愛を込めて形見分け


 底冷えのする冬の夜のことだった。コートのボタンをすべて留め、上からベルトも締め、それでも冷気が服の中に忍び込んでくるような寒さだった。
 宇藤が事務所を出ると、自身の車の前に女が立っていた。

「……何してンだ」
「あらやぁね、せっかく会いに来てあげたのに」
「頼んでねぇんだよ」

 二十年ほど前に、大事な男の持ち物の後処理を任せた、元ソープ嬢だった。正確に言うと、大事な男の大切な女の持ち物の、だ。
 今彼女は、伊勢佐木町で小さなバーを経営している。いわゆる、ママ、と呼ばれる存在になっているのだ。あの頃まだ二十半ばだった女は、あれからいくつもの修羅場をかいくぐり、表情に酸いや甘いを噛み分けた余裕が出て、老けた。それは、宇藤も。
 もう、今年で五十五になる。

「今日は、会わせたい子がいるの」
「お前ンとこの新人なら会わねえぞ」
「やだ、違うわよ」

 けたけた笑うそのしぐさは、あの頃のままだ。宇藤のボスに恋をしていた女のまま。
 宇藤が車のキーを出すと、女は当然のように助手席に乗り込んできた。その図々しさに舌打ちしつつも追い出すことはしない宇藤は、女の店へと車を向けた。

「酒は飲まねぇからな」
「そういうとこ、瀬戸さんと同じで変にまじめだよねえ」
「……ボスは……」

 この女は、西田亜里香の私物をすべて押しつけたとき、晴市と彼女は死んだのか、と静かに聞いてきた。頷いて見せたが、きっと知られている。鋭い女なのだ。「ほんとうに死んだなら、宇藤さんはこういうの捨てそうだけどね」、と言った。
 以来、宇藤は彼女が自分のその推測を誰かに吹聴しないか、ずっと見張ってきた。今のところそれは杞憂で済んでいるのだが。
 二十年経っても、伊勢佐木町はやかましい歓楽街のままだった。様相は随分様変わりしたものの、本質は変わらない。

「さ、さ。今日は宇藤さんの貸し切りなの。入って」
「……」

 と言うか、店に連れてこられたということはやはり、宇藤は訳ありの新人でも紹介されるのではないだろうか。
 女は宇藤が自分に目をつけているのを知っていて、それを悪用している節がある。
 店のドアを開けると、中には男がひとり、カウンターに座っているのみだった。怪訝に思う。そして彼が振り返って、宇藤ははっとした。

「宇藤さん、ですか?」

 どう見ても日本人だが、少々発音に外国人のような訛りがある、まだ少年と言って差し支えのない若い男が、宇藤をじっと見つめている。

「はじめまして。瀬戸恭市と言います」

 口頭で名乗られたにも関わらず、すぐにイチの漢字が想像できた。
 母親によく似た細い眉や、薄い色素の肌や瞳、そして父親によく似た垂れた目のかたち。電話越しだときっと本人と錯覚してしまう、同じ低い声。
 どうしてこの女が、あれとパイプをつないでいる? そんなそぶりはこの二十年間かけらも見せなかった。なぜ?
 横目で女を睨みつけると、肩をすくめた彼女があっさりと種明かしした。

「どうやって調べたのかしらね、瀬戸さんのほうから連絡があったの、こどもが日本に行くから、世話を頼む。って」
「…………」

 ほんとうに、どうやって彼女の連絡先を調べたのか分からないが、与り知らぬところで関係を持っていた。自分の目の節穴加減に苛立つ。

「俺のとこには、定期的に絵葉書が届くだけなんだがなァ……」
「まあ、あなたは大っぴらに愛する息子を預けられはしない立場よ」
「……だな」

 改めて、少年に目を戻す。
 まだ、成人していないはずだ。あの国で両親と幸せに暮らしているはずがなぜ日本の、しかもこんな歓楽街にいて、やくざの自分と会っている?

「お前、俺が誰だか知ってンのか」
「ちょっと宇藤さん、脅さないでよ!」
「……知ってます。マーフィヤでしょう」

 ああ、あの国ではやくざのことをそう呼ぶんだな、と思って、煙草に火をつける。

「父は、右腕が動かなくて、左目もないです。小さな頃からそれが気になっていて、僕、十六歳の誕生日に母に聞きました」
「……」
「母を守って、父は身体を失ったんだって、教えてくれました」
「…………で?」
「父の右腕を奪った人に、会ってみたいと言いました」

 これはまた、随分と時間差で復讐ごっこがはじまったものである。
 おそらく、家では日本語を使うのだろうが、外では当然あの国の言葉で他人と交流しているのだ、どことなく危うい言葉たちに、宇藤はフィルターを噛む。

「会ってみて、どうだ? 憎いか」
「? いいえ」

 きょとんとした少年が、首を振る。

「父や母があなたを憎んでいるのなら、毎年手紙を送ったりしないです。母が父の左手を握って、一緒に字を書いているの、とても幸せそうです」
「……」
「父は右利きだったんですね、僕は日本語が書けないけど、父の字、あまり上手くないの分かります」

 立ち尽くす宇藤の横で、女が動いた。カウンターの向こう側に入って、ジュースをグラスにそそぎ、少年に出した。

「はい、あげる」
「ありがとうございます」
「おい、お前」
「はい」
「……じゃあ何しにここへ来た」

 ひと口ジンジャーエールを飲み、少年は少し考えて、小首を傾げて呟いた。

「あなたが父を撃たなければ、僕は生まれなかったかもしれないので、お礼を言いに来ました」
「…………は?」
「僕の生まれる原因、……えっと、日本語ではルーツって言うんですよね、会いに来ました」

 正確に言うとルーツは英語なんだがな。

「僕が日本に行くって言ったら、父が、宇藤さんによろしく、と」

 頭を掻く。そうまで言われて、あの国にすげなく突き返すわけにもいくまい。
 あの男は全部分かっているのだ。そういう宇藤の弱みを。

「横浜観光はまだだろ、案内してやるよ」

 少年の顔がぱっと華やぐ。僕、あの国から出たことがないので、海外旅行って初めてで、ほんとうはあなたに会うのと同じくらい、とても楽しみにしてたんです、みなとみらいに行きたいんです。つたない言葉で多くを語り、少年は目を輝かせた。

 ◆◆◆

 散々夜の横浜を楽しんで、少年は少し疲れたように助手席に身を投げ出している。
 酒を飲ませるわけにもいかないので、簡単に夜景を楽しみ、まるでデートみたいな道筋をたどり、伊勢佐木町に戻ってきている。

「なあ」
「はい」

 たらふく食べて、安心したような表情で宇藤を見る少年に、何かがこみ上げる。

「お前、俺がお前を殺して海に沈めるかもとか、考えなかったのか」
「……? どうしてですか?」
「俺はお前の父親の右腕を奪った。それをお前がほんとうに恨んでないのかも分からない状態で、不安な要素は潰しておきたいと思うかもしれねぇだろ」
「……でも、しないですよね?」
「お前母親そっくりだな。不幸になる頭してるよ」

 不思議そうに眉を寄せ、少年は唇を尖らせる。骨張った細い指を絡ませて、その顔に見合わない低い声で、うなった。

「……ボスは元気か」
「ボス?」
「お前の父親だ」
「ああ、元気です。今度妹が生まれます」
「……マジで元気だな」

 開いた口が塞がらない。
 たしか、この少年には弟だか妹だかがいたんじゃなかったか。数年前の葉書に、ふたりめが、とか書いてあった気がする。性別は知らないが。

「女の子のきょうだいは初めてか」
「はい。とても甘やかしてしまいそうで、弟と、今から心配してます」
「ハハッ」

 思わず笑った。それから、こんなふうに素直に笑ったのは久しぶりだと思った。
 元気ならそれでいいんだ。
 宇藤はあのとき、たしかに間違えた。だが、それでもできる最善の道を選んだつもりでいる。だから、晴市を撃ったことにそれほど後悔はない。
 けれど、時々やはり夢にみる程度には、罪悪感があった。

「……俺はなァ」
「……?」
「お前の父親を撃ったことを、多少気にしてはいるんだぜ」
「……」
「撃ったこと、と言うか、そんな状況にしちまったことを、だな」

 少年はわずか黙し、窓の外を見て、あ、と言った。

「宇藤さん、雪ですよ」
「お、道理で冷えるわけだ」
「……父が、よろしく以外に、伝えてほしいことがあったの、思い出しました」

 窓の外を見つめたまま、少年は宇藤のほうを見ずに喋る。

「宇藤さんに会えたら、ありがとう、って言ってほしいって」
「…………」

 思わず少年のほうを見た。彼も、視線を感じてか、宇藤に向き直る。
 確実にあのふたりの血を分けたと断言できる儚くも意志の強いまなざしが、甘ったるく揺れていた。
 何がどう転がって、礼なんだか。だから部下に裏切られるんだぞ、ボス。あんたはどこまでも甘いんだ。
 そんな文句が腹の底で渦巻いて、宇藤は何も言えなかった。

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