オーマイブラザー
夏のうだるような暑さもだいぶ下火になってきて、短い秋が訪れる。それでも、まだまだ熱帯夜の寝苦しい夜もあって、暑いのよりも寒いほうが得意な俺はすっかりばてていた。
季節外れの高熱を出してバイトを欠勤するはめになり、病院に行ったのち自宅でおとなしく療養していると、実家からほど近いところでひとり暮らしをしていて今日はたまたま帰ってきていた兄が様子を見に来た。
「だいじょうぶ?」
「うん……」
「薬飲んだか?」
「いや、まだ」
さっきおかゆを食べて、そのまま横になってしまっていたので薬を飲んでいない。そう告げると、兄がベッドサイドのテーブルをがさがさとあさっている。テーブルの上に置いてあるスポーツドリンクをコップになみなみとそそぎ、薬を探していた彼の手がふと止まる。
「なあ、これ……何」
「あ……?」
熱でもうろうとしながら、兄が「これ」と言って俺に突きつけてきたものを見る。そして、血の気が引いた。
「あ、これは……」
悪寒のしていた身体が、いっそう冷える。油断した。兄が、信じられないという顔で持っていたのは、ピルだった。織との付き合いを続けていく上では欠かせないもので、両親にも内緒にしているもの。……母親は、自分でやっていると言うのに頻度が低いとかで掃除機をかけに部屋に入ることがあるから、ひょっといたら知っているのかもしれないけど。
「なんで、オメガだって分かったからってすぐにこんなもの必要ないだろ、なんで」
どうしよう、と思ったのも一瞬で、俺以上にうろたえている兄を見ていると、妙に落ち着いてきた。が、熱は出たままなので回答がうろうろにはなる。
「蒼大兄さん落ち着いて……」
「落ち着けるか! 俺の弟がこんなもの……!」
「だいじょうぶ、相手はひとりだから」
そういう問題じゃない、とは分かっているんだが、でもほかにどう答えていいのか分からない。だって、こんなものなしで織とセックスしてたら、すぐ妊娠することになる。あいつしつこいし、偏見だけど精子力強そうだし。(精子力って、なんだ……)
「どこのどいつが俺の琥太郎を傷物に……」
「……」
なんだかもう面倒くさくなってきた。この兄は、自他ともに認めるブラコンなのだ。このさらに上にもうひとり兄がいるのだが、そちらは輪をかけたブラコンである。長兄のほうは愛する対象がふたりもいて大変だな、と思うのだが、どちらにも惜しみない愛情をそそぎまくるので、次兄には若干うっとうしがられている。でも次兄もなかなか俺にうざがられているので、だから長兄に反抗できない。
「言え、どこの馬の骨だ。俺が容赦しない」
「…………バイト先の」
「三宮だな?」
俺のバイトの同僚の名前も把握しているのはほんとうにこわい。横になったまま唖然としていると、兄が覆いかぶさってきた。
「三宮じゃない……」
「じゃあまさか板野マネジャー」
「いや、そういうんじゃない」
「じゃあ誰だ!」
今にも襲われそうな距離感で、絶対にないとは思うものの何となく危機感を覚えて、高熱からくる息の荒さと発情の症状が一瞬ごちゃ混ぜになって、やばい、と思う。
というか、次々羅列される名前が全部男のアルファなのが、ポイント押さえてるな、という感じだ。こうなってくると、織のことを言いづらい。しかし追及の手は弱くなるどころか勢いを増す。
「琥太郎、兄ちゃんがおまえを守ってやるからな!」
「いや……自分の身は自分で守るし……別にレイプされてるわけじゃ……」
「じゃあ合意の上か? ほんとうに合意なのか?」
家族にこういうことをずけずけと聞かれている俺の身にもなってほしい。ただでさえ、自分がオメガだと判明してから怒涛のような毎日を送っているのだ。家族くらいにはそっとしておいてほしいと思って、避妊薬のことも内緒にしていたのに。
そして合意かと聞かれると、最初のうちはレイプでしたとしか言いようがないのだが、それを言うとまた角が立つのでやめておこう。頷く。
「だから、誰なんだ、相手は」
「…………ホテルの、支配人の、娘……」
目を逸らしながら白状すると、俺の腕を掴む手の力が抜けた。あ、のかたちに開いた口から短く空気が抜け、兄はその端正な顔を間抜けに崩した。
「むすめ? おんなのこ?」
「……」
口をぽかんと開けたまま、目も見開いて、幾度もまばたきする。こうなるから、できれば言いたくなかったのに。
「え? アルファの?」
「まあ、そう……」
兄が俺の上からようやく撤退した。避妊薬の袋を掴み、部屋をうろうろし始める。何やらぶつぶつと聞こえてくるが、俺は今具合が悪いんだ。目を閉じて寝返りを打ち、ブランケットを肩まで引き上げる。兄が出て行く様子もないが、俺は俺で休みたいので放置する。
どっと疲れが襲ってきて、頭が痛くなってくる。まぶたが下がってきて、このまま眠ればたぶん少しは楽になる、とこのまま睡魔に身を任せようとしたところで、兄が声をかけてきた。
「なあ」
「……なに」
「その子に、会わせてもらえないか」
……。……え。
「いやだよ」
即答すると、それに重ねて即答が返ってきた。
「なんで? 将来的に家族になるかもしれない子だろ? だったら今会うのもそんなに変わらないよな?」
「え、いや、それは」
「おまえ、オメガの彼女は簡単に家に連れてきてたくせに」
「…………」
返す言葉がない。何なら家族に紹介もした。それは、その時々に付き合っていた恋人が、将来結婚することになるかもしれないから、とかそういう理由からではなく、単純に、俺の好きな子を、家族に見せびらかしたかっただけなのだ。そして、俺は家族が好きだから、恋人にも俺の家族を見せびらかしたかっただけなのだ。
織について。
家族に見せびらかすには情が足りない。今までの恋人とは違う、圧倒的に類を見ないもので結ばれてはいるけれど、無邪気に見せびらかしたいのとは少し違う。それに、織はあんな性格だから、家族と引き会わせたときにどんな爆弾を落とすか考えただけでこわい。
「そういうのとは……違うんだよ」
「分かった」
なんとか絞り出した否定に、彼が納得したはずがない。案の定、分かった、の次に出てきた発言は全然分かってなかった。
「家に連れて来いとは言わない。俺がホテルまで会いに行く」
「いや……あの……」
断りたい。全力で拒否したい。詰まった鼻をぐずぐず言わせながら唸ると、兄は俺の顔を覗き込んで避妊薬の袋を手でもてあそびながらとどめの一言を吐いた。
「藍兄さんにこのこと知られたくないだろ」
「…………」
ここで史上最大級のブラコンである長兄の名を出すのはずるいと思うのだ。
「俺を通して穏便に藍兄さんに伝えるか、俺みたいにばれて職場に殴り込みされるか、どっちがいいんだよ」
究極の二択だしたぶんどちらも地獄であるが、今この状態で俺は前者を選択するしかない。この人と織を会わせるのもまあまあ地獄だけど、これを断って長兄に告げ口されるほうが傷が深そうだ。
「……今度、時間つくってもらう……」
「おう。俺は事前に言ってくれれば予定空けられるから」
なんでそんなに暇なんだ社会人。
ほんとうに、心の底から疲れてしまって、俺はもうなんだかすべてのことが解決した気持ちで目を閉じる。とりあえず今は体調を戻すことに専念しなければ。今起きたいろいろなことについては元気になってから考えればいい。兄が、部屋を出て行く前に、一言ぽつんと呟いたのを、俺はほとんど眠りのふちにいながら聞いた。
「……その子は、琥太郎の運命のつがいなのか?」
また運命かよ。いい加減にしろ。俺は自分で自分の運命を切り開くんだ。
でも、返事はもうできなくて、曖昧に唸るだけになって、俺はとぷんと眠りの泉に落ちた。
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