贈り物にはご注意を


 晴市はよく、亜里香に物を寄越す。
 横浜の狭い六畳間で、亜里香は途方に暮れていた。

「どうしよう」

 ひとりごちる。
 亜里香は元来、物を多く所有しないたちだ。狭いながらに、必要最低限の家具を置いた以外はすっきりとしている部屋は、六畳のわりに広く見えるくらいだ。
 亜里香が眺めているのは、その六畳間ではなく、そう大きくもないクロゼットの中なのだった。
 かしこまった席のためのスーツが一着と、通勤用のシャツとスカートが数枚。それから、休日に遊びに行くための洋服が数枚。
 ミニマリストと驕るつもりもないが、亜里香はあまりファッションに興味がなく、私服を合わせても上下合計して二十着も服がなかったのだ。過去形である。
 今の亜里香のクロゼットの様相はどうだ。きらびやかな服がいくつもいくつもハンガーにかけられ、自分の給料では絶対に買えないような値段の鞄がいくつも鎮座している。
 ちら、とクロゼットの中につくった小さな本棚の上のアクセサリスペースを見る。
 亜里香はあまりファッションに興味がない。なので、ネックレスやイヤリングといったものは、所有していなかった。過去形である。
 ハイブランドのネックレスやイヤリング、ブレスレットが所狭しと並んでいる。

「うーん」

 正直に言って、困る。
 通勤にこんな高級品を身に着けていくわけにいかないし、鞄も同様である。そもそも鞄は、いったい何が入るのだと言わんばかりの小さなものばかりだ。
 晴市と会うのは決まって金曜だ。金曜、亜里香は、朝から苦心して紙袋に着替えの服一式やアクセサリ、そして鞄を突っ込み、仕事が終わったあとロッカー室でこっそりと着替えるのである。
 そんな、亜里香の細やかな心遣いの話は今はいい。
 つまり、増えすぎなのである。増えるペースが速すぎるのである。
 デートのたびに高級ブティックに連れ込まれて着せ替えられて、気に入ったらその場でタグを切られ着たまま購入を済ませる晴市は、加減というものを知らないらしい。
 今日こそは、部屋が散らかってしまうのでちょっと抑えてくださいと進言するほかない。それが、晴市の矜持にかかわろうともだ。

 ◆◆◆

「ア?」

 その、たった一音の返事に、言わなければよかった、と亜里香は秒速で後悔する。
 金曜の夜、通常ならば閉店作業が始まっている時間帯に、晴市は亜里香を高級ブティックに連れ込んだ。
 亜里香の仕事は、ある意味で接客業である。なので、閉店間際に飛び込んでくる客がいかに疎ましいかを分かっている。
 しかしブティックの店員たちはそんな様子をおくびにも見せないで晴市に恭しく頭を下げる。
 そして、これはまずい、と亜里香は思う。また服を一着、悪ければ二着、三着と買い与えられてしまう。

「晴市さん、あのですね」
「おう。これなんか似合うんじゃねえか」
「これ以上、お洋服を買ってもらうわけにはいかないです……」
「ア?」

 選択を誤った、と亜里香は背筋を凍らせる。低い不機嫌な声に、時間を巻き戻せるなら一分、いや三十秒いやいや十秒でいいから巻き戻したい、と切に願う。
 普段ならその垂れた目は甘ったるく自分を見るのに、今は不穏に細められている。

「どういうことだ」
「あ、えと、その……ええと……」
「言え、亜里香」
「…………クロゼットが、狭くて……」

 観念して、亜里香は口を割る。

「それに、こんなにたくさん買ってもらっても、晴市さんと会うとき以外に着ないし……」
「ったりめぇだろ俺以外の奴に着飾ってどうする」
「ですから、その〜……宝の持ち腐れと言うか……こういうのは、もっと喜ぶ方に買ってあげたほうが……」
「……」

 晴市が眉を寄せ、怪訝そうな顔をした。それに不思議に思うものの、これは亜里香の本心であるので、どうしようもない。
 しばし、男は考え込むようなそぶりを見せたのち、ため息をついた。

「亜里香、あのな」
「あっ、でも、お気持ちはほんとうにうれしくて……! だから、お気持ちだけ……いただきます……」
「……分かったよ」

 額を押さえた晴市が、余った片手で亜里香の肩を抱く。どうやら、説得は成功したようである。
 ブティックを出て車の助手席に座らされた亜里香は、そっととなりの運転席に座る男を見た。
 夢をみているような男前だ。すっと通った鼻筋に、甘く垂れた目尻、薄い唇、そのすべてが絶妙なバランスで顔の上に乗っている。

「……あの」
「ん?」
「海が見たいです……」
「……」

 晴市が無言でハンドルを切る。山下公園のほうに向かってくれている、と気づいたのは、ジャックの塔が見えてきた頃だった。
 夜の日本大通りは、レトロな建物が立ち並んでいるだけあって、雰囲気は抜群に良い。
 近くのパーキングに車を停めて、晴市が助手席のドアを開けてくれる。いつも、晴市は絶対に路上駐車をしない。亜里香にはそれが不思議でならない。
 だって彼のお仕事に比べれば路上駐車くらいかわいいものだ、きっと。
 とは言え具体的に晴市が何をしているのか、亜里香は知らないのだけれど。

「足元気をつけろよ、お姫さん」
「はあい」

 ハイヒールに慣れていないことがすっかりばれてしまっている気がするが、それにしたって晴市が贈ってくれる靴は踵の高いものばかりだ。そういえば、靴箱もあふれ返りそうになっているのだった。

「海、久しぶりに来ました」
「横浜に住んでるのにか」
「うーん、こうして、見ようと思って来るのが、久しぶり?」
「ああ」

 横浜駅ですら、少し歩けば海に当たる。それでも、漫然と目の前に広がっているのと、こうして海に行こうと思って来るのとでは、大きな違いがある。
 ほんとうに、姫や令嬢にするように丁寧に手を取られてエスコートされながら、公園のベンチに座る。
 となりに腰を下ろした晴市の肩に、亜里香はそっと頭を預けてみた。

「晴市さん」
「ん……?」
「……呼んだだけ」
「ハハッ」

 馬鹿にするように笑われて、ぶわり、と顔に熱が溜まるのを感じた。それは、嫌悪からではなかった。
 晴市の腕が、腰に回される。それをきっかけに、亜里香の身体はますます彼に密着し、少し肌寒い気温の中で体温を分け合う。
 亜里香は思う。彼の身体が熱いのが私の気のせいでなければいいのに、と。

「冷えるな」
「もうすぐ十月ですもんね」
「お前は無駄にあったけえ、湯たんぽみてえだ」
「……晴市さんの口から湯たんぽなんてかわいい言葉が聞けるなんて」
「俺を何だと思ってやがる」

 晴市の手が少し持ち上がり、亜里香が着ていたノースリーブのワンピースから剥き出しの肩に触れた。冷えてきた、と呟く。

「もういいだろ、風邪引く前に、戻るぞ」
「うん……もうちょっと」
「馬鹿野郎」

 晴市がスーツのジャケットを脱いで、亜里香の肩にかけた。ふわり、と彼の使っている香水の香りに包まれて、皺になるなと思いながらも、そのジャケットを握りしめた。
 身体は海風で冷えているのに、頬が、顔が熱い。ごまかすようにうつむいて、晴市が差し出す手に応じた。
 車の助手席のドアを開けて、亜里香がそこに入るのをエスコートしながら、晴市が耳元で囁いた。

「シェラトンの部屋取ってる」
「……!」

 露骨な誘いだが、晴市がやると様になってしまうのが困りものである。
 先ほどから熱くなっている頬を更に紅潮させ、亜里香はこくりと頷いた。
 車は、横浜駅の方面に向かっている。当然だ、ベイシェラトンに向かっているのだから。
 ふと、亜里香は昨晩シャワーを浴びたときのことを思い返す。こうなるだろうと思っていたから身体は隅々まで磨いたはずであるのだが、それでも何か不備がある気がしてならない。
 亜里香がそわそわしていると、となりで運転している男がくつくつと笑う。

「期待してんのか」
「なっ、べ、別に、違う」
「しろよ」
「えっ」
「期待しろ。最高の夜にしてやる」

 思わず顔を上げて運転席を見ると、赤信号でブレーキを踏んだ晴市は、思いのほか優しく、そして燃えるような瞳で亜里香を見ていた。
 甘ったるいとろんと垂れたその瞳の奥に確かに燃える情欲に、背筋が震える。
 この極上の男に、今から抱かれにゆくのだ。彼に贈られた服を脱がされ、彼に贈られ彼のために引いたルージュを汚され、自分でも知らない奥の奥まで暴かれる。
 じわ、と熱が肌から滲んで蒸発し、それはしっかりと彼に伝わる。
 金曜の夜は、いつも、心臓が壊れる。これは自分だけの感覚だろうか? 月曜や火曜の女たちは、こんなふうに惑わないのだろうか? 彼に見合う大人の女なのだろうか?
 干渉したい、でも、してはいけない。
 なぜなら私は、わきまえている。

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