引き留めてほしい


 三月十三日の夜、亜里香はいそいそとロッカー室で服を着替えていた。
 勤務中に履いている着圧ハイソックスを脱ぎ、ナース服を脱ぎ、テッドベーカーのワンピースに袖を通す。ペールピンクのトップにジャガード織りのスカート部分が華やかなドレスは、亜里香の青白い肌色によく似合う。
 靴下の締めつけ跡を気にして擦りながら、同じくテッドベーカーの黒いコートを着て、プラダの赤いハンドバッグに必要最低限の荷物を詰め、そそくさとロッカー室を後にする。
 何か言いたげな、つつきたげな阿川やほかの同僚の視線をかいくぐるのは心が痛むが、晴市との約束の時間に間に合うかどうかのギリギリの時間なので、無視するほかない。
 自分が分不相応な服を着ている自覚はある。正直、着られている、という感覚が強い。
 でも、着ると晴市が喜ぶから。せっかく晴市が亜里香に似合うと買ってくれたものだから。一番優先すべきは、亜里香自身の自尊心ではない。
 いつもの、横浜駅の郵便局の脇道で、晴市がパーキングメーターに停めた車にもたれかかり煙草に火をつけようとしていた。

「晴市さん」
「おお」
「……晴市さん、ここは喫煙禁止指定地区です」
「……お前は煙草に厳しいな」

 苦笑いして、煙草をシガーケースに戻す晴市に、自分はそんなに厳しかっただろうか、と首を傾げる。

「買い物行くか」
「え、でも」
「亜里香、明日が何の日か覚えてんだろ?」
「……」

 軽く唇を噛む。たしかに、一ヶ月前のバレンタインデーに、ホワイトデーはめちゃくちゃに甘やかすと宣言された。だが、それが物質的なものだとは思っていなかった。
 完全にゼロになったわけではないが頻度が激減したプレゼント攻撃が再開されてしまうのか。
 晴市にもらったものを手放すことは一切考えていないため、亜里香はそれらをどうしようか今、大変に思い悩んでいる。

「……どこに行くんですか?」
「そうだなァ……とりあえず、今日は顔周りが寂しいな」
「へ?」

 耳たぶをくすぐられ、そこで初めて亜里香は自分がティファニーのネックレスしか身に着けていないことに気がついた。

「せっかくネックレスがティファニーだから、イヤリングも……ああ、いや、ダメだ」
「え?」
「ティファニーにはピアスしか置いてなかったよな」

 そういえば、先日このネックレスを選ぶ際、ほんとうは耳飾りを選ぶつもりで晴市は店に入ったのに、ティファニーには穴を開けないタイプのものの用意がなかったのだ。
 よく覚えていたな、と思うと同時に、ほかの曜日の女にも、ピアスホールがない女がいるのかもしれないな、と思った。

「でもせっかく可愛くしてんのに、耳元が寂しいなァ」
「……」

 困った。せめて晴市が、横浜駅周辺にあるブランドジュエリーショップの中でも安価な価格帯の場所を思いついてくれることを祈りながら、考え込む彼を祈るような気持ちで見つめる。
 ややあって、晴市は亜里香をじっと眺め、呟いた。

「今日のワンピースなら、パールが似合いそうだな」
「……」
「ミキモトでも行ってみるか」
「…………」

 安く済む予感がまったくしないので、亜里香はかろうじてため息をつくのはこらえ、そごうに向かう晴市のあとを追った。
 結局、亜里香の一ヶ月の給料が吹き飛ぶような値段のイヤリングを贈られ、背筋が凍るような気持ちでお礼を言う羽目になるのである。
 服や装飾品に驚くほど興味のない亜里香にとって、耳元をきらびやかに見せるためだけにこんな大枚をはたく理由は理解できない。晴市も、少し観察すれば亜里香が喜んでいないことなど分かりそうなものだが。
 けれど、きっと、亜里香が喜ぶ喜ばないは関係ないのだ。晴市のとなりに立つには、これくらいのものを身に着けていないといけないのだ。となりに立つ女の身なりが、瀬戸晴市という男の価値を決めるのだ。
 それに、おそらく。
 亜里香は特に贈り物自体に感慨を抱かないが、きっとほかの曜日の女は違う。こんな極上の男に惜しげもなく高級品を贈られればうれしいに違いない。
 自分も、贈られたものを素直に喜べればどれだけよかっただろう。
 亜里香にだけではない贈り物、晴市の矜持のための贈り物、そんなものは、気持ちのこもっていない贈り物は、うれしくない。
 けれど、それを言うことはもちろん顔に出したりもしない。亜里香が、それでいいと決めたのだから。

「ん、可愛いな、似合ってる」
「……ありがとうございます」

 亜里香は、贈り物よりも何よりも、今この瞬間放たれた「可愛い」「似合ってる」だけは自分に、自分だけに向けられたものだと確信できるから、それがうれしい。
 晴市にイヤリングを着けてもらい、停めていた車に乗る。
 着いた先は、シェラトンの駐車場だった。そして連れてこられたのは、レストランではなくシーウインド、つまりロビーラウンジだった。

「……?」
「今、苺尽くしのブッフェやってるんだそうだ」
「……苺」
「好きだろ?」

 最近コース料理のデザートが苺のものになることが増えた。それに頬を緩ませているのを、晴市は見ていたのだろう。
 片眉を上げて、好きだろ、と聞く晴市に頷いて、思わず笑みが零れてしまう。
 好きな人に好きなものを覚えておいてもらえることの幸福。

「……晴市さんは食べないんですか?」

 ブッフェメニューを、好きなものを、しかし晴市にあきれられない程度の絶妙な匙加減で皿に乗せて席に戻ると、彼の前には苺の使われていないサイドメニューのサラダとコーヒーがあった。

「どうも気が引ける」
「え?」
「さすがに、こんな厳つい男がピンク色のケーキを皿に乗せんのはなァ」

 晴市は甘いものが嫌いなわけではないと思う。いつも食後のデザートを残したり、亜里香に寄越したりしているということはないし、バレンタインデーのチョコレートも食べた。
 とすると、やはり言葉通りの理由から自制がはたらいたのだろう。ほんとうは晴市も、少しは食べたいのだろうか。それにサラダだけでは腹が満たされない。
 亜里香は少し考えて、ムースをひと口スプーンですくい、晴市の前に差し出した。

「どうぞ」
「……」
「甘くて、美味しいです」
「お前まだ食ってねぇだろ」

 馬鹿にしたように鼻で笑いながら、晴市は素直に口を開けて亜里香のほうに身を乗り出し、スプーンを迎え入れた。
 咀嚼するまでもないムースをすぐに飲み込んで、晴市が言う。

「ほんとは上のラウンジのブッフェに連れて行ってやりたかったが、夜はやってねぇんだよな」
「そうなんですか。……でも、じゅうぶんうれしいですよ」

 その言い草からして、おそらくスカイラウンジのほうがメニューが充実しているだとか、そういった利点があったのだろう。
 けれど、亜里香は晴市が自分の好物を覚えてくれていた、そして自分には似合わないだろうと思いつつも連れてきてくれた、それだけでよかった。
 そもそも亜里香は、美味しいものは好きだが食事に執着がない。忙しかったり気分じゃなければ食事を抜くことも平気だし、食費節約のため職場に持参している弁当の中身も、毎日変わり映えしない。

「……ありがとうございます」

 うれしくて、今日何度か口にした礼の言葉の中でも一番、心の底から出たそれを、晴市は満足そうに聞いていた。

 ◆◆◆

 晴市の腕の中で、亜里香は少しまどろんだ。
 汗ばむ額に散らばる髪をよけて丁寧に梳き口づけを落とす晴市に、亜里香はとろとろと甘ったるい気持ちになりながら、喋りだす。ああこんなこと言いたくないな、と思いながら。

「あの、……来週の金曜は、用事があって」
「用事?」
「実家に帰るんです。泊まりで」
「お前、地元どこだ?」
「福岡」

 ふうん、と晴市が唸る。

「だから、会えなくて……」
「分かった」

 あっさりと承諾されて、亜里香は、言ってしまおうかどうしようか、悩んで、結局口を開く。
 亜里香だって、わきまえていたって分かっていたって、所詮はひとりの人間で、好きな人に愛してほしいのだ。
 だってここを逃したら、きっともう。

「……お見合いするんです」
「…………」
「私、両親が離婚していて、母に引き取られたので父は今どうしているか知りません。母は、そのまま地元の資産家の愛人をして、その方の奥様が亡くなってから正式に結婚して、私たち母娘は長い間その方に生活の援助をしてもらっていて、なので、お世話になった方なので、彼が持ってきた縁談を母も私も断れなくて……」
「…………」

 怖かった。
 自分の未来が血もつながらない義父に決められることがではない。晴市にこのまま「分かった」と言われ手を離されてしまうのではと思うと、心が凍ったように冷たくて、怖かった。
 晴市は何も言わない。だから亜里香の口も止まらない。

「私のほんとうの父は、母や私に手を上げ、家の金を持ち出し、よそで女をつくって、あげくそのうちのひとりを妊娠させて母を捨てました。だから、義父に母は随分と救われて、断れない、と言うよりは断る気がないのかも」

 幼い頃に離別した、母や自分に手を上げた父のことを思う。
 あんな下種な男に比べれば、いや、比べること自体が失礼ではあるのだが、晴市はひどく紳士だ。亜里香には絶対に手を上げず口調も荒らげないし、力で亜里香を征服しようともしない。
 たとえ亜里香やほかの女をツールとしてしか見ていなくとも、それでも道具を丁寧に扱う。

「……来週の金曜」
「……?」

 晴市が、長い沈黙を破った。

「もしお前がお袋さんや、その世話ンなった親父さんを捨てる覚悟があるんなら」
「……」
「俺がお前を攫ってやる。覚悟があるなら、だ」

 思わず晴市の顔を見た。垂れた目が、強い意志を持ってぎらぎらと輝いていた。

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