うつくしい名前


 金曜日、晴市を選べなかったのはただ、傷つきたくなかっただけなのだ。
 晴市が亜里香の部屋に入るために靴を脱いだのは今日が初めてだ。これまで、玄関先に足を踏み入れることがあっても、室内に上がることはなかった。
 狭い六畳間にふたりの人間が、それも晴市のような上背のある男がいると、いつにも増して部屋が狭く感じる。

「あの……今お茶を……」
「いい。亜里香、来い」

 1Kのキッチン部分のコンロ下からインスタントコーヒーの瓶を取り出そうと身をかがめると、声がかけられた。
 振り向く。晴市がシングルベッドに腰かけて足を組んでいる。

「でも……」
「いいから」

 優しい目をしているが、声は硬い。その相反するふたつに、亜里香の心臓が急にせわしなくなる。
 きゅ、と唇を噛み、亜里香はコーヒーを諦めて部屋に入る。座る晴市の前に立つと、睨み上げられた。

「俺は怒ってんだ」
「……」
「あんだけ甘やかしてやったのに、情婦だの何だの勘違いされてちゃ世話ねェよ」

 腕を組み、見上げているはずなのに見下すような視線に貫かれ、亜里香は身体を縮める。

「座れ」

 自分のとなりを叩き、晴市がため息をついた。
 なんだか全面的に亜里香が悪いような方向で話が進められているが、それはさすがに腑に落ちないものがあった。
 となりに座って、亜里香は息を吸った。

「たしかに、勝手に勘違いしたことはごめんなさい。でも、晴市さんだって……」
「俺がなんだ」
「……私、好きだとか、一度も言われていないです……」

 晴市が目を見開く。そして、視線を上に巡らせてしばし考えるように天井を見つめた。

「……そうだったか?」
「そうです! そ、それに、最初のときだって、恋人になってほしいなんて言われませんでした!」
「…………そうだったか?」
「俺の女になれ、って」

 ただ、そう言われた瞬間はたしかに亜里香はその言葉を、恋人としてという意味だと認識したので、そこを責めるのは若干お門違いだな、と思いながらも言ってしまった言葉は取り消せない。
 亜里香が自分が情婦になるのだと認識したのは、その直後に会う曜日を指定されたからなのである。曜日を指定しないと都合が悪いのかと勘繰ったときに、こんな極上の男が自分なんかに執着するわけがない、きっとほかの曜日は自分と同様に口説き落とした女に会う日なのだと思ってしまったのである。
 だって、それほど瀬戸晴市という男は。

「……泣くな」

 そう、優しく囁かれて初めて、亜里香は自分がいつの間にか涙をにじませていることに気づかされる。
 晴市の太い親指が目尻を拭って、そこに唇を押しつける。舌が、ちらりと水滴を舐め取った。

「お前に泣かれると、どうしていいか分からん」

 両手で頬を包まれて、壊れ物に触れるようなキスをされる。うっとりと、そのまま酔いしれていると、徐々に身体が倒されていることに気がついた。

「ま、まって」

 唇を離し、晴市の肩を押し返す。眉を寄せ、なんだ、と言わんばかりの表情をつくった晴市に、蚊の鳴くような声で抗議する。

「……ここ、木造なんで壁が薄くて……」
「…………」
「晴市さん!」

 まったく意に介さない様子で手を止めない晴市に、焦る。
 太い手首を握りしめてどうにか阻止しようとするのだが、指がきわどいところを掠め、予期しない声が上がる。

「んっ……」
「……」

 そこで晴市が手を止めた。おそるおそる、亜里香が顔を覗き込むと、晴市は神妙な顔をしていた。

「となりの部屋は誰が住んでる」

 亜里香の部屋は角部屋なので、となりの部屋、というのは一室しかない。亜里香は、あまり遭遇しない隣人の顔を思い出す。

「……学生らしい、男の子が……」
「……」

 それを聞いて、晴市は完全に亜里香の身体から手を引いた。

「あ、晴市さん……?」
「やめだ」
「え……」
「みすみす聞かせてやるこたねぇ」

 声が隣室に響いてしまうのを最初に懸念したのは亜里香だが、こうもあっさりと退かれると、後ろ髪の引かれる思いである。
 何より、晴市に愛されていると実感しながら抱かれたい気持ちが、ふくふくと育ってきてしまっている。
 一度そう思ってしまうと駄目だった。

「や、やめちゃうんですか……?」

 まばたいて向けられた甘い視線に、ぞわり、と散々彼に躾けられた身体が熱を持つ。

「声、我慢します、だから」
「……」

 晴市の眉がぴくりと動く。垂れた目が剣呑な光を宿し、すっかり情欲にまみれてしまっている亜里香を映す。
 今まで晴市から求められるまま差し出してきたから、誘い方なんて分からない。それでもなんとか晴市をもう一度その気にさせようと、擦り寄った。厚い胸板に頬を寄せ、ぎゅっとシャツを握りしめる。

「お願い、して」
「……絶対に、声出さねぇって約束できるな?」
「ん」

 つたない誘いに乗ってくれた晴市にほっと吐息を零す。再び押し倒され、深いキスに溺れる。
 濡れた音を立てて離れた唇が、まだ触れそうな位置で名を呼んだ。

「亜里香」

 荒くなった息をごまかすことも隠すこともできずに、涙目で、至近距離で晴市の目を見つめる。

「愛してるよ」
「……!」

 こらえにこらえていた涙が、押し出されるようにあふれてしまう。
 晴市は、泣かれるとどうしていいか分からないと言ったわりには、落ち着いている。おそらく、亜里香をじっと観察し、どういう理由で涙が零れるのかを見定めているのだ。
 今の涙はうれし涙だ。

「晴市さん、……んっ」

 じゅ、と首筋に吸いつかれ、器用にスカートのファスナーを下げて抜き取られる。そして、ニットをたくし上げ、腕から抜き去り手早く下着のみの姿にしてしまう。
 肌を指やてのひらや爪先でなぞられ、ずしりと腹底に熱が溜まる。
 それでも、亜里香は声を出さぬよう必死でこらえた。指を噛んだ痛みで気を散らそうとすると、晴市が手を止めて亜里香の口から指を抜く。

「傷になる」
「あ、でも……声……」
「こっちだ」

 晴市の太い指が唇に触れ、咥えさせられる。そのまま、器用に亜里香の声を封印しながら、余った片手で身体を暴いてゆく。
 時折、突き入れられた指が舌を押し、もてあそぶ。口の中を犯されながら、飲み込めない唾液が顎や頬を伝うのを感じて、亜里香は身体を震わせた。指に吸いつくたびに、晴市の愛撫が熱を持つ。

「ふ、う」
「……亜里香、お前」
「う……?」

 晴市が、口から指を引き抜いて、その指を下肢の付け根にあてがった。息を呑んで、亜里香はきたる衝撃に備え歯を食い縛る。
 しかし、指先はぬかるんだそこを往復するように撫でるばかりで、核心を突く動きはしなかった。それでも亜里香の身体は電気が走ったようにびくびくと震え、ただそこを撫でられている、それだけなのに、どんどん追い詰められていく。

「……なんか今日は妙に感じやすいな……?」
「え、あ、だって……」
「いいよ、可愛い」

 耳たぶに口づけられ、そこで甘い言葉を囁かれる。敏感な神経にじかに触れて嬲る、毒のような声だ。
 そのせいで、ようやく晴市の指が体内に侵入してきたとき、亜里香は不意打ちを食らったように声もなく達してしまった。

「……っ、ん……!」

 脳が酸素を求め、口がはくはくと空気を食む。蕩けてしまった思考力がもとのかたちに戻る前に、晴市の指はさらに奥に押し入ってきた。

「んあっ」
「亜里香、声」
「あ、ごめんなさいっ、あっ、んんーっ」

 慌てて口をてのひらで塞ぐが、あえかな声は漏れる。さすがにこのささめきのような喘ぎが隣室にまで響いているとは思えないが、隣人が電話をしているような声が、内容までは聞き取れないが聞こえてくるようなつくりなのだ、油断はできない。
 これ以上、刺激の強いことをされたら。
 そう思うと背筋が凍りそうになる半面、期待で身体の芯がじんと熱を持ってしまう。

「ん、ん、ん」

 いつにも増して優しい手つきだと思った。
 泣き出したくなるほど、気が遠くなるほど、大切にされているのが分かる。
 けれどきっと今までもずっとそうだったのだ。亜里香が遮断していただけで、感じないようにしていただけで、晴市の手はいつもずっとこうだったのだ。

「はるいちさん……」
「ン」

 ベルトの金具を外す音がいやに響く。ふたり分の体重を支えるベッドの強度が今更になって気になって、亜里香はふわふわする意識のままシーツを握りしめた。
 見上げると、晴市の指につままれたスキンのパッケージが目に入り、慌てて逸らす。

「……声が出ねえように、ゆっくりしような」

 やけに甘ったるい猫撫で声に、背筋がわななく。甘やかされて、ゆっくり、という優しげな言葉を使われているにもかかわらず、ひどくされるような予感がしたのだ。
 ねばついた水音を立てて、晴市が腰をゆっくりと進めてくる。

「っ、あっ」
「亜里香、しぃー、な?」

 人差し指を亜里香の口元に当て、晴市が嫌な笑みを浮かべる。
 それで亜里香は気がついた。晴市は、亜里香が勘違いしていたことをまだ怒っている。それでいて、この状況を楽しんでいる。

「ひど、い」
「何がだ、亜里香がセックスしたいって言ったんだろ」

 直截な言い方に、身体が燃えるように熱くなる。意地の悪い笑みを浮かべた彼は、決して激しくはせず、言葉通りゆっくりと腰を密着させ、亜里香の身体の奥をその先端で圧迫した。
 そのまま、声が出そうになると晴市の手や口で塞がれ、なすりつけるような動きで何度も何度も高みに押し上げられて、必死で掴んでいた意識をついに手放そうとしたとき。
 晴市がそっと亜里香の頬を撫でて、いとおしげに目を細め、亜里香の名を呼んだ。
 自分の名前がこんなにもうつくしい響きを持って聞こえたのは初めてだ。何の掛値もなく、そう思えた。

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