幸せであることの代償


 亜里香の細い背中が、海のさざめく音に合わせて頼りなげに揺れている。太陽の光が水面で乱反射して、右目にまぶしい。
 左手を庇のようにして額の上にかざすと、光の中に取り込まれそうだった亜里香の姿がよく見えるようになった。

「晴市さん、寒くないですか?」
「……ああ」

 振り向いた亜里香がにっこりと笑う。笑い返して、晴市はそちらに歩を進めようとした。だが、身体のバランスが取れずにうまくベンチから立ち上がれない。
 それに気がつき、亜里香が近づいてくる。細く、やわい手が差し伸べられた。

「駄目ですよ、急に何でもかんでもやろうと思っても、できません。今リハビリ中でしょう」
「……そうは言ってもなァ」
「……」

 自嘲すると、亜里香は悲しそうに眉を下げた。あの耄碌した闇医者のことだ、気が利かないで、亜里香にすべてを教えてしまったのだろう。
 宇藤はほんとうに加減せずに急所を撃った。そのせいで、晴市の右腕はもう動かない。
 亜里香の細い指が晴市の左頬をそっと撫でる。欄干を握っていたせいか少し冷えていて気持ちいい。

「まったく見えないんですか?」
「いや、ぼんやりと、光の加減は分かる」
「右は?」
「問題ない」

 口の端を上げて見せるが、亜里香の顔色は晴れない。

「私のせいで……」
「いや? お前のせいじゃねぇよ」
「でも」
「むしろ、ちゃんと俺の言うこと聞いて、えらかったよ」

 あのとき亜里香が盗聴器を起動させなければ、晴市は宇藤の言う通り彼の仕掛けた罠に落ちて命を落としていただろうし、亜里香は遠野の掌中に落ちていただろう。
 左手で亜里香の髪を撫でると、きゅっと唇を噛む。

「そんな顔すんな」
「だって」
「お前を守れたんだ、腕の一本や目ん玉のひとつ、安いモンだよ」

 たぶんこういう言い回しは、何の慰めにもならない。それは分かってはいるのだが、晴市の本心だった。
 あのとき。おそらく遠野は、晴市が動けば迷いなく亜里香の頭を撃ち抜いただろう。あの男は、悪い意味での幼稚さが抜けない印象があった。虫の足をもいで笑うこどものような幼稚さを、そのまま大人に備えたような。
 倫理が分からない、その行いの何が悪いのか分からない、そう、本気で思っているような無邪気さがあった。
 遠野は、亜里香が欲しかったわけではなく、彼女を駒にして宇藤の忠誠心を試したに過ぎない。

「なァ、亜里香。お前、ほんとにアレ全部、売っちまったのか」
「……はい」
「あんなに捨てるの嫌がってたのに」
「当面の生活のためなので」
「……」

 亜里香は、晴市に贈られた服や装飾品、鞄などの類をすべて売ってしまったらしい。宇藤が、足がつかないよう仲介に使ったというのが、例のソープ嬢だというからもう笑うしかない。
 どうせあの女のことだ、ひとつやふたつ、くすねて懐に入れているのだろうが、亜里香がそれでいいのならもう晴市にはどうしようもない。

「あ、でも」
「ン?」
「晴市さんに初めてもらった、これだけは取ってあるんです」

 亜里香が左手を掲げて見せた。枝のように細い小指には、晴市が亜里香のために買った初めての贈り物が輝いている。
 左手小指にはめられている、という事実が、晴市の気持ちを波立たせた。

「……右じゃねえんだな?」

 亜里香がきょとんとする。

「……だって、今私幸せですし……逃げないように、って教えてくれたのは晴市さんでしょう」

 今幸せだ。当然のようにそう紡がれ、心が熱くなる。
 左手で、亜里香の右手を包むと、動かない右手を亜里香の左手が包んだ。
 晴市には医療のことは分からないし、術後あの医者に説明を聞いてもよく分からなかったが、もう感覚もないのだ、神経も通っていないのだろう。あたたかさも、亜里香の皮ふの感触も、何も感じられない。
 それでも、右手は亜里香のことをちゃんと、覚えているし忘れない。

「どうだかな、俺はもう横浜の王様ではねぇし、今から行くとこはさみぃし、贅沢な暮らしはできねぇし、なんせ言葉も通じねぇんだ、苦労かけるぜ?」
「……私は、晴市さんが贅沢させてくれるから好きになったわけではないですよ」

 分かってはいるのだ。亜里香が、高級料亭の美味しい食べ物についてはさておき、晴市が買い与えたものなどをまったく有難がっていなかったことくらい。
 分かってはいるのだが。

「晴市さん、あのね」

 動かない右腕を、亜里香の両手が持ち上げた。

「今度は私に、晴市さんを守らせてほしいの」
「…………」

 そう言って、そっと右手の甲に頬擦りし、愛おしげにほほえむ。
 誰だ、この女の顔を、不幸せそうだなんて揶揄したのは。誰だ、この女を、俺がそばにいてやらないと不幸になるなんて傲慢で縛ったのは。
 こんなに幸福そうに、笑うではないか。

「晴市さんが、私を守って愛してくれるみたいに、私が、晴市さんを守って、愛してあげたいんです」
「……やれるもんならやってみろよ」

 船の汽笛が鳴り響く。亜里香が、はじかれたようにそちらを見た。

「そろそろ時間じゃないですか?」
「そうだな」

 亜里香の助けを借りて、立ち上がる。
 宇藤が晴市のために起こした最後の行動は、船のチケットの手配と出国の手続きだった。遠い異国へ、これから海を渡るのだ。
 晴市は、少なくとも抗争が沈静化するまでは横浜にいられないし、こうなってしまった以上、自分の存在は部下たちの混乱を招く。
 晴市は、チャイニーズマフィアとの銃撃戦の末、死んだことになっている。
 ゆっくりと、船着き場に向かう。晴市の動かない右手を握り腕を絡ませる亜里香に、軽く体重をかけ、笑う。

「亜里香、見ろよ。いい船だ」
「ほんとうですね。宇藤さん、どうやってチケット手に入れたんだろう……」

 ふたりで感心してしまう。宇藤はほんとうに良い仕事をする。
 今頃横浜の事務所でくしゃみでもしているんだろうな。そうからかいながら、亜里香と顔を見合わせて笑った。

「そういえば、晴市さんとお昼の横浜を歩くのって、初めてかもしれないです」
「あァ、いつも夜だったしなァ」
「なんだか、新鮮」
「そうか」
「あ、でも病院でお話ししていたときは、いつもお昼でしたね」
「あんなのノーカンだろ」
「え、そうなんですか」
「ああいうのはデートとは言わねぇんだよ」
「ふうん……」

 ◆◆◆

「ボス、郵便と荷物届いてます」
「ボスだァ?」
「……すいません、宇藤さん」

 宇藤はイライラしていた。
 遠野の死体はとりあえずコンクリ詰めにして海に遺棄した。見つかっても足がつかないようにうまくやったつもりである。
 そのせいで、西田亜里香の養父やそのバックについている黒社会を刺激してしまい、横浜とチャイニーズマフィアの全面抗争が勃発したのも今は昔の話である。
 犠牲が一切なかったとは言えないが、宇藤はどうにか持ち前の悪運を発揮して生き延びて、今日も横浜を裏から牛耳っている。
 そんな御託は今はいい。宇藤を悩ませているのは、単純な数字だった。
 優秀な経理が入院沙汰を起こしたせいでそのポストに穴が開き、今月の数字が合わないのである。

「宇藤さん、三万くらい誤差です」
「誤差で済まねえからこうして頭抱えてんだろがクソボケ」
「すんません」

 どうしても帳尻が合わない。誤差で済めばいいが、そうもいかないのが社会である。
 いったん、帳簿から目を離し、宇藤は郵便物に手を伸ばす。ダイレクトメールだのは抜かれているため、宇藤のもとにはほんとうに必要な手紙や荷物しか届かない。
 友好関係を築いている組織からの愛想のいい手紙たちに交じって、一通、奇妙なものがあった。

「……? オイこれ、なんだ」
「はい?」

 その場を立ち去ろうとしていた下っ端にその葉書を振って見せると、彼も首を傾げて、さあ、と言う。

「DMの類じゃなさそうだったんで、とりあえず持ってきたんスけど、やっぱ宣伝ですかね?」
「……」

 宇藤は芸術にはあかるくないので、どこかの美術館などで購入したのだろうそのポストカードの、こちらを見下すような挑戦的な視線を向ける色っぽい美女が、どこの誰が描いた絵なのかまったく理解できない。
 かろうじて、日本画や浮世絵ではないので、ヨーロッパかアメリカの画家だろうということしか分からない。

「でも、一応宇藤さん宛なんスよ」
「……」

 葉書を裏返す。そして宇藤は、ふとその眼鏡の奥の鋭い瞳をやわらげた。

「ああ、俺宛だ」
「? そっスか?」

 ローマ字で書かれた事務所の住所と、宇藤の名前。その上に捺された消印に、宇藤は口角を上げる。
 本来なら差出人の名前が書かれるべきスペースに、たった一文、こう書かれていた。

『赤ん坊を片手で抱っこすんのはキツイ』


 ◆◆◆了

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