しているのを、横で指を咥えて見ているしかない。

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