誰のものに手を出した?
晴市という男の仕事の都合上、どうしたって他者との衝突は避けられるものではないし、それにより積もり積もった怨恨が彼自身に向かうとは限らないのが悩みの種だ。
横浜を拠点とするマフィアのドンが一般人の女にご執心。そんな噂がひそひそと敵味方内外で囁かれているのを知らない晴市ではない。
煙草の煙を吐き出す。そのため息のような呼吸に、椅子にしていた男がびくりと震えた。
「おーおー、まだ動けんのか。血気盛んな奴は嫌いじゃねェぜ」
吸いかけの煙草の先端を男の頬に押しつける。永久歯の数本飛んだ口から、絞り出すような悲鳴が漏れた。
その一報が晴市の耳に入ったときにはまだ、因縁は確固たる形を持っていなかった。
最近潰したギャングのトップが瀬戸晴市の近辺を嗅ぎ回っていると部下から聞いたとき、晴市は少し嫌な予感を覚えたのだ。
自分の行動パターンを調べて夜襲でもかけるつもりならまだいい、返り討ちにするまでだ。しかし、ストーカーよろしく粘着された際に確実に、亜里香のことは知れているだろう。
加えて、件の男は少々狐めいた狡猾なところがある。大してよろしくもない知能で、頭脳派と言ってはばからない。
晴市に腕で勝てないと分かっている場合、彼に一泡吹かせるために相手が何をするかなど、考える間もなく明白である。
「た……すけ……」
「ア? 聞こえねえなあ? なんつった?」
命乞いして頭を擡げた男の髪を掴み、その額を思い切りアスファルトの地面に叩きつける。およそ、人間が奏でるとは思えない音を立てて、声もなく男が沈み込んだ。
宇藤――晴市の側近を務める男は倉庫の入口を見張るように立ち見物しながら、まあ自業自得だな、とぼんやりと考えている。
なんせこのチンピラ風情は、あろうことか晴市のお気に入りの女を攫おうとして、彼女の仕事場付近で待ち伏せをしていたのだから。
その手が、今まさに仕事を終え夜の街を歩き出そうとした亜里香の腕を掴まんとしたところで、あっさりと晴市の息のかかった男たちに取り押さえられ拉致されて、この埠頭のひとけのない倉庫に連れてこられたわけであるが。
待ち構えていた晴市の顔を見たチンピラは、自分がようやく、絶対に手を出してはいけないところに手を伸ばしてしまったことを察した。
爪を剥がされ歯を抜かれ、足を変な方向に折り曲げられてあちこち根性焼きの痕を残された虫の息の男は、ようやく自分にのしかかっていた体重が退いたことにほっと安堵した。
「……もしもし」
晴市が煙草をふかしたまま電話に出る。
亜里香は、毎晩帰宅すると晴市に電話をするよう言いつけられている。声が聞きたいんだよ、と言われてしまえば彼女は従うしかないし、その真意が安否確認であるなんてことは、彼女が知らなくてもよいことだ。
今家に着きました、と耳元で鈴を転がすように言われ、男の垂れた目がさらに垂れる。
「そうか。変わったことはなかったか」
『いいえ? 何もありません。あ、でも今日は変な方がいらして……』
「変?」
『ああ、でも、仕方ないんです。少しお尻をさわられたくらい』
「あぁ?」
晴市の顔から表情が抜け落ちる。
自分の女の尻を少し触った見も知らぬ馬鹿男にはらわたを煮えくり返らせて、衝動のままに目の前に芋虫みたいに転がる男の腹を蹴り飛ばした。
「そうか……亜里香はべっぴんさんだからな、気をつけろよ」
『ふふ、そんなこと言ってくれるの、晴市さんだけ。うれしい』
「んなこたねぇよ、周りの男も言いたいけど言えねえだけだ、照れてンだよ」
穏やかな表情で左手にスマートフォンを持ち、右指に挟んだ煙草を男の顔に落とす。避けたかったが、もう指一本も動かせずにいた男は、落ちてくる火元を殴られてもうほとんど開かない目元にもろに食らった。
瞼を焼かれるあまりの激痛に身体は反射的に悲鳴を上げようとするが、それを晴市が許さなかった。革靴の底で、口を蹴り塞いだのだ。
くぐもった悲鳴が、倉庫にこだますることもなく革靴に吸い込まれる。
「そうだ、亜里香」
『なんですか?』
「今週の金曜、夜空けとけよ」
『え?』
「お前こないだ、次は中華がいいっつったろ。美味い店に連れてってやる」
ぐりぐりと男の顔を足で踏みにじりながら、晴市は何でもないようにやわらかくそう誘う。ほんと、うれしい、とはしゃぐ電話の相手に、とびきりの甘い笑みを零し、靴の裏で歯が折れる感触を覚える。
『あっ、えっと、ドレスコード、あるお店?』
「あぁ……そうだなァ……まあ、イイコに可愛くして来いや」
『そんなのじゃ分かんないですよ!』
「いいんだよ、俺がルールだ、俺がいいって言やあそれでいいんだよ」
『もう……』
残業、しないようにがんばります。
そう言って、弾んだ声を隠しもしない亜里香に、おやすみと、リップ音を立てた。彼女が、照れたようにおやすみなさいと返して通話を切った。その余韻をたっぷり楽しんでから、スマートフォンを耳から離す。
「ボス、そろそろ」
「ああ」
宇藤に声をかけられ、晴市は新しい煙草に火をつけてしゃがみ込んだ。ほとんど息をしていない男が、それでも気配を感じ取って敏感に身を竦ませた。
「さて……どうする? テメェが選べる道は二つに一つだ。ここで死ぬか、海で死ぬか」
「…………」
「俺の女に手を出そうなんて思いついた自分の低能を恨むんだな」
宇藤には分かっている、これは、見せしめだ。未遂で済んだのにバラすのは完全にやりすぎである。ただ、未遂でここまでするのは、諸刃の剣のきらいがある。一部の馬鹿を委縮させる効果はあるだろう、ただ、あの女にはそれほどに彼を動かす力があるのだと知れてしまう。
苦痛と絶望でもはや返事もできないでいる男に、晴市は容赦なく、亜里香との通話中は音をスマートフォンに拾われては困るということで出していなかったものを懐から取り出し、男に向けた。
◆◆◆
「ん〜!」
「ほんと、お前は美味そうに食うな」
小籠包を口いっぱいに頬張る亜里香を、蕩けるような笑みを浮かべて見つめる晴市は、自分の皿の小籠包をこれも食えと彼女の皿に置いた。
「駄目! 太っちゃいます」
「むしろもっと肉つけろ」
晴市は、食が細く何かに熱中すると食事を忘れる亜里香のことを心配している。最近ましになってきたが、細すぎて抱き心地が少々悪いのだ。
肉をつけろ、と言われた亜里香は、きょとんとしてから少し黙り、自分の腹を見下ろした。そして顔を上げる。晴市はぎょっとした。
亜里香の眉は八の字に下げられ、わずかばかり涙目になっていたからだ。
「どうした、腹いてえのか」
「……晴市さんは、もっとこう……ナイスバディの女の人が好きそうですもんね……」
「……」
「どうせ私は貧相な身体ですもんね……」
思わず、ついていた頬杖を解いて身を乗り出した。
彼女がこうして露骨に自分と晴市が釣り合わないと気にすることは、ほとんどない。いつも控えめにほほえんで、晴市の行動には一切口を出さないような女なのだ。
胸と尻はでかいほうがいい、それは否定しない。だがそれ以上に亜里香のことが好きなのだと、どうやったら分かってもらえるのか。
しばし考えて、晴市は口を開いた。
「気にすんな。お前は俺が育ててやるよ」
「……」
むい、と尖らせたその口元に、冷ました小籠包を入れたれんげを押し当てる。素直に口を開ける亜里香に、餌づけしている気持ちになりながら笑う。
それは、これから先も一緒にいてやるという、この先もその肌に触れるのは自分だけだという、些細な独占欲と永遠の誓いを兼ねたもののつもりだった。
亜里香は点心を口いっぱいに頬張りながら、幾度か何か言いたげにして、口の中のものをようやく嚥下する。
「晴市さんは、変わってますね」
「何がだ」
「紫の上にするには、とうが立ちすぎです」
「……なんだ、それ?」
「あれ、源氏物語、ご存じないんですか」
話くらいは聞いたことがある。なんなら、お飾りで通っていた学校の授業でも少し触れただろう。だがあいにくと、造詣は深くないしたぶん晴市の今後の人生になんの役にも立たない。
「知らねぇな」
「晴市さんにも、知らないことがあるんですね」
「はは、そうだな」
知らないことだらけだ、そして知らなくても生きていけるのだ、この世界では。
けれど、亜里香のことならなんでも知っておきたいと思うくらいには、惚れている。
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