てのひらで踊らせて
うつくしい、けれど決して華美すぎることのない品の良い調度品に囲まれて、まだ少女と呼んで差支えない純朴さを保つ女が、ほうとため息をつく。
それを向かい側の席に座って両肘をつき指を組んで口元に笑みを刷いた男が、ほほえましく見つめている。
「亜里香、誕生日おめでとう」
甘い低い声が鼓膜を震わせて、女はくすぐったくてはにかんだ。今日、亜里香は、ようやっと大人の仲間入りを果たす。
初めて飲んだ微炭酸の酒。高級ホテルのレストランでの個室ディナー。誰にも邪魔をされない空間で、目の前では極上の男がほほえんでいる。
瀬戸晴市。横浜の裏社会で彼を知らない者はいない、人様には到底言えないお仕事で生計を立てている男だ。
二十九歳の若さで横浜を牛耳る立場にいる彼は、目の前のシャンパングラスにその長く節くれだった指を伸ばし、そっとつまんだ。女と同じグラスを持っているのに、まるで大きさが違うかのように見える。
ひと口グラスの中身をあおり、晴市はその甘く垂れた目尻をさらに垂れさせて、首をわずか傾げて見せた。
「上に部屋を取ってあるんだ。泊まっていくだろ?」
「……はい」
亜里香は思う。彼のことだ、きっと最上階の一番いい部屋を押さえているのだろう、と。
とくとくと、心臓がにわかに早鐘を打つのを他人事のように聞きながら、亜里香はデザートのタルトにフォークを伸ばした。三つ又が硬い生地を割り、皿とフォークの当たる音が個室に響く。
最初はマナーだなんだとがちがちに固まっていたのだが、晴市の、個室だから誰も見ていない、俺に美味そうに食べているところを見せてくれれば食べ方なんてどうだっていい、という甘い言葉に操られ、すっかり気にしなくなっていた。
タルトを口に入れると、甘酸っぱいベリーの味が口いっぱいに広がる。思わず浮かべてしまった笑みを、晴市は甘やかな瞳を細めて見つめていた。
「出るか」
食べ終えて、少し落ち着いたところで晴市が声をかけ立ち上がる。合わせて立ち上がった亜里香が、慣れない高いヒールによろけたのを見て取ると、彼は急いでそちらに寄り、その腰を支えた。
腰に回されたしっかりと太い腕にどぎまぎする亜里香は、ごまかすように目を閉じてその腕に軽く体重を預ける。
「甘えるんじゃねえよ、自分で歩け」
言葉とは裏腹に、晴市の腕はさらに強く腰を掴む。そして亜里香は、ここにはふたりしかいないのに声を潜めて耳元で笑い混じりに囁く男のその低い声色が、ご機嫌であることを表すのだと知っている。
たったグラス一杯のシャンパンを飲んだだけで、亜里香はふわふわと、まるで自分の身体が自分のものではないような心地になっていた。
レストランを出て、腰を抱かれたままホテルのエレベーターに乗る。予想通り、最上階のボタンを押した晴市にくすくすと笑うと、ちらりと睨むような視線が流れてきた。
「なんだ?」
「ううん、一番いい部屋取ってくれたんですか?」
「自分の女のハタチの誕生日だぞ、生半可な部屋で済ませようなんて俺のプライドが許さねえよ」
スーツ越しに、たくましい胸板に頭を預けて擦り寄ると、ぐっと腰を強く抱かれて靴の踵が浮き上がるほど持ち上げられ、優しいキスが落ちてくる。
ついばむようなそれに、頬のほてりを隠せぬまま応えると、その熱い頬にもう片方の手が触れた。
「あっちィ」
馬鹿にしたように笑う。それすら、この男に惚れ込んでいる女からすれば、ときめいてしまうのだ。
部屋に入るとまず目に入ったのは、港の風景だった。
「わあ、素敵……」
「俺には分からん」
「もう、情緒がないんだから」
「俺はお前が喜んでりゃそれでいいんだよ」
鼻で笑い、スーツのジャケットをソファに脱ぎ捨てる。皺になる、と女がそれを拾おうとしたのを止めて、その手を絡め取られる。指と指を絡ませられて、かっと頬に熱がともる。
「亜里香」
名前を呼ばれ、軽く目を伏せて返事に代える。手から腕、腕から背中に大きな手を滑らせ抱き寄せ、ぐっと力を込められる。俺の半分もない、と彼がいつも言っている身体が、何の抵抗もなく手中におさまった。
抵抗なんてしないし、したところで子猫に引っかかれた程度にも痛くないのだ、彼にとっては。
「誕生日の特別なお前を、俺にくれねえか」
「……はい」
不思議な心地だった。晴市はそんな、誕生日だの記念日だのイベントだのにこだわるタイプには思えなかったからだ。
晴市が亜里香を呼ぶのはいつも金曜だ。だから亜里香は、自分はその曜日の女なのだと思っていた。けれど今日は、亜里香の誕生日である今日は、土曜だ。普段なら呼ばれない曜日。
土曜の女に悪いことをしてしまった、と思いつつ、心は素直にときめいた。
港の夜景を映し込んできらきらと輝く瞳を甘く蕩かせて頷いた亜里香に、晴市の口端が上がる。
「シャワー浴びて来い」
「ん」
数秒、唇を押し当てられて、それから離し口の中に押し込めるように促される。頷いて、シャンパンでふらつく足元を叱咤しながらバスルームに向かう。
バスルームのドアを開けると、驚いたことに壁は一面ガラス張りだった。こんな高層階にある窓など誰も見ていないと理解はするものの気持ちが納得できず、亜里香はこわごわと、窓には近づかないようにシャワーを浴びる。
洗面台の鏡で、自身の身体を抜かりなく検品する。粗相なし。バスローブをはおる。
「あの、晴市さん、晴市さんもシャワー、どうぞ」
ソファに腰を下ろして夜景を見下ろしている晴市に声をかけると、立ち上がり近づいてきて、亜里香の濡れたままの髪の毛に触れる。
「ちゃんと乾かしとけ」
「ん」
「イイコで待ってられるな?」
「……ん」
濡れた髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜられ、目を細めて擦り寄る。ひとしきり構い、シャワールームに晴市が姿を消す。
あらためて、夜景を見下ろす。横浜のすべてを手に入れたように錯覚するほどの埠頭の輝きが、胸を高鳴らせる。
今、シャワーを浴びている男は、この横浜を裏側から掌握している。そのことに、今更ながらに畏怖のような気持ちを抱き、彼は自分の手に負えない、とわきまえる。
亜里香は、正しく分かっている。男がこうして手をかけるのが自分だけではないことを。なんなら、日替わりで違う女を侍らせているのだろうと。
けれど亜里香はそれで良いのだ。たとえあの男が自分だけのものでなくたって、いや、あんな極上の男が自分の「もの」になるなんて傲慢もいいところである。
彼にとって、自分やほかの女はアクセサリであり、おのれの権力を象徴するためのツールであることをきちんと理解している。
先ほども言っていたではないか、プライドが許さない、と。
あまり詳しく裏社会については知らないものの、きっと女に金をかけることは、彼らのコミュニティでは一種のステータスなのだ。
「亜里香」
ふと、名前を呼ばれ、深い思考の海に沈んでいた意識が引き上げられる。
振り返る。乾かせと亜里香に言ったわりには毛先から雫を垂らす晴市が、バスローブ姿ですぐそばに立っている。
「そんなに夜景が気に入ったか? ん?」
「はい、船の光が、とってもきれい」
「そうか」
腕が伸びてくる。そっと、壊れ物を扱うかのような丁寧さで、亜里香のまるい頭に触れる。
「乾かせっつったろ」
「ごめんなさい」
「まあ、いい」
太い腕が腰に回され、ベッドルームにいざなう。抵抗せずにそれに従い、ツインベッドの片方に優しく座らされる。
この男によって、誰も触れたことのなかった身体を暴かれたことはまだ記憶に新しい。数度、身体を重ねるうちに、痛みはすっかり消え失せて快感だけを拾えるようにされてしまった。
晴市によって拓かれる快楽を知ってしまった身体は、彼を求めてやまない。
「亜里香」
男はよく、行為のさなか、亜里香に「可愛い」と言う。「きれいだ」とも。
そうやって甘やかされて蕩かされ、亜里香は言霊のようにそれを鵜呑みにして、可愛く、きれいになってゆく。
朝、目覚めるまでに、何度快楽の海に沈むのだろう。女の甘い淡い予感は、涙の膜となって男の欲を刺激した。
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