織の涙
ドアが閉まった部屋は、おそろしいほど静かだった。いつも、こんなふうに静かなはずではあるのだけれど、今日はやけにそれが耳に痛い。
だって、俺に抱きついている織の心臓の音がうるさく感じるくらいだから。
俺よりも頭ひとつ分小さな女の子なので、抱きつかれた俺からは表情は見えない。でも、細かく震えている肩や回された腕が、織の心細さを何よりも物語っている。
「……」
何も言えなかった。俺の本気の拒絶は、織をこんなに傷つける。
多少なりとも情がわいてしまった相手を、俺は傷つけると分かっていて拒否なんかできない。たぶん、俺は優しいとか甘いとか、そういう形容が似合う人間で、あとあと自分の首を絞めると分かっていても、今目の前で泣いている女の子の手を払いのけるなんて無理なのだ。
なんて声をかければいいのか分からなくて、ただ織の頭を撫でる。洗いざらしでいつもみたいにツインテールじゃない。髪の毛に指を入れて梳きながら、鼻を髪の毛にうずめる。発情の合図の甘い香りとは別の、ふわっとした人工的な花の匂いがした。シャンプーかな、と思いながら嗅いでいると、俺を抱く腕の力が強くなった。
「…………いやよ」
「え?」
「いやよ、琥太郎が、いやだって言っても、離してあげらんないのに」
俺に抱きついたままなので、こもった声だったけれど、たしかに聞こえた。
「……織」
「琥太郎が、ほんとは、ほんとは嫌がってるの知ってるの、でも」
「織」
少し語調を強めて、織を呼ぶ。びくりと細い肩が跳ねて、泣き腫らした顔を上げる。
運命のつがいにあこがれていた織。やっと見つけたつがいに拒絶される織。自分が思うのと同じ分だけの思いを返してもらえない織。目の周りの皮ふが真っ赤に腫れ上がってしまうまで泣いてしまう織。
そんな織の大切なものを踏みにじった俺。
「……聞いて、織」
「聞きたくない!」
「ごめん、言いすぎた」
俺に何を言われると思っているのか、織が暴れるのを両腕で押さえ込んで、ずっと言いたかった言葉を舌に乗せる。織は、ぎくりと身を縮こまらせて俺を縋るように見た。
「あんなふうに言うつもりなかったんだ。ただ、いきなり暴言吐かれて気が立ってたっていうか、それで、織が俺の意思を無視してつがいだって言うのにむかついた」
どれくらい泣いたのか、織の目はいつもの半分も開いてない。痛々しい目元を人差し指で撫でる。
「たしかに嫌だよ。俺は、俺の力で運命を切り開きたい。運命のつがいなんてものに振り回されたくない。でも、だからって織の価値観を否定していいわけじゃなかった」
そうだ、俺には俺の価値観があるように、織には織の価値観がある。重ね合わせても同じかたちになるはずがないのを、俺はどうにかはみ出しがないように無理にととのえようとしたんだ、織のほうを歪めてでも。
「……琥太郎は」
大きく鼻をすすって、織がおそるおそるといったふうに口を開く。
「あたしのこと、そういうふうには見てくれないの?」
涙でべたべたの頬に指を滑らせる。いつもと違って引っかかりのある丸い頬。じっと目を見つめて、俺は言葉を探した。
この気持ちをどう伝えればいいんだろう、どう答えるのがここでの正解なんだろう、じっと考えた。
たぶん正解なんてないし、探せば探しただけそれは陳腐な言葉になる。と不意に気づいた。
「織は、自分勝手だし人の話を聞かないし、運命運命って、俺自身のことは見てくれない。でも、俺は、あんなふうに何回も何回もセックスして情が移らないほど冷たい人間じゃないし、織のことを、かわいいなとは思ってる。だから……」
だから、なんだ?
だから、だから、だから。
「……織にも、俺自身を見てほしいし、少しは俺に合わせてゆっくり歩いてほしい……」
情けなくて声が尻すぼみになる。だけど、織に俺自身を見てもらえないまま、「運命のつがい」だからって好きだと言われても、むなしい。織を抱きしめたまま、俺は本心を洗いざらいぶちまけた。
伝わったんだろうか。織は分かってはくれないのだろうか。俺が歩み寄るようには、織は近づいてきてはくれないのだろうか。織は、じっと黙っている。
「…………ごめん、忘れて」
あまりにも沈黙が続くものでこわくなって保身に走る。織はうつむいて俺に抱きついたまま静寂を守っている。すん、すん、と時折鼻をすすっている。
織が腕を離してくれないので俺が無理やり引っぺがすわけにもいかず、どうしよう、と困っていると、織がぽつんと呟いた。
「あたし、初めて琥太郎を見たとき……」
ぐずぐずと、嗚咽とまでいかないが弱弱しい声色。わがままの通らないこどもみたいだ。
「かっこよくて、かわいくて、ほんとに運命だって思った」
「……」
「こんなふうにあたしの気持ち掻き乱す人が、琥太郎でよかったって思った」
顔面を俺の服に押しつけて首を横に何度か動かす。たぶん服が涙と鼻水でべちゃべちゃなんだけど、そのことを努めて気にしないようにして、言葉の意味を噛み砕こうとする。
「運命と、琥太郎を、切り離して考えることはできないけど、でも、あたし、琥太郎のことちゃんと考えるから、だから」
だから。
「あたしから離れていかないで」
散々泣いたのだろうに、織はまだ泣いている。
腕の力が少し緩んだ隙を見計らって、わきに手を挿し込んで持ち上げて織を部屋の奥に持っていく。ソファに織を座らせて、リュックを下ろしてその前にしゃがみ込む。
「もう泣くのやめろ」
「……だって」
「ちょっと水取ってくる。こんな泣いたら喉渇いただろ」
立ち上がって冷蔵庫のほうに向かおうとしたのを、服の裾を引かれて引き留められた。振り向くと、ほんとうにうさぎみたいに目を真っ赤にした織が、俺をじっと見上げている。
「いかないで」
「でも」
「そばにいて」
少し、迷って、織のとなりに腰を下ろす。膝に頬杖をついて顔を覗き込む。
「織って、意外と弱虫なんだな」
「……悪い? がっかりする?」
「いや。俺は、織のそういういろんなことを知っていきたいなって思ってる」
ぐずぐずのぐちょぐちょになった顔が、ぱっと華やいだ。半べそをかいていたカラスがもう笑っているのである。
やっぱり、笑ってるほうがかわいい。ほっとして、織の剥き出しのおでこをなでる。真ん中できっちり分けられた長い前髪が頬にぺったり貼りついているのを剥がして、俺も笑う。
「よかった、笑ってるほうがかわいいよ」
「……そ、そうかな」
照れた織は、ごまかすように俺ににじり寄ってきて、甘えるように膝の上に乗ってきた。
「じゃあ、今度は琥太郎のかわいいとこ見せて」
「……」
織の醸し出すやらしい空気に、しばし考える。ここでセックスを許したらなし崩しとかいうやつではないのか。それに今日は新月近辺だし、言い訳も……いや、もう今となっては満月なんてほんとうに形骸化しているんだけど。でもやっぱり、満月あたりが一番発情するのは間違いないし、新月付近が一番落ち着いているのはたしかだ。だからやっぱり……。
「……セックスは満月のときだけにしない?」
提案は、つい口の端が引きつった。
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