ちぎれた右腕


 忙しい晴市に代わり、宇藤が亜里香を訪ねてきた。亜里香の家に向かい、部屋の掃除に立ち会ってもらうのだと言う。

「一応、本人の目で確認させて、捨てるモンと残しとくモンを区別しようと思ってな」
「……外に出てもいいんですか?」
「あんたが思ってるほど、そこまで事態は深刻ではねぇよ。大丈夫だ、何かあっても俺がどうにかする」

 相変わらず不機嫌そうな顔でそう言われ、現状がどうなっているのか分からない亜里香は、そうなのか、と納得するしかない。
 宇藤の髪の毛から覗く耳たぶには、たくさんのピアスがついている。

「準備ができたら外に出て来い。ドアの外で待ってる」
「分かりました」

 とは言っても、晴市とのデート前の着替えや化粧直しなどとは違い、大した支度はない。ただ、外に出て恥ずかしくないような服がなかったため、少し悩む。
 そこでふと思い出し、クロゼットを開ける。
 晴市の衣服に混ざり、隅のほうに亜里香がここに来るときに荷物を入れたブティックの紙袋が置いてある。その中に、やはり、あの日着ていた服がきちんとクリーニングから返ってきた状態で畳まれて入っていた。
 晴市が亜里香のものを勝手に捨てるとは思えなかったが、見当たらないとも思っていたのだ。
 クリーニングのタグを取り袖を通し、軽く化粧を済ませて部屋を出ようとして、ふと先ほどの宇藤の言葉が頭をよぎった。
 何かあっても俺がどうにかする。
 きっと亜里香にとって、外は百パーセント安全なわけではないのだ。宇藤にばかり頼っていられない。
 少し考えて、寝室に置いていたくまのぬいぐるみを手に取った。
 晴市は、何かあったらこのくまの左手を握りしめろと言った。薄々、このくまに施された細工に気づいていた亜里香は、ぎゅっとそれを抱きしめて、玄関のドアを開けた。

「お待たせしました」
「いや。……それを持って行くのか?」

 亜里香の腕に抱かれたくまに、きょとんとした宇藤にほほえむ。

「外は三週間ぶりなので、やっぱりちょっと不安で……何かを抱っこしていると安心するかなって」
「……ああ、そういうもんか……」

 首を傾げながらも特に咎めもしなかった宇藤の運転する車に乗り込む。
 保土ヶ谷を通り過ぎたあたりで、宇藤が口を開いた。

「西田さん」
「はい」
「うちのボスは、優しいだろ」
「……? はい、そうですね」

 晴市の運転より、幾分か荒いが、それでも丁寧だ。
 ハンドルに手を置いたまま、宇藤はちらりと亜里香を見やり、ため息をつく。

「たぶん西田さんには、たった一部しか見えてねぇからほんとうに優しい男だと思うんだろうがな、そうじゃない。ボスは残酷だ」
「……」
「残酷で、暴力的で、圧倒的に強い」

 分かってはいるつもりだったし、晴市自身も自分のことをそう称していた。けれど、その場を見ていないからには亜里香はにわかに信じがたいのだ。
 けれど、亜里香よりもきっとずっと晴市を知っているこの男が言うことのほうが、正しい。

「けど、変なとこで情に厚いンだよな。ああいう変な優しさは、いつか身を滅ぼす」
「……」
「俺はそれが心配だよ」
「……私は」

 車が少ない道で、宇藤がアクセルを踏み、亜里香は思わず出しかけていた言葉をしまってのけぞる。

「私は、晴市さんがいつかそうなるとしても、それが優しさの結果だったらいいと思います」
「……」
「たとえば、今までに晴市さんが積み重ねてきたことの報いだとか、誰かの恨みを買うだとか、そういう理由よりも、ずっとずっといいと思います」
「……西田さんも大概甘ちゃんだな」

 乾いた声で笑い、宇藤は、まあでも、とため息のように吐き出した。

「まあでも、ちげえねえ」

 車が、亜里香の自宅に着いた。
 鍵は宇藤が持っていたらしく、挿し込むと、少々埃っぽい我が家が迎えてくれる。

「さて。いるモンと、いらねぇモンに分けろ。いるモンだけ、車のトランクに詰めろ。ここに残していくモンは全部処分するからな」
「分かりました」

 くまを抱いたまま、クロゼットを開ける。そして、宇藤に言い放つ。

「ここにある服と鞄と、アクセサリとコスメ。あと、玄関の靴を全部。それだけです。あとはいりません」
「……ボスの話とちげえな……」

 クロゼットにひしめく衣服や鞄を見て、宇藤が遠い目をする。そして、シャツを腕まくりして、息を吸い込む。抱えていた段ボールを組み立てて、手あたり次第服を突っ込み始めた。
 あまり乱暴にしないでほしいと思ったが、善意でやってくれていることに口出しもできず、亜里香は黙ってそれを手伝うように、宇藤よりもずっと優しい手つきでハンドバッグを入れていく。
 三十分ほどで作業が終わり、亜里香と宇藤は部屋を後にする。

「じゃあ、戻るか」
「はい」

 トランクに詰め込んだ服のことを、運転しながら宇藤はこうからかった。

「ボスが、ほんのちょっとだって言うからせいぜい十着程度だと思ってたよ」
「……晴市さんは、何が楽しいのか、私に似合うからって次から次へと買うんです」
「そりゃ楽しいだろうよ、好きな女が自分好みの服を着てんのは」
「そういうものなんですか……?」
「そういうモンだ」

 膝の上のくまを見る。つぶらな瞳に、男の人の気持ちはよく分からないねえ、と心の中で語り掛けてみた。
 やがて亜里香は、その不自然に気づく。

「あの、宇藤さん」
「……あ?」
「どこに向かっているんですか?」

 行きと、通っているルートが違う。車での移動は、晴市とのみなとみらいから横浜駅周辺のドライブくらいしか経験がないのであまりあかるくはないが、それでも、明らかに目的地が新高島のセーフハウスでないことは分かった。
 宇藤は黙っている。
 祈るような気持ちで、亜里香はもう一度口を開いた。

「どこに、向かっているんですか?」

 やはり宇藤は、口を開かない。亜里香は、くまの左手をぎゅっと握り締めた。ウインカーの音に混じり、かち、という機械音がかすかに耳に届いた気がした。
 そのまま、抵抗もできないまま、亜里香の身体は海沿いに運ばれてゆく。本牧の埠頭の風景が見えたとき、宇藤が口を開いた。

「うちのボスがあんたを見初めたとき、俺は入院してた」
「……ああ」
「しつこいくらい、受付にイイ女がいるんだって聞かされたよ」
「……」
「俺がそばについていてやらなきゃきっと不幸になる、そんな顔してる。ボスはそう言ったから、いったいどれほど幸の薄そうな顔をしてるんだ、とは思った」

 思い出話をするタイミングではない。亜里香の頭で警鐘が鳴る。

「顔を見たときに、まあたしかに、幸せそうではねぇなと思ったが……」
「……」
「ま、うちのボスに魅入られたのがあんたのほんとの運の尽きだ」
「……」
「ほんとに不幸になっちまうんだからなァ……」

 ひとけのない、倉庫の前で車が停まった。宇藤が運転席を出て、すぐに助手席に回り込んでくる。

「降りろ」

 腕を掴まれ、かろうじてくまのぬいぐるみを抱きしめたままで引きずり降ろされる。
 その挙動に、今まで宇藤に感じていた不気味さのつじつまがすべて合う気がした。これがこの男の本性だと思った。
 引きずられて歩かされながら、宇藤が倉庫の扉を開ける。中に積まれていたコンテナに背を預けていた人物を見て、亜里香は目を見開いた。

「……遠野さん?」
「お待ちしていましたよ、亜里香さん」

 何がどうなっているのか分からない。そこにいたのは、義父に宛がわれた見合い相手だった。
 思わず、腕を掴んでいる宇藤を見上げる。
 なんでこの人が、だって晴市の部下なのにどうして、遠野は晴市に恨みがあるはず、だからこんなツーショットがあり得るわけが……。
 亜里香を見下ろした眼鏡の奥の瞳が、冷たく光る。

「ボスも大概人がいいよ。大事な女の世話を俺に任せるなんざ」
「……あなたは……?」
「西田さん、あんた知ってるか。横浜はもうすぐ、瀬戸晴市のモンじゃなくなるんだ」

 冷えた、それでいてどこかご機嫌をうかがうような、上擦った声だった。

「守るだけじゃ駄目だ。新しい文化、異文化を取り入れていかなきゃ、なぁ、遠野さん」
「そうそう。仁義だの任侠だの、もう古いんだよねえ」

 背後で、倉庫の扉が片方閉まる。その音に、宇藤が耳障りだと言わんばかりに顔をしかめ、ため息をついた。

「極道はビジネスなんだ。ボスに恩義はあるよ、でも、あのままじゃ俺は上にはいけない」
「……そんな」

 かろうじて出した声は、震えた。

「俺があんたの義父の傘下に入るには、交換条件があってな、いわゆる、忠誠心を試す試験みてえなやつだ」

 それが、亜里香を遠野に売り渡すことだと、すぐに分かった。
 晴市を裏切ったと簡単に口で言っても、それ自体が嘘かもしれない。それならば、彼に痛手を負わせるかたちで裏切りを分かりやすく証明する必要がある。それが、亜里香なのだ。

「ま、西田さんにもボスにも恨みはねえが、これが俺のやり方なんでね」
「ひどい……晴市さんはあなたを信頼してた……」
「だから、信頼されたまま姿を消すんだよ。俺とあんたは、戸塚のあの家を出たあと捕らえられ、あんたは生き残るが俺は殺された、って筋書きだ」

 目に涙をいっぱいいっぱい溜めて、亜里香は首を振った。

「ごめんなさい、そううまくはいかないんです」
「あ? 何言ってんだ」
「晴市さんは、あなたの裏切りを知っています」
「そんなわけ……」

 こんな残酷なことになるのなら、やらなければよかったかもしれない。
 そう思い、亜里香は腕に抱いたぬいぐるみを見下ろした。

maetsugi
modoru