ここにいる理由を


 宇藤が、亜里香のことについてぽつりと漏らす。

「ボス、西田さんに何かしたのか」
「……何か?」
「寝かせてねぇとか」
「ハァ?」

 寝かせていない、という言葉が何の暗喩であるか即座に理解して、眉をひそめる。

「テメェにシモの心配されるほどがっついてねぇよ」

 いまいましげに否定しながら、晴市は宇藤がそう言った理由がなんとなく分かっていた。
 亜里香の顔色が優れないのだ。それこそ、寝ていないかのように。不幸せな雰囲気に拍車がかかって儚さを増している。
 最初こそ、具合が悪いのか、枕変えるか、など聞いてみたものの、曖昧にほほえんで首を振るだけで、肝心な原因は話してはくれない。

「ふーん……まあ俺には関係ないが……、で、ボス、西田さんのアパートの引き払いなんだが、ちょっと慎重にことを進めたほうがよさそうだ。養父の部下が家を張ってる」
「……」
「部屋の荷物をどうするか聞いておいてくれ。俺としては、全部処分するのが一番楽だ」

 晴市も、そうだろうなと思う。亜里香が、何か手元に残しておきたいものがあるのならばそうしてやりたいが、リスクが高い。運び出す車を尾けられたら新高島のセーフハウスが割れてしまう可能性もあるのだ。

「分かった。まあ、あいつは物欲がねぇみたいだし、俺がやったモンもひとつもいらねぇだろ」
「そうだと助かるよ」

 今夜は早く帰れそうだ、とメッセージを打つと、すぐさま亜里香から了解した旨の返信がある。スマートフォンのへりを顎に当てて、軽く目を閉じる。
 亜里香は聞き分けが良すぎる。それと同時に、遠慮をしすぎる。
 身体の具合が優れないのならすぐに晴市に言ってほしいし、多少のわがままを聞けないほど狭量な男ではないはずだ。
 晴市のほうからせっついてようやく心のうちが吐露されることがほとんどで、おそらく今回もそうなる。帰宅したら、亜里香を優しく締め上げてやらねばなるまい。
 ところで先日シマのソープに集金ついでに顔を出すと、ちょうど休憩時間だったナンバーワンの嬢が興味深いことを言っていた。
 なぜ集金に、晴市が直々に、というところで言うと、単純にオーナーがどうやら売り上げをごまかしているようだと部下から報告が上がっていたので、軽く脅しも兼ねて顔を見せたのだ。

「最近瀬戸さん全然遊んでくれないからつまんないなあって思ってたけど、本命ができたのね?」
「……本命?」
「違うの? あたしこの前横浜駅で、華奢な女の子連れてたの見たの。絶対あの子が本命だと思ったのに」

 晴市は、亜里香に本命という言葉を使いたくなかった。本命、と言うとそれ一筋ではない気がするのだ。滑り止めや保険をかけてあるのが前提のようなその言葉が好きではない。

「本命っつーか、……」

 かと言って、ほかにそれらしい言葉を宛がえるほど、晴市の語彙は豊富ではないので、言い淀む。それを、彼女は突いてきた。

「違うんならまたあたしと遊んでよぉ」
「違わねえから遊ばねえよ」

 結局、誤解させないためにも、本命という嫌な響きに甘んじるほかなかった。うんざりしながらオーナーが帳簿を持ってくるのを待っている。
 裏工作でもしているのか、やたらと待たせやがる。そう思いつつ、暇つぶしに横のナンバーワンに話しかける。

「なんでそう思った」
「へ?」
「なんで、あいつが本命だって分かった」
「……」

 彼女は少し黙り、晴市の前に立つと、首にするりと腕を巻きつけ膝の上に乗ってきた。

「おい」
「だって今までと全然タイプが違ったもの」
「降りろ」

 苛立ちもあらわに凄むが、その手の客も相手にしているのだろう女にはまったく効果がないようで、怖がるそぶりも見せない。それどころか、晴市の股間を撫で上げる。

「テメェ」
「あのね瀬戸さん、イイコト教えてあげようか」
「ンだよ」
「あの子きっと、やくざとか知らないふつうの子なんでしょ。そしたらね、あたしたちにしてたみたいにしても駄目よ。美味しいもの食べさせて、可愛い鞄とかネックレスあげてもね、駄目よ」
「……」

 それについては先日痛感したので、言われるまでもない。眉を寄せたまま、短くもう一度だけ、降りろ、と言う。胸板にしなだれかかり、彼女は晴市の心臓のあたりを指先で撫でながら、無邪気に笑った。

「ああいう子はね、話を聞いてあげて、瀬戸さんの話もしてあげて、それで手をつないで寝るのよ」
「……降りろっつってんだ」
「何よぉ、瀬戸さんが食い荒らしたせいでウチ、何人嬢が辞めたと思ってんの? ちゃんと責任感じてる?」
「知るかよ」

 なんでそんなことで責任を感じねばならないのだ。そもそも、自分がふつうでないと言い張った上でふつうの女が何をされれば喜ぶかを語るな。晴市から見れば、ソープ嬢だってじゅうぶんふつうの人間である。
 ただ、当たっているとは思った。
 晴市はもっと、亜里香の声を聞かないとならないのだと思う。

 ◆◆◆

 夕方帰宅すると、部屋は薄暗く出迎えがなかった。
 不審に思いリビングに入ると、ソファの上で小さくまるまって、亜里香が眠っている。晴市の気配にも気づかずに眠っているさまに、ほほえみが漏れてしまう。
 ソファの前の床に腰を下ろしあぐらをかく。亜里香の頬を撫でようとしてそれに気づく。亜里香のこめかみや頬を、乾いた白い半透明の筋が這っている。涙の跡だと気づいた途端、心臓が早鐘を打った。

「亜里香」
「……ん……」

 肩を掴み揺り起こすと、ふわりと目が開いた。そして、晴市を認識するのと同時にふにゃりと笑う。

「おかえりなさい……」
「ただいま、こんなとこで寝てたら、風邪引くだろ」
「こんな……?」

 徐々に覚醒してきた意識で、亜里香はようやく自分がうたた寝していたことに気づいたようで、のそりと身を起こした。
 床に座った晴市を見下ろすかたちになった亜里香の顔は、どこか疲れているようにも見える。

「なあ、亜里香」
「……ん?」
「なんで泣いてたんだ?」

 亜里香が、自分の頬をさわり、それから顔をこわばらせた。

「え、別に……」
「亜里香。隠し事はナシだ。最近夜も眠れてねぇだろ? なんか、気になることがあるんじゃねぇのか」
「……」

 亜里香が眉を下げる。泣きそうな顔になって、唇を噛み締めている。

「言え、亜里香」
「…………晴市さんが」

 まさかと思うが原因は自分なのか。
 放たれた言葉に、晴市は身構えて亜里香が次を言うのを待つ。

「……スーツのジャケットに香水をつけていて」
「香水?」
「甘い、女の人の香水です」
「……? お前のじゃねぇのか」
「違います!」

 珍しく語気を荒らげた亜里香の目から、ぽたりと涙が零れ落ちた。慌ててそれを拭い、晴市は記憶を洗う。
 移り香がつくほど女に擦り寄られた記憶がない。いや、ある。
 数日前ソープのナンバーワンに膝の上に乗っかられ股間を撫でられたことを思い出す。

「……あァ、分かった……アレだ……」
「べ、別に、晴市さんがほかの女性とそういうことをしていても、いいんですけど……」
「よくねえだろ!」

 今度は晴市が語気を強める番だった。
 晴市は亜里香に怒鳴ったことがない。そのせいか、亜里香はひゅっと息を呑んで身体を縮こまらせてしまった。しかしそんなことに構ってはいられない。

「俺がほかの女とセックスしてもいいのかよ、ふざけんなよ!」
「だ、だって……」

 そこで、我に返る。亜里香がぽろぽろ泣きながら、必死で言葉を紡ごうとしている。波立つ心をなだめすかし、彼女の口が開くのを辛抱強く待った。

「私は晴市さんに迷惑をかけてばかりだし……晴市さんの仕事はよく知らないけど、お疲れなんだと思うし、私が毎晩お相手できるわけでもなくて……それに……晴市さんみたいな人は、周りの人が放っておかないから……」

 知らないところでこんなに傷つかれていた。

「…………俺が、ちょっと色目使われたくらいで誘いに乗る馬鹿だと思うのか」
「っそうじゃないけど」
「俺が、お前がかける迷惑だのわがままだのすら受け止めらんねえ男だと思うのか」
「……」
「俺が! セックスするためだけにお前をここに置いてると思うのか!」

 そもそも、晴市は我慢が苦手だ。だから、亜里香の言い分にすぐに、発揮していた辛抱強さは破られた。
 肩を掴み、亜里香の顔を上向かせ、じっと睨む。

「亜里香、お前は、ほかの男とセックスできんのかよ」
「っできません、やです、嫌です……晴市さんじゃなきゃ嫌だ……」
「俺も同じだってなんで分かんねぇんだ」
「……」

 亜里香が、自分をかえりみてくれなくてもいいと思っているのも、晴市がほかの女と寝ることができると勘違いしているのも、どちらも苛立つ。
 けれど、なんとなく分かった。
 亜里香には自信がないのだ。晴市をつないでおける、自信が。
 立ち上がる。亜里香のとなりに座り、抱きしめる。自分の昂っている気持ちを落ち着けるつもりで、亜里香の首筋に鼻を埋め息を吸う。

「亜里香。いい加減お前、俺の女だって自覚持てよ」
「……」
「イイ女だよ、お前は」

 亜里香に勘違いをさせたソープ嬢の差し金であるというのが癪ではあるものの、その日晴市は亜里香と手をつないで眠った。
 晴市の問いかけに、とろとろと甘ったるい舌足らずの声で、亜里香はたしかにこう言った。

「嫌です、晴市さんからもらったもの、捨てないでください、ちゃんとそばに置いておきたいの」

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