結んで線になる


 ホワイトデーの一週間後の金曜、横浜駅の郵便局わき。指定した時間に、亜里香は現れなかった。
 喫煙禁止だと知っていつつも、晴市は煙草に手を伸ばす。火をつけ吸い込み、ため息のように煙を吐いた。

「……まァ、来ねぇわな」

 目を伏せ、自嘲する。
 親子ともども世話になった男が用意した後ろ暗いところのない縁談と、少々情を交わしただけの極道者。ふつうの神経をした女がどちらを選ぶかなんて、火を見るよりも明らかだ。
 分かっていても晴市は、亜里香を無理やり奪い去るのではなく、選択をさせた。
 それは、亜里香に自らの手で自分を選んでほしかったというエゴでしかない。
 晴市が指定した時間から、すでに一時間経った。三月下旬の夜はまだ肌寒く、コートを着ていない晴市は、けれど寒さではなく諦めに、肩をすくめた。
 パーキングに停めた車に戻る道すがら、晴市のスマートフォンに着信が入る。宇藤からだった。

『ボス、良いニュースと悪いニュース、どっちから聞きたい』

 耳に当てて早々の陳腐な問いかけに、晴市は眉を寄せた。

「同時に話せ」
『また無茶を……、と言いたいところだが、それができるネタだ』
「いいから早く言え」

 まだるっこしいことは嫌いだ。しかも今の心境なら尚更。
 苛立ちもあらわにせっつくと、宇藤が電波越しに息を吸い込んだのが分かった。

『ボスから頼まれていた西田亜里香の身辺調査に目処がついた。結果、彼女の母親を後妻に収めた資産家は、大陸の黒社会とつながりがある、博多でも有名なやくざもんであることが分かりました』
「……」
『そして彼女の見合い相手だが、完全にクロだ。表向きは東南アジアを相手に貿易会社を経営してるが、叩けばホコリどころかきたねぇモンが出やがる出やがる、れっきとした人身売買のブローカーだ』

 煙草を地面に落とし、革靴の底で踏み潰す。それから、亜里香の顔を思い出しとりあえず吸い殻を拾い、車の吸い殻入れに入れた。

「宇藤」
『良いニュースは、彼女を連れ戻す大義名分が見つかった、悪いニュースは彼女たち親子の恩人がクソ野郎だった、ってとこですかね。しかも……』
「宇藤」

 静かに、名を呼ぶ。ただならぬ声色に引っかかりを覚えたのか、宇藤が途中で口をつぐんだ。晴市は、相手に見えていないだろうがわずかに口角を上げ、冷たい笑みを浮かべた。

「テメェ、いつからそれを知ってた?」
『…………』
「都合が悪くなると黙り込む癖はいい加減直せ。ボロが出やすい」

 おかしいと思っていた。宇藤がいくら晴市の言うことに逆らえないとしても、堅気の女に入れ込んで溺れているのを黙って見ていることを。
 宇藤は、晴市が亜里香の身辺を調べろと命令を下す前に、独自に嗅ぎ回りすでに今ひけらかした事実を掴んでいたのだ。

『悪い。さすがに堅気の女はまずいと思ったんで、少し前から探ってました』
「怒っちゃいねェよ。ただ、お前、良いニュースって言ったな。ありゃどういう意味だ」
『え?』
「まるで俺がたった今、フラれたことを知ってるみてぇな言い草だ」

 宇藤が黙り込む。晴市はたしかに、亜里香に見合いの話が来ているから相手の男の身辺調査をしろとは言ったが、今日が亜里香に与えた選択の日だとは知らせていないはずだ。
 少しの沈黙を守り、宇藤が諦めたように言う。

『……探るために送り込んでる俺の部下が、今日福岡で西田亜里香を見たんだ』
「そうか」

 おそらく理由はそれだけではなく複合的かつ多角的なのであろうが、晴市はそれ以上追及しなかった。
 何より、その部下の目撃が確かなら、それは晴市が亜里香に選ばれなかったことを確定させる証拠だった。
 宇藤との通話を切り、晴市は少しの間、運転席で考えを巡らせていた。

 ◆◆◆

 たとえ亜里香の見合い相手がやくざであったとして、選ばれなかった晴市にどうこうできる問題ではない。
 と、そう弱気な考えもよぎらなかったと言えば嘘にはなる。だが、恩を返すためとは言えならず者にわざわざ嫁ぐことはないし、亜里香は知らないからそれを選んだだけであって、もしも相手の素性を知っていればひょっとして晴市を選んだかもしれない。
 何より情報を掴んでしまったこの身の上で、亜里香が不幸になるのをただ指を咥えて見ているだけというのは道理ではないのだ。
 泊まりで実家に帰り見合いをする。ということは、そのまま地元に居ついてしまうわけではないだろうから、少なくとも月曜の仕事には間に合うようにこちらに帰ってくるはずだ。
 そう踏んで晴市は亜里香の住むアパートを訪れた。日曜の昼下がり、静かな住宅街に、晴市の姿は溶け込まない。
 二時過ぎから待って、煙草をシガーケースに入っていた分消費しきってしまった夕方頃。小ぶりのキャリーケースを引きずって、亜里香が道の向こうから現れた。
 ドアの横の壁に預けていた背を浮かせるのとほぼ同時に、亜里香が晴市の存在に気づいた。
 目を見開き、小走りでキャリーを持ち上げ二階に上ってくる。

「晴市さん……どうして」

 亜里香は、晴市が見たことのない服を着ていた。晴市が贈ったものではない。安っぽい布地のスプリングコートにハイゲージの白いニットと紺色のタイトスカート。
 晴市が口を開くより早く、亜里香が深々と頭を下げた。

「ごめんなさい、金曜日……」
「それは、どういう意味のごめんなさいだ?」
「……約束の時間に、行けなくて」
「俺は約束はしてねえ。ただ、亜里香が俺を選ぶンなら来いと、選択肢をくれてやっただけだ」

 晴市はひそかに臍を噛んだ。亜里香にとって、選択肢を増やしてしまったことは残酷だったと気がついたからだ。
 優しい女だ、二者の間で随分と思い悩んだことだろう。今の謝罪が、その苦悩を表している。

「亜里香。俺は、お前が俺を選ぶとは思っちゃいなかったよ」

 その言葉に亜里香がはじかれたように顔を上げた。目尻がわずかに濡れている。

「そりゃ、恋人同士の今までとは違う。未来も分からねぇ、明日旦那が死ぬかもしれねぇ、でも俺が死んでもお前はずっと俺の妻だっつう肩書きを背負って生きなきゃなんねぇ」
「…………、……妻?」

 亜里香が、思わずというふうに零した「妻」という疑問符のついた響きに、晴市は腕を組み片眉を上げた。

「なんだ、伝わってなかったのか」
「え? ちがう、そうじゃない……えっと……だって、えっと」

 惑う様子で亜里香が手の力を抜いた。その拍子に手から滑り落ちてしまった鞄は、晴市が贈ったものではなかった。
 晴市は、妙だ、と思った。自分のプロポーズが伝わっていなかったのなら、なぜ亜里香は義父を選んだのだろう。やくざの妻にはなれないという決断を下したのではないのなら、なぜ。
 それほど義父への強い恩があったか、そして晴市がそれらを捨てるに見合わない男だったか。

「どうして……?」
「何が」
「恋人……?」
「……亜里香?」

 なぜそこに疑問符をつける?

「……私は、晴市さんの情婦ですよね?」
「………………。ハァ?」

 たっぷりと間を置いて、首を傾げる。
 目の前の女が何を問うたのか、まったく理解ができなかった。誰が、誰の、何だって?
 晴市が、ハァ、のあと二の句を継げないでいるうちに、亜里香は、晴市にとっては的外れなことばかり言い出した。

「それとも、晴市さんは愛人のことみんな恋人って呼ぶんですか? 月曜の方も、水曜の方も恋人?」

 目が点になる、という事象を実際には、晴市は生まれてこの方目にしたことはないが、おそらく今おのれの目がそうなっているのだろうと、遠のきそうな意識の中でかすかに思った。
 月曜、水曜、何の話だ。恋人はお前ひとりだし愛人だの情婦だのはひとりもいねぇ。

「…………亜里香」

 おそらく、おそらくだ。長らく自分の母親が愛人をやっていたために、そういった関係性に偏見や嫌悪感がないのだろう。
 ただ、なぜ、あんなに甘やかして与えてきたのに、誤解されている?

「どこから突っ込みゃいいのか分かんねェが、まず俺に情婦はいねぇ」
「……」
「恋人も、お前だけだ」
「……」
「月曜だの水曜だの何を見てどう誤解してんだか知らねェが俺はお前以外の女と会ってねぇ」
「……」
「先週のアレは、プロポーズだ」

 言葉を重ねるごと、亜里香の色のない頬がこわばってゆく。
 だんだん、晴市は自分の心が言い表しようのない荒波に飲み込まれていくのを感じていた。
 亜里香は、病院の中庭で晴市が愛を告げたときも、その後重ねられたデートのときもずっと、自分が情婦だと、愛人だと思いながら晴市を受け入れていたと言うのか。
 冗談じゃない。

「亜里香」
「わ、私、ずっと思い違いを……?」

 何を言うつもりでもなく、焦れて名前を呼べば、亜里香はこわばらせた頬をどうしてかほわりと赤く染め、そう呟いた。

「私……晴市さんの恋人だったんですね……?」

 疑問符がついていたが、それは、確認のような口調だったので、晴市は黙って腕を組んだまま眉をひそめ、ため息をついて頷いた。
 次に見た亜里香の表情には、あの日病院の中庭で晴市を受け入れたときよりもはるかに、切迫した幸福さがにじみ出ていた。

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