埠頭の駆け引き


 スマートフォンがその通知を表示したとき、晴市は、どこかで何となく、こうなることを分かっていた自分がいることに気づいた。
 イヤホンを挿し、耳にはめて目を閉じる。雑音に混ざり、宇藤の声が聞こえてきた。

『俺がそばについていてやらなきゃきっと不幸になる、そんな顔してる。ボスはそう言ったから、いったいどれほど幸の薄そうな顔をしてるんだ、とは思った』

 何の話をしているんだ、と眉を寄せる。亜里香が間違って左手を握りしめてしまったのかと。しかし、盗聴器と同時に仕込んだGPSの位置情報が、明らかに新高島を目指していないのを見て、なるほどな、と思う。

『……ほんとに不幸になっちまうんだからなァ』

 横浜の事務所を出た晴市は、GPSの進む方向から、本牧埠頭に向かっているなとあたりをつけ、車に乗り込んだ。

「あれ、ボスどちらに?」
「野暮用だ」

 駐車場で会った部下に短くそう応え、アクセルを踏み込んだ。

『ま、西田さんにもボスにも恨みはねえが、これが俺のやり方なんでね』

 まるで、蛇が怯える獲物のご機嫌取りでもしているような声だ、と思う。
 亜里香の震える声が、宇藤に反論する。

『ひどい……晴市さんはあなたを信頼してた……』

 それは少し違う。と、晴市はわずかばかり申し訳ない気持ちになった。
 少し前から、晴市は宇藤を疑っていた。正確には、宇藤が亜里香の身辺調査を、晴市に頼まれる前からおこなっていたと知ったときからだ。
 あのとき宇藤は確かにこう言った。「探るために送り込んでる俺の部下が、今日福岡で西田亜里香を見たんだ」。
 妙だと思ったのだ。調査に目処がついたくせになぜまだ部下が福岡にいるのだ、と。
 宇藤は無駄を嫌う。彼の性格からすれば、目処がついたならさっさと部下を撤収させてしかるべきだ。それをしていないというのはつまり、まだその部下とやらには福岡での仕事が残っている、ということになる。
 それから、晴市は宇藤の行動を注意深く見守っていた。亜里香に、宇藤は変なことをしないかと聞いたのもその一環だ。

『きゃあ!』

 はっと、アクセルを踏み込みそうになってこらえる。亜里香の短い悲鳴のあとで、大きな雑音が入った。おそらく、亜里香が腕に抱いていたぬいぐるみを落としたのだ。
 音声だけでは、亜里香が何をされているのか分からない。焦燥感だけが募る。
 結局晴市は、宇藤を疑っていたくせに、大事な女を任せた。最後の可能性、自分の勘違いであるという可能性に賭けたかったのだ。そういう意味ではたしかに晴市は、人がいいかもしれなかった。
 嫌な勘ばかり当たるな、と自嘲する。

『やめて!』

 先ほどよりも遠くなった亜里香の叫ぶ声が聞こえる。その場にいるのだろう宇藤や、亜里香の見合い相手の声は、低く小さいためか入ってはくるものの聞き取れるほどの音量ではない。
 埠頭に着いて、荒々しく車を停め、GPSが示す倉庫の前に立つ。なるほど、中華系の会社のものだ。それは、宇藤の完全なる裏切りを示していた。
 半分開いた扉から、堂々と入る。

「よォ、宇藤」
「……ボス」

 宇藤が目を見開いた。亜里香は、見合い相手の男に捕まり、腕を後ろ手に縛られて転がされていた。

「楽しそうなことしてんじゃねぇか」
「なんでここが……」
「お前、亜里香がくまのぬいぐるみ大事に抱えてんの見て、ほんとに何も思わなかったのか?」
「くま……? まさか、それ」
「亜里香はほんとに、イイコだよ」

 口元だけで笑うと、宇藤の足がほとんど衝動に任せてくまを蹴り飛ばした。亜里香の片手が余る程度の大きさの毛玉がコンクリートの地面に転がり、ぬいぐるみらしからぬ硬い音を立てた。
 亜里香のほうへ近づく。途中で気づく、頬が赤く腫れている。晴市のポリシーとして、自分よりも弱いものには手を上げないというのがある。が、それ以前の問題だ。

「オイ、宇藤」
「……」
「俺の可愛い女のほっぺが腫れてんじゃねぇか、どうなってる」

 どうやら、手を上げたのは宇藤ではないようだった。遠野と言ったか、見合い相手の男が、晴市を剣呑な目つきで見やり、宇藤に向けて言葉を放つ。

「ねえ、宇藤さん、これどういうこと? あんたダブルスパイ?」
「……完全に想定外だよ」
「ほんとにィ?」

 疑わしげに言葉尻を上げながら、晴市を見つめたまま嫌な笑みを顔に貼りつけた遠野は、亜里香の髪を引っ張って起こした。

「いたっ……!」
「きたねえ手で触るんじゃねえよ!」

 晴市の手がジャケットの内側に滑り込むのと同時に、遠野の右手に黒く光るものが見えた。
 ほぼ同時に構えたが、遠野の銃口が向けられた先は晴市ではなかった。

「……」
「そこから一歩でも動いてみ、この子の頭風穴開くからね」

 遠野に向けて銃を構えたまま、硬直する。遠野の銃の向けられた先で、地面に座り込んで青褪めている亜里香を見る。
 ゆっくりと、亜里香の周りを歩きながら、銃口はずっと亜里香の頭を狙っている。そして言う。

「宇藤さんさあ、ダブルスパイやない証拠、見せてくださいよ」
「……証拠?」

 にやにやと笑いながら、亜里香の無防備な額に銃口をぐりぐりと押しつける。きっと冷たいその銃身に、亜里香が身体を縮めた。
 身体が、冷えてゆく。燃えすぎた怒りが、凍りつく。

「そうやな、とりあえず瀬戸さんの右腕、いってもらおか」
「……は?」
「もうそいつはあんたのボスやない。できるでしょ?」
「…………」

 宇藤が、一瞬迷うそぶりを見せた。都合が悪くなると黙るのはよせと、あんなに言い聞かせたのに。
 そしてのろのろと、自分の得物を取り出す。亜里香が息を呑んだ。
 宇藤の銃が晴市のほうを向く。晴市は、それでも遠野から銃口を外さない。宇藤の指が撃鉄にかかった音を聞き、晴市はため息をついた。

「ねえ、亜里香さん、よかですねえ、楽しかねえ、かつての仲間が潰し合いだ」
「……ひどい……!」
「ちゃあんと見ときよ、大好きな男の腕がもげるとこ」

 少し悩んだ。このままみすみす宇藤の弾丸を受けるのも嫌だが、下手に動けば亜里香に危害が及ぶ。
 嫌、と言うのは、亜里香に血が流れるところを見せたくないだけだった。血生臭いところなど、見せないまま終わりたかった。
 もちろんそれは、亜里香が人質として捕らわれる原因をつくってしまった晴市の、傲慢ではあるのだが。

「ボス、悪いな」
「……宇藤、中途半端に加減すんじゃねえぞ」
「……」

 舌打ちとともに、破裂音が響き渡った。

「晴市さん!」

 右肩に、激痛が走る。ほんとうに加減なしに動脈を狙ってきやがった、とこちらが舌打ちしたい気持ちである。
 さすがに、銃を支えていたほうの腕を狙われてはたまらない。かろうじて落とすことはなかったが、強く握りしめる。
 ぐらりと頭が揺れ、晴市は膝をついた。

「無様やねえ」
「晴市さん……!」
「亜里香さん、かっこいい彼氏のもっと無様な姿、見とうない?」

 亜里香が遠野を泣きながら睨みつける。それをまるで意にも介さず、遠野の口はさらに動く。

「宇藤さん、そいつ土下座さして」
「……」

 宇藤の息が荒い。視線だけで遠野を睨みつけ、歯を食い縛る。

「僕に土下座さして。ごめんなさいって情けなく地べた這いずらせて」

 腕に心臓ができたかのように脈打つ。思った以上に出血がひどい。くらくらする意識で、晴市は、未だ遠野の銃が亜里香の頭に押し当てられているのを見、自分の矜持をかえりみた。
 ふらつく身体で体勢を整え、土下座のかたちをとろうとすると、背後で宇藤が叫んだ。

「あんたが今ここで土下座したところで西田さんはあんたのとこに戻ってこねぇぞ!」
「……それが何だ」
「は……?」
「生きてりゃ、どうにでもなるだろ、宇藤。亜里香は生きるんだよ、俺が死のうが何しようが、絶対だ」

 宇藤が息を呑む。それと同時に、遠野の銃がようやく亜里香から離れ、晴市のほうを向いた。

「横浜の王様の土下座なんて、滅多に見れるモンやない。亜里香さん、よかったですねえ」
「……亜里香」
「喋るんじゃねえよ」
「っ晴市さん!」

 晴市の、力が入らず土下座になり切らない垂れた頭を、遠野の足が踏んだ。鈍い音を立てて、額と地面が接触する。続けざまに蹴られ、こめかみを強打して、視界にちかちかと星が散る。

「なァ、宇藤」
「……」
「喋るんじゃねえっつってんだろ!」
「報いだな」
「!」

 なぜか、宇藤が目を見開いた。

「今まで散々人を痛めつけてきた、その報いだよ」
「耳も聞こえねえのかよ!」

 頭を踏み潰され、地面に押しつけられる鈍い痛みに顔を歪めながら、晴市は宇藤の見開かれた目に、今自分はどのように映っているのだろうと考えた。そして、亜里香の目にも。
 せめて亜里香の前では、いつも格好いい自分でいたかった。そう思いながら、ふと笑う。

「因果応報とか言うんだっけか」
「いい加減にしろ!」

 遠野が銃口を晴市に向け、次の瞬間乾いた音が広い倉庫に響いた。

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