あなたのことだけ考えている
曙町の飲み屋からショバ代を徴収してきた下っ端が、こんなことを言う。
「ボスのイロって、やっぱりああいうとこで見つけてきたんスか? なんか、幸せそうじゃないですもんね、親に売り飛ばされてああいうとこで、って感じっス」
晴市のご機嫌が上々だったために彼はバラされずに済んだものの、完全に地雷を踏み抜いてしまった。
カレンダーを見つめていた垂れた目を、おもむろに下っ端の男に向け、晴市は口元だけで笑う。
「今年のバレンタインが金曜で命拾いしたな」
「へ?」
「もしもバレンタインが金曜じゃなかったら、テメェは今頃相模湾で鰯の餌になってるとこだ」
「……」
まったく笑っていない目元に、男はようやく自分が晴市の機嫌を損ねたことは理解したものの、何が彼の逆鱗に触れたのかまでは分からず、そばに立っていた宇藤に縋るような目を向けた。
宇藤は、彼の肩を叩き眼鏡を押し上げ、低い声で呟く。
「ボスの女のことに口出しすんのはご法度だ」
「……すんません」
結局男はよく分からずじまいだったらしい、首を傾げながら部屋を出て行った。
「宇藤」
「はい」
「バラ百本の花束って何キロあるんだろうな?」
「……あの細腕では抱えきれないんじゃないですかね」
晴市がスマートフォンを操作してバラの花束の重さを調べているのを見て、宇藤は頭痛を覚えた。
「……五キロ超えんのか、ダメだ、あいつにそんなモン持たせられるかよ」
「そもそも百本もらったところで邪魔です」
「……」
世間はバレンタインですっかり浮かれている。あまり、というかまったくイベントを気にしたことはないが、今年のバレンタインは金曜に当たっているのだ、少しくらい浮かれるのも仕方ない。
すでに約束は取り付けてある。レストランの席も、ホテルの部屋も、予約済みだ。あとはプレゼントがあれば完璧なのだ。
いくらイベントに興味がないと言っても、もちろん日本のバレンタインの慣習を知らないわけではない。ただ、晴市がかこつけて贈り物をしたいだけなのだ。
なんせ、亜里香から「洋服や鞄を買い与えるのを控えてほしい」と言われてしまったので、彼は大義名分を探していたのである。
バラの花束の重さを調べたそのついでで、晴市は花屋のホームページを検索し始める。
そんな晴市の挙動に気づいた宇藤が、ため息をついて告げる。
「ボス、そろそろ会合の時間です」
「……ああ、分かってる」
会合、という言葉を聞いた途端、晴市の目の色が変わった。それは、熱でどろりと溶けた砂糖菓子が急速に冷やされてそのかたちのまま凍りついたような、おぞましい変化だった。
ハンガーに掛けていたスーツのジャケットをはおりながら、晴市が立ち上がり呟く。
「で、向こうの出方はどうなんだ」
「どうも俺たちと和解する気はないらしい」
「ハッ、勝手に余所からのこのこやってきてうちのシマ荒らすような奴らと、和解だと、宇藤」
「……」
甘く垂れた瞳に冷たい炎を宿し、晴市は宇藤を睨みつけた。彼は、無言で曖昧に首を横に振る。
「もちろん灸は据えるべきです。ただ、このまま決裂なんてことになったら抗争になりかねない」
「甘いんだよ。なんで被害者の俺たちが向こうの機嫌を取らなきゃならない?」
これ以上の議論は無駄だと判断し、晴市はコートに袖を通し事務所の部屋を出た。
その後を追う宇藤の、眼鏡の奥の瞳が細められ、やれやれと言うふうにため息をついた。
◆◆◆
横浜駅の郵便局わきに、亜里香は少し遅れてやってきた。
「ごめんなさい、少し仕事が長引いて……」
「乗れ」
車の助手席のドアを開け、亜里香を乗せる。素直に乗り込んだ亜里香の髪を撫でて、晴市はハンドルを握る。
山下公園のほうに向かいながら、晴市はふと、となりに座る亜里香が妙にそわそわしていることに気がつき、横目でちらりと見、なるほど、と思う。
亜里香の膝の上には、晴市が贈ったハンドバッグともうひとつ、ブラウンの紙袋が乗っている。ブルガリ・イル・チョコラートという箔押しに、隠す気がないのかとあきれて笑ってしまう。
ただ、ひとつだけ分からない。なぜブルガリなのだ。
別にブルガリが悪いと言っているわけではないが、いかにもブランドだ。亜里香がブランドの名前につられたとは考えにくいし、むしろ忌避しそうなのに。
「亜里香」
「はい」
「なんでブルガリなんだ」
「……」
赤信号で停まったので、晴市は顔ごと視線を亜里香に向けて、顎をしゃくり紙袋を示す。
亜里香がぽかんとして、次にその白い頬にかっと朱が差した。
「……渡すまではそっとしておいてくれてもいいじゃないですか……!」
「……そういうモンか」
「そういうもんです!」
残念ながら、晴市にはそういった情緒や機微が分からない自覚がある。即物的なのだ。
「で、それは俺にか?」
「……もう!」
左手を差し出すと、亜里香がうなり声を上げて紙袋を晴市のほうに突き出した。頬は真っ赤で、拗ねたように軽く膨らんでいる。
青。アクセルを踏んだ晴市が、紙袋をダッシュボードの上に置く。
「もっかい聞くぞ、なんでブルガリだ?」
「え……?」
「お前らしくない」
「……」
亜里香は、少し黙った。そして、恐る恐るといったふうに口を開く。
「駄目、でしたか?」
「いや。お前からもらうモンなら何でもいい。ただ、お前はブランドに興味ねぇだろ」
「……そごうの催事場で買ったんですけど」
ブルガリに決まった経緯を、亜里香がぽつりぽつりと話しだす。
「いろんなお店やチョコがある中で、どうしても決めきれなくて、困っていたんです」
「……」
「それで、あの、怒らないでほしいんですけど」
「俺がお前に怒ったことあるか」
「ないですけど……」
口ごもる亜里香に、心臓の裏側が妙な焦燥感に駆られる。
言え、とせっつくと、亜里香が意を決したように喉を鳴らした。
「……販売員さんが、ちょっとだけ、ちょっとだけなんですけど、雰囲気が晴市さんに似ていて」
「……」
「それで、晴市さんがこの紙袋を持っているところが想像できて、買いました」
正直なところ面白くない気持ちである。
いくら、晴市を彷彿とさせたからと言って、赤の他人の男を見て購入を決めたなど、まったく面白くない。
亜里香もそれは分かっているのだ、だから先手を打って怒らないでと言った、晴市だってそんなことは分かっているのだ。
しかしそれとこれとはまったく別の話である。
「亜里香」
「っ」
我ながら硬い声が出た、と自嘲する。現に亜里香は怯えている。努めて吐息をなだめながら、晴市は車をホテルニューグランドの駐車場に停めて、降りた。
紙袋はダッシュボードに置かれたままで、亜里香がそれをちらりと見た。助手席のドアが開けられて、諦めたようにシートから身を剥がしたところで、晴市が言う。
「選ぶときに、俺のことを考えたか?」
「……え?」
「答えろ」
「……晴市さんのことしか考えませんでしたよ」
亜里香の履いているハイヒールのトップリフトが地面に触れてこつんと音を立てる。
「仕方ねぇな、許すよ」
「……」
そう言って、晴市はやわらかく笑う。結局、惚れている。亜里香が自分のことを考えて贈り物を選んでくれたことが、うれしくて仕方がないのだ。
◆◆◆
ホテルニューグランドでフレンチディナーを楽しんだあと、ふたりはそのまま晴市が予約していた、本館ではなく別棟であるタワーのほうの部屋に向かった。晴市の手には、ブルガリ・イル・チョコラートの紙袋が提げられている。
ベイビューのこの、すべての景観アイテムがかちっとはまる景色は、実は高層の部屋では得られないものだと事前に知らされていたので、あえて中層階を選んだ。
案の定きらびやかな夜景に目を奪われている亜里香を、晴市はやはり理解ができないままにほほえましく目を細める。
「亜里香」
甘やかすために名を呼ぶ。亜里香は名を呼べば、いつもうれしそうに儚く笑って振り返る。
いとおしい、と思う。
言語化すればするほど、感情は月並みで陳腐なものに落とし込まれていくと知っていても、晴市は胸中を声に出さぬまま型にはめてしまうことをやめない。
亜里香のことは、知らないことのほうが多い。たとえば過去に彼女の心を踏み荒らした男のことだとか。
けれど、些末なことだった。昔何があったとしても、今亜里香は晴市のものだ。晴市だけのものだ。誰にも渡さない。
「お前が食わせてくれよ」
ベッドに腰かけ、紙袋を軽く掲げて見せると、ぱちぱちと瞬いてそれを受け取った亜里香が、となりに座り首を傾げて晴市を覗き込んでくる。
「どうやって?」
「箱を開けて、中身を出して」
晴市の指示通りに、紙袋から箱を取り出して開け、四粒の行儀よく並んだチョコレートをあらわにする。
「どれがいい?」
「え……晴市さんはどれがいいですか?」
「じゃあ、このロゴのやつにすっか」
一粒指差す。亜里香が、細い指でそれをつまんだ。晴市の口元に持ってこようとするのをとどめる。
「そうじゃねぇだろ」
「……?」
「お前のその可愛い口は飾りか?」
「……、……!」
ようやく晴市の意図を理解した亜里香が、目を白黒させて顔を赤くする。
ややあって、どうあがいても逃してもらえないことを察した亜里香が、意を決したように自分の口にチョコレートを咥え、そっと顔を近づけて傾けた。
震える甘い唇を丹念に味わったあと、晴市は、少し汚れた小さな口を親指で拭い、囁いた。
「ホワイトデーまでに覚悟決めとけ」
「……え?」
「めちゃくちゃに甘やかしてやるよ」
来月のホワイトデーは土曜である。金曜の夜をともに過ごせば、問題ない。
翌日、自宅まで送られて車を降りようとしたところ後部座席を見るように促された亜里香は、ピンク色のバラのブーケバスケットを発見することになるのだが、本人はまだ、それを知らない。
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