やわらかな睦言
首を噛まれたあとも、ベッドに移動して散々身体をつなげて、それで俺はシャワーを浴びている。湯を張った浴槽に沈んで、うなじを撫でる。絶対に消えない噛み痕がそこにあって、ほっとするのと同時に、不安になる。
これで、ほんとうによかったんだろうか。
直前にためらった織の気持ちが、なんとなく分かるけど、それは俺とはまた違った意味のためらいなんだって気づく。俺は、織に捨てられたら生きていけなくなってしまった。織が俺に愛想を尽かしたらどうする?
「……」
考えるだけ無駄だな、と思う。たとえいつかその日が来たとしても、それは今じゃない。来るか分からないいつかのことを考えるのは、将来のもしに備えて生命保険を用意するのと似ているけど全然違う。これは、考えたって仕方のない類のことだ。
水しぶきを上げてお湯を叩き、浴槽を出る。洗面所で身体を拭きながら、三宮に殴られた頬を撫でる。けっこう痛々しいあざになっている、しばらく接客に出させてもらえなさそうな感じだ。くそ、あいつ今度会ったら殴り返してケツに何か突っ込んでやる。そこまで考えて、そういえば……と思い出す。
「ピアス……」
ゴミ箱を覗くが、当然もう掃除の手が入っていて、中身は空だった。でもたしかにここにあった、三宮のピアス。織に、聞いてもいいのだろうか、いいよな、だって俺つがいだし……。
意を決して部屋に戻ると、織は目を開けたままベッドに身体をうつぶせに横たえていた。
「……織? 具合悪い?」
「…………あたしの琥太郎」
「へ?」
「一生、ずっとあたしの琥太郎」
そう言って淡く甘くほほえんだ。かっと、頬に朱が差す。でも、言われっぱなしやられっぱなしは性に合わない。
「……織だって、俺のだからな」
言い返すと、織は目を丸くして幾度かまばたきをして、意味を飲み込んだようにぱあっと顔を明るくした。照れてはくれないんだな。
ベッドに腰かけて、織を見下ろす。俺の髪から垂れたしずくが織の白い頬に落ちた。ひしゃげたしずくを見ていると、俺はほぼ無意識のうちに口に出していた。
「この間、洗面所にピアスが落ちてた」
「ピアス……? ああ」
「あれ、三宮のピアスだよな、なんで……?」
「……」
織が、眉をぎゅっと寄せて、俺のあざになった頬を撫でた。
「……琥太郎、ごめんね、あんな男に……」
「いや、今その話してないだろ」
俺がしているのは、三宮のピアスの話であって、三宮の暴挙の話ではない。まあ、あとあと後者についても考えなくてはいけないのだけど、今はピアスの話なのだ。
睨み合う。織が、諦めたようにため息をついて目を逸らした。
「ごめん、あの男をここに入れた」
「……なんで」
「あいつ、あたしが琥太郎を無理やり付き合わせてるんじゃないのかって、ここまで押しかけてきた。……断ろうと思ったけど」
「けど?」
織が、そこで長く長く沈黙した。焦れて、せっつくように、けど? ともう一度促すと、口を開いた織はそれでももったいぶるように、餌を欲しがる鯉のように口をぱくぱくと開閉した。
「……けど?」
三度目。
「……笑わない?」
「何? 笑われるような理由であいつを入れたの?」
いい加減煮え切らない態度に苛立ちが募り、言葉尻がきつくなる。俺の気持ちがだんだん波立ってきたのに気づいたのか、ようやく織が重い口を割る。
「……あいつ、あたしが知らない琥太郎のこと教えてくれるって言った……」
「…………」
不服そうに唇を尖らせて白状した彼女に、言葉をなくす。
「そんなことで……?」
「あたしにとっては大事な……!」
「そんなの、俺が全部教えてやるのに」
「……えっ」
あまりのくだらない理由に、肩の力が抜けてしまう。そんなことで、俺しか入れないと言い切った部屋にほかの男を入れたのか。織が知らない俺のことなんて、そんなの、聞かれれば求められればなんだって全部、教えてあげるのに。
「ほ、ほんとに? なんでも教えてくれる?」
「……何が知りたいの」
「何でも知りたい、小さな頃のこととか、昔の彼女の話とか」
「えっ……元カノの話とか知りたいの……」
たしかに三宮が知っていそうな話題ではあるけど、元カノの話を知りたいって、けっこう趣味がえぐい。もしかして織って、マゾなんだろうか。わざわざ自分が傷つくようなことを知りたいのだろうか。
「違うわよ」
「え?」
「元カノと比べて、あたしがどれだけ琥太郎を愛してるかどうかを確認するの」
「……逆じゃないの?」
愛されているかどうか、を確認するのではなくか。首を傾げると、織は大きくうなずいた。
「だって、別れるってことは大して愛情がなかったってことでしょ? あたしは、琥太郎が泣いてもわめいても離してあげないもの」
それは愛だろうか?
若干、いやかなり疑問に思うものの、織に手放されないことに妙に安心する。
「……いや、待てよ」
「え?」
「なんで部屋にあいつを入れただけで、ピアスが洗面所に落ちる?」
「さあ? 緩んでたんじゃない? 知らない」
ほんとうに分からないようだ。眉を寄せて視線を明後日のほうに向け、考えている。
「わざとかな」
「え?」
「いや……」
わざと、俺か、織の目につくようにピアスを落とした可能性もある。その意図がなんであれ、実際俺はそれを見つけてうろたえたのだから、効果はあったことになる。
「それで? 琥太郎は今まで何人彼女がいたの?」
「まだその話続いてたの?」
教えてやる、と言ってしまった手前、隠すわけにもいかない。俺は、中学生の頃に初めてできた彼女から、あの満月の夜一緒にいた恋人の話まで、洗いざらいぶちまけなければならなくなってしまった。
ベッドに身を横たえながら、ぽつぽつと、運命のつがいに元カノの話をしている俺、というなんだか奇異な光景を俯瞰的に見て、おかしくなってきて笑う。だって織は結局不機嫌になっているのだ、俺が、あの子のよく笑うところがかわいくて付き合ったんだよとか、あの子は甘いものが嫌いだったんだよとか、思い出をひとつひとつ慈しみながら囁くように教えるものだから。
「……知ってたわよ、琥太郎はかっこいいしかわいいから、モテるのは分かってたわよ」
「あはは、拗ねるなら聞くなよ」
しゃべる分には平気だが、笑うと口の端が引きつれて痛い。笑ってからとっさに顔をしかめると、織は俺の頬をまた撫でて、べろりと舐めた。
「いたっ」
織は悲しげに目を潤ませた。
「もっと早く、あたしが気づいてあげられてたら、琥太郎はあんなことにならなかったのに」
「仕方ないよ、織のせいじゃない」
「ううん、あたし知ってたのよ。あいつが琥太郎のこと好きなの」
突然の告白に唖然とする。三宮が俺を好きだって?
ついていけていない俺を放って、織はとうとうと語りだす。
「琥太郎はあたしのつがいだから諦めろって言ったの。でも、やっぱり諦めてなかったのね。同じ職場で、着替えとかも一緒なんだろうから、いつかうなじに噛み痕がないのばれちゃうって思ってたから、琥太郎の仕事が終わったらすぐに迎えに行ったり、注意してたの。ちゃんと分かってたの。でも、琥太郎を守ってあげられなかった」
織が、バイト上がりに俺を連れ去っていくのはそういう理論からだったのか。自分が正しく俺を守っていると思っていたから、だから俺が恥ずかしいと感じているのが分からなかったのだ。
「三宮は、俺の発情にあてられただけじゃなかったの」
「違うわよ。あいつ虎視眈々と、あるわけないのにあたしの後釜狙ってたんだから」
「……」
ずっと、気の合うバイト仲間、友達だと思っていたのに、向こうは俺をよこしまな目で見ていたというのがショックだ。
それに、差別心はないつもりだけど、俺自身は生粋のヘテロだし、好意を寄せられること自体はありがたいがやはり、ありえない、と思ってしまう。それは、自分が絶対に「ないな」と思う女の子に好意を寄せられていることを知った気持ちに似ている。
「なあ、織」
「なあに?」
「……いや、俺のつがいがこんなかわいい女の子でよかったなって」
「……またそうやって……」
織だったから、俺は運命に抗わなかった。もしも俺の運命のつがいが男であったなら、俺はきっと受け入れられなかった。それが俺の性愛だから仕方ない。まあ、俺がセックスにおいて受け身だっていうのは少し不本意なんだけどさ。
織の頬に、殴られたほうの頬を擦り寄せる。やわらかくて、かわいくていい匂いがして、ぽうっと頭の芯がとろけたような心地になる。織の首筋に鼻をうずめて匂いを嗅ぐ。いい匂い、甘い匂い。とろん、と煮崩れていく。
「琥太郎?」
「ん、織……」
「また気持ちよくなってきちゃった……?」
「うん……」
満月が夜を照らす。俺の身体はまた、織に愛されたがっている。
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