蛇とうさぎの睨み合い


「ほんと? とびきりおしゃれしなくちゃ」

 兄が会いたがっている、と織に告げると、困るどころかそのように奮起されてしまった。やだ、とか言ってくれたほうが気が楽だった。でもよく考えると、ブラコンの兄からすれば俺を傷物にした女が面会を拒否するというのはめちゃくちゃ心証が悪いよな。だから結果的に織が乗り気で、よかったのか。

「別にそんなめかしこまなくていいよ、ふつうの兄だから」
「駄目よ、琥太郎の家族だもん、ちょっとでもいい印象を持たれないと」

 すでに印象がマイナスのところから始まっている様子、ということはどうしても言えなかった。兄の重度のブラコンという特殊属性についても。
 扉を開け放ったクロゼットの前で仁王立ちして腕を組み、服の組み合わせを考えている織の背中を見つめながら、拒否されたほうが気が楽ではあったけど、織が俺の家族について肯定的な気持ちでいてくれてよかった、とも思った。
 俺の好きなものを拒絶されたら、織との付き合いは本格的に考え直さなければならないところだったし、そういうことで駄目になるのは絶対に嫌だったから。

「あたしは、休日ならいつでも平気よ。お兄さまはいつがご都合がいいのかしら?」
「ああ、えっと、織の都合に合わせて予定を空けるとは言ってた」
「そう? じゃあ、次の日曜日はどう?」

 今日は火曜日。とすると日曜日って、目と鼻の先じゃないか。俺の心の準備ができていないのだが。
 しかし、織には俺のバイトのシフトを把握されているから、その日は都合が悪い、とは言い難い。つまり俺も予定がないのである。
 仕方なく、兄にご都合うかがいのメッセージを送る。すぐに返信がくる。平日だぞ社会人……。

『問題ない。俺がそっちまで行く』

 問題があってほしかった。しかし聞いてしまい都合が取れてしまったからにはもう逃げられない。

「織、兄さんがホテルまで来るって言ってるけど」
「……琥太郎は、ラウンジであたしとおにいさんが会うの、嫌じゃない?」
「え……」

 ラウンジでお茶をしながら会うのか。てっきり兄がこのスイートに呼ばれるのかと思った。そう、素直に疑問を口にすると、織が振り向いて顔を歪めた。

「琥太郎以外の人、ホテルのスタッフ以外でここに入れさせないわ」
「あ、そうなの……」

 妙な特別扱いの線引きに顔が熱くなる。それから、俺のバイト先でふたりが相対することを考える。

「……別の場所がいいかな……」
「でしょ? どこにしようか……」

 スマホを取って、織が面会場所の検索を始める。そして、ホテルから数駅離れた品のある街の有名な喫茶店を指定してきた。

「ここなら、あたしの品格も疑われないし、琥太郎の知り合いに見られることもなさそう……」

 満足げに、褒めて! と言わんばかりの織に、そういう気遣いは俺をバイト上がりに部屋にピックアップしていく前に持ってほしい、と伝えると、きょとんとされる。

「そうなの?」

 たぶん織の中では、俺が同僚に「こいつ女のアルファに抱かれてるんだな」と思われるのと、俺の家族と会うことを見られるのは、全然別のもので、俺がそれぞれの事象に感じる羞恥心も別物にカテゴライズされているんだろうな。
 前々から思っていたけど、織って性的なことに関して羞恥心が薄くて、それを他人にも強要するというか、他人の価値観も同じだと思い込んでいるというか、そういうところがある気がする。
 兄に、場所と時間を告げてメッセージを打ち切り、スマホをテーブルに置く。立ち上がって、織のそばまで向かう。

「服、決まった?」
「えっとね、これとこれだと、琥太郎はどっちが好き?」

 織が指差す二枚のワンピースを見て、織を見て、またワンピースを見て、また織を見て。

「……織はもとがかわいいから、どっちでもいいんじゃないの」
「まじめに答えて!」
「はは」

 そんなこんなで、決戦の日曜日。
 俺は普段着で、織はめかしこんで、いつもよりメイクもがんばっていた。いつも薄化粧だし今日も薄いんだけど、なんか、睫毛の角度と真剣に向き合っていた。
 待ち合わせ場所に向かう途中で、織は何度も何度も、俺に聞く。

「変じゃない? ほんとに変じゃない?」
「かわいいよ」
「そういうことじゃなくて! 変じゃないかって聞いてるの!」
「変じゃないよ」

 かわいいって言うと、すぐ照れ隠しに怒る。それがまたかわいいんだけど。
 喫茶店の前に着いてスマホを見ると、兄からすでに入って席に座っていると連絡があった。それを告げると、織が顔を青くした。

「あたし遅刻……?」
「いや、約束の時間の十五分前だから、まったく。うちの兄が異常なだけ」
「……でも印象悪いわ」
「そんなことで評価変える人じゃないよ」

 さっさと入店し、待ち合わせだと告げる。窓際の席で斜陽を受けて顔に濃い影をつくり、メニューを斜めに読んで気もそぞろなのが傍目にも分かる兄が、がっちりとスーツ姿でキメていた。

「蒼大兄さん」
「琥太郎」

 声をかけると、振り向いて、織のほうをじっと見据える。織は、すっかり、慣れない環境に放り込まれて縮こまったうさぎみたいになっている。

「とりあえずコーヒーでいいか?」
「あ、うん」

 手早く、三人分のコーヒーを注文した兄を、織に示す。

「うちの兄。蒼大」
「はっ、はじめまして」
「で、俺の……、……」

 ここで言葉に詰まる。恋人ではない織を、どう紹介すればいいのか、思考が停止する。止まった俺に怪訝そうな顔をした兄が、首を傾げた。そんな俺を見た織が助け舟を出してくれる。

「恋人候補の、南條織です」
「あ、ああ……よろしく……」

 その肩書きに、兄が一瞬表情を失くした。あ、これはまずい気がする。
 ふたりが握手を交わして俺たちが向かい側に座った途端、兄がじろりと剣呑な目つきを向けてきた。

「候補ってのは、どういうことです?」
「えっ?」

 織が目をぱちくりさせて俺を見る。彼女には、俺が高熱の中兄に詰問されてつい同意の上の行為だと口走った経緯を伝えていない。だから、きっと織は俺たちの関係性を兄が理解していると思っている。

「蒼大兄さん、最初から説明させてほしい」
「お、おう……?」

 すっかり体調も戻って元気になり冷静になった俺は、変にごまかすよりも真実を伝えたほうが兄へのダメージが少ないと判断し、口を割る。

「織と俺は、運命のつがいらしくて」
「……」
「母さんにも内緒なんだけど、初めて発情したときに、織と出会って、……そのとき意識朦朧としてた俺は、その、織と、あんまり合意の上じゃない性行為を、した」
「……」

 ぴくり、と兄の眉尻が跳ねる。

「それからも、何度か発情のせいで望んでない行為をして、それで、えっと……」
「もういい」

 兄が、硬い声色で俺の話を遮った。やはり、正直に話すのは間違いだったのだろうか。こわごわと顔を上げると、兄は声と同じく表情を鋭く硬くしていた。

「つまり、南條さんは琥太郎が望んでいないのに強要したわけだな? 運命のつがいというシステムと、オメガにはどうしようもない発情を悪用して」
「兄さん違うんだ、もうちょっと話聞いて」
「いいや聞かないでも分かる。女の子のアルファだって聞いて、ほんとうに合意かと疑ってたけど、謎が晴れたよ」

 こうなると梃でも話を聞かないのが兄だ。完全に選択を間違えた、織に申し訳が立たない。
 なんとか続きを聞いてもらおうと口を挟むのだが、兄は丁寧な口調で織を責め始めた。

「南條さんは、琥太郎の勤務先の支配人の娘だそうですね。どうせその立場を利用して琥太郎に従うように強く迫ったんでしょう」
「……」

 織がどんな顔をしているのか、こわくて見ることができない。ぎゅっとテーブルの下で拳を握りしめると、その手を織の細いてのひらが優しく包んだ。

「お兄さん」

 織の、凛とした可憐な声が響く。その声は、静かに激昂している兄を一瞬黙らせた。

「琥太郎が話を聞いてと言っているのに、どうして最後まで聞いてあげないんですか?」
「……」
「たしかにあたしは、琥太郎が望まないことを強要してしまったかもしれない。でも、それについては反省しているし、今はそうじゃない。運命のつがいであることを驕るのはもうやめたんです。あたしは、あたし自身を琥太郎に好きになってもらえるように努力しているし、琥太郎もそれに応えてくれるんです。ここに、あたしはお話をしにきたんであって、喧嘩をしにきたんじゃありません。琥太郎の話を最後までちゃんと聞いてあげてください」

 兄が、ぐうと黙り込む。その隙を突き俺は、織の手を握り返して再び口を開く。

「あの、兄さん……。たしかに最初は望んでなかったけど、織は俺が関係をゆっくり進めたいっていうのを理解してくれてるし、するときも、今は、同意の上だし、ていうか、発情期はほんとどうしようもないし」

 眉間に皺を寄せ、兄は俺を軽く睨みつけ、織に視線を戻した。俺も織をそっと盗み見ると、まっすぐに兄を見つめている。

「発情期はどうしようもないっていうのにつけ込むのは最低だろ。抑制剤だってあるのに」
「いや、兄さん……抑制剤、すげえ高いんだ……」
「え、そうなの……?」

 世界はオメガに優しくないのか、それとも開発に費用がかかったのか。そこんとこはさだかではないが、病気じゃないため保険のきかない抑制剤を毎月使うとなると、俺のバイト代がずいぶん逼迫する。それは初めて抑制剤を処方してもらったときに学んだ。毎月のピル代よりも抑制剤のほうが高くつく、ということを知ってからの俺の選択だ。そしてピル代は織と折半している。

「いやでも、薬が高いからって望まないセックスするのか? 違うだろ?」
「兄さん、正論が人を救うとは限らないんだ」

 俺は我が身よりも金を取った。これが事実なのである。
 正直失敗した、と思った。何がって、兄の説得である。火に油をそそいだ気しかない。

「琥太郎。問題は、おまえの気持ちだろ。金とか、そういうのは最悪どうとでもなる問題だ、でもおまえの気持ちだけは他人にはどうにもできない。おまえは、この先どうしたいんだ」

 俺は、どうしたいのか?

「……織と過ごして、織のこと考えて、これからもずっと一緒にいるかどうかは、ゆっくり決めるよ……」
「……」

 空気を一切読まずに、コーヒーがサーブされる。兄は沈黙を破らない。俺と織は、じっと待っている。俺と織が、コーヒーに角砂糖をそれぞれ二個入れてスプーンでくるくる掻き混ぜているのを見た兄は、ため息をつく。

「琥太郎がそうしたいなら、すればいい」
「蒼大兄さん」

 ほっとして肩の力が抜ける。

「でも俺は、南條さんのことを認めない」

 熱さにか顔をしかめながらコーヒーを舐め、その渋い顔のまま言い放った兄に、あっこれは全然説得できてないな、と察する。
 こうなるから、会わせたくなかった。兄にも、織にも、お互いの印象を悪くさせるようなことなんてしたくなかった。織のことをそれなりに友達くらいには好きなのに、その友達を兄に全否定されて、織もきっと兄のことを嫌なやつだと思った。

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