優しい記憶


 目の前で起きていることが信じられなかった。
 宇藤が肩で息をしながら、まだ遠野の身体に鉛玉を撃ち込んでいる。もうとっくに死んでいると、亜里香の目にも分かった。
 宇藤の手に収まった銃に何発の弾が入っているのか、亜里香には分からない。ただ、頭は妙に冷静に、今遠野の身体に向けて四発目を撃ったことを数えていた。
 斃れた遠野と目が合った気がして、腹底から熱いものがこみ上げた。

「うっ、え」

 何かが焦げたような焼けたような臭いに混ざり、立ち上ってくる血の臭い。
 朝から何も食べていなかった亜里香の胃から戻されるものはなく、ただせり上がる半透明の黄色みを帯びた胃液だけを吐いた。何度もえずいて、すでに胃液すらなくなった空っぽの胃が、それでも痙攣を繰り返している。

「亜里香」

 汗や涙、鼻水と胃液でぐしゃぐしゃになった顔をおもむろに上げると、右腕をかばうように寝転んだ晴市が、亜里香を心配そうに見つめていた。顔の左半分は血濡れて、ひどい様相だった。

「大丈夫か」

 晴市さんのほうが。
 そう言いたかったが、言葉が出る前に再びえずいた。そんな亜里香に、晴市は表情を歪める。
 最後の銃声からどれほど経ったのか、宇藤は未だ、銃を遠野に向けたまま荒い息をついていた。

「宇藤」
「あんたは報いでは死なねえ」
「あ?」
「あんたは! その甘さのせいで死ぬんだよ!」

 それは、数時間前に亜里香がそうであればいいと呟いた願いそのものだった。

「……宇藤、お前は結局どっちの味方なんだ」
「…………、あんたを裏切ったのはほんとうだ」
「……」
「あんたが俺が仕掛けた罠にはまって死ぬのも織り込み済みだった。でも違う」

 宇藤がぐしゃりと顔を歪ませた。

「俺の知ってる横浜の王様は、女のために土下座なんざしねえんだ」
「……」

 おそらく、もう弾は入っていないのだろう。宇藤は拳銃を取り落とす。そばに落ちていた晴市のそれと、軽く重なり音を立てた。

「プライドが高くて傲慢で、気高くて簡単に膝を折ったりしない!」

 咆哮が倉庫に轟く。わんわんと反響し、亜里香は嘔吐で嫌な汗をかいた背中が震えるのを感じた。
 宇藤は晴市に恩義を感じていたわけではない、と、唐突に理解した。
 ただ彼は、晴市という男の生き様が好きで、人間として尊敬していたのだ、おそらく。
 だから亜里香のために膝をついた晴市に、衝動が抑えきれなくなって、それをさせた遠野を撃った。

「……宇藤」
「……なんだよ」
「……」
「ボス……?」

 憔悴しきった宇藤とともに、晴市のほうを見る。右腕の出血部分を押さえたまま、晴市は目を閉じていた。

「晴市さん……?」
「ボス」

 両腕を拘束されている亜里香より、宇藤の行動が早かった。
 晴市に駆け寄り、傷に触れないよう肩を揺する。閉じた目はぴくりとも揺らがない。
 さあ、と全身の血が下りていくのを感じる。

「宇藤さん……」
「まずい、体温が下がってる。呼吸も、脈も遅い」
「それ……」

 冷静さを取り戻した宇藤が、晴市の様子を見て眉をひそめた。それから、亜里香の背後に回り、腕の拘束をほどく。
 抜けた腰を叱咤して晴市に飛びつくと、怒鳴り声が飛んできた。

「揺らすな! 馬鹿!」
「っごめんなさい」
「チッ……今医者に連れて行く、が、この死体もどうにかしねぇと……」

 宇藤の頭の中で目まぐるしくこの状況を打破する最適解を導き出すための計算がなされているのが分かる。
 亜里香はそれをただ黙って見ているしかできないのが歯がゆく、せめて、そっと晴市の冷たい手を握りしめた。
 ややあって、宇藤は晴市を抱き起こし、出口に向かって歩き出す。

「今すぐ医者に診せに行く。西田さん、あんた車の免許は」
「……持ってないです……」
「使えねえな……」

 宇藤もじゅうぶん大柄ではあるが、意識のない大の男を抱えて歩くのは困難なようで歩みは遅い。亜里香は、まったく力にならないと分かっていても、晴市の右側、腕に触れないように彼の身体を支えた。

「言っとくが、救急車は呼べねえし今から行くとこはふつうの病院じゃねぇぞ」
「……?」
「寿町の闇医者ンとこだ」
「ことぶきちょう……」

 ドヤ街として名を馳せているが、最近は簡易宿泊所が多いからか外国人観光客の姿も見受けられる、あの街のことだろうか。
 昔ほど危ない街ではないと聞いたことがあるが、それでも亜里香のようなごくふつうの女には縁遠い場所だ。
 そんな街に、闇医者が。

「……ブラックジャックみたいな……?」

 かろうじて冗談を言ってみる。

「ンないいモンじゃねえ。耄碌ジジイだ」

 が、すげなく返されてしまう。耄碌、って、そんな人に晴市を任せていいのだろうか。
 亀のような歩みで、ようやく、倉庫の入口に停めていた宇藤の車にたどり着く。近くに、晴市の車も停まっているが、宇藤は自分の車を選択した。
 亜里香に、後部座席のドアを開けるよう指示する。
 そこに晴市を押し込み横たえ、宇藤はそのまま運転席に向かう。亜里香が助手席のドアを開け座ったのを確認し、呟いた。

「ついてくるのか」
「……だって」
「……分かってるよ」

 心配だ、心細い、という気持ちは、言わずとも届いたようだ。宇藤が車を発進させる。
 海沿いを走りながら後部座席を気にする亜里香に、宇藤は一言言った。

「あんた、俺を疑わねえんだな」
「……?」
「このままボスを海に捨てて、あんたも山に埋めるかもしれねえ男だぞ」
「……でもしないでしょう?」
「……ほんとに、あんた不幸になるのにうってつけだよ……」

 諦めたようにため息をつき、車は山下公園の手前で左折する。
 石川町の高架下を過ぎて右折し、それから少し複雑に道を進んで、宇藤の車はある一軒のビルの前で停まった。

「ここ……?」
「ああ。ちょっと待ってろよ」

 そう言って、宇藤は車を降りてビルに入っていく。そっと振り返り、亜里香は後部座席の晴市の様子をうかがった。
 静かだ。

「……晴市さん」

 自分の声が震えているのが分かった。喉が、胃液がこびりついているせいで酸っぱい。
 声をかけても、身体を揺すっても、言葉が返ってこない。不安で不安でたまらなかった。

「西田さん」

 やがて、宇藤がひとりの男を従えて戻ってきた。耄碌ジジイ、と揶揄されるほどの年齢ではないと思うが、頭部は見事な白髪の、六十代くらいの男だった。

「おいおい、瀬戸のボウズはどうしたんだ」
「俺が撃った」
「はあ〜? 痴話喧嘩か?」
「まあそんなとこだ」

 男ふたりで、晴市を担ぎ出す。それについていこうとすると、宇藤に睨まれた。

「やめとけ」
「でも」
「このお嬢ちゃんは?」
「ボスのいい人だよ」
「ほう」

 暗がりでよく見えないが、彫りの深いエキゾチックな顔立ちの男だ。もしかしたら、異国の血を継いでいるのかもしれないと思わせるような。
 そんな男が、ふと唇を歪めた。

「駄目かもしれんな」
「あ? 殺すぞジジイ」
「いや、出血がひどい。ボウズの血は、そんなにストックがねえんだよ」
「……」

 輸血のことを言っているのだと思った。きっと、晴市のような危険ととなり合わせの仕事をしている人間は、自分の血をストックしているのだろうとも想像がついた。

「どっかの献血センターからパクってこれねえのかよ」
「無茶言うな。それに、今行ったところで、Rhマイナスがあるかも分からんだろ」

 昔母に散々言われたことを思い出す。
 あんた、こども産むとき気をつけなね、あんたの血はねえ……。

「あの」
「あぁ?」

 医者と揉めている宇藤に声をかけると、それどころではないとばかりに凄まれた。

「私の血、使ってください」
「いや、無理だ。ボスはRhマイナスのAB型なんだよ」
「できます」
「……は?」
「私、RhマイナスのO型です」

 自分の血液が、こどもを授かったときに少々厄介なものであることを、母から何度も聞かされていた。漠然とした不安と、そんな血液に生まれついた不満しかなかったが。
 今それが役に立つのならいくらでも使ってほしいと思った。晴市のためになるのなら。
 しかし、宇藤はいい顔をしなかった。

「西田さん。このジジイは腕は確かだ。だが、無免許だ」
「おい」
「今からボスが受けるのは違法な手術だ。あんたに何かあったとき、誰も責任を取らねえぞ。怖くねえのか」

 無駄な議論だと思った。こうしている間にも、晴市に適切な処置をしてやったほうがいいのは明白だ。
 亜里香は、息を吸い込んで、言い放つ。

「私が一番怖いのは――」

 ◆◆◆

 晴市が初めて亜里香に買い与えたのは、亜里香の給料が二、三ヶ月分くらい飛びそうな、カルティエのピンクゴールドのピンキーリングだった。4号の指輪は少しだけ緩く、3号に直してもらった。
 それを亜里香が特に何も考えずに右手小指に着けようとすると、晴市が首を振る。

「左手だ」
「……? 何か違うんですか?」
「左右の小指、どっちにつけるかで、意味が変わるんだよ」
「……どんなふうに?」
「右だと、幸せを呼び込む。左だと、幸せを逃がさない」

 言いながら晴市がさっさと亜里香の左手小指に、それをはめてしまう。
 不思議に思いながら、亜里香は口にする。

「それでどうして、左なんですか?」
「お前は、幸せに羽が生えて逃げていきそうな顔してるからな、左手だ」
「……」

 むすりと唇を尖らせた亜里香の頬に軽く口づけ、晴市が声を立てて笑った。

「ハハッ、心配すんな、お前は俺が幸せにしてやる。だから安心して、左手の小指にそれ、着けてろ」
「……はい」

 亜里香は、そういうことならまあいいか、と思い、素直に晴市の胸板に身を寄せた。
 目を閉じる。晴市の心臓の音が、亜里香の鼓膜を優しく揺らした。

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