大切にしたい人
あれは夏のことだ。亜里香の細くやわらかな二の腕が剥き出しになっていたから、そう記憶している。
「夜になっても、暑いですね」
確かに、蒸し暑い。スーツのスラックスにベスト、長袖のシャツを腕まくりしている晴市は、素直に頷く。亜里香の、結んでまとめられた髪、垂れる後れ毛、覗くうなじが晴市の下心を刺激する。
汗ばんだうなじをじっと見つめていると、その頭が奇妙な動きをしているのに気がつく。
頭が、と言うか、身体全体が、だ。どことなくぎこちなくて、ひょこひょこと、あんよを覚えた幼いこどものような動きに、晴市は首を傾げる。
「亜里香」
「はい」
「どっか痛いのか」
「……え」
汽車道の欄干沿いに潮風を感じていた亜里香が立ち止まり、振り向く。その顔は少しこわばっているようにも見え、晴市は確信して顎をしゃくる。
「靴、合ってないのか」
「……あ、えっと」
おどおどしながら、亜里香が右足をかばうように引いた。
なぜ隠すのか分からないが、知られたくなかったようだ、が、晴市にはそんな亜里香の都合など知ったことではないし、自分の女が痛い思いをして無理をしているのを、一度気づいてしまったからには知らぬふりはできない。
「見せてみろ」
亜里香の足元に跪くと、頭上でひゅっと息を呑む音がした。
「は、晴市さん」
「あァ、踵、ひでえことになってる」
「晴市さん」
「駐車場まで我慢は……させらんねぇよなあ」
水ぶくれが潰れ赤い皮ふが剥き出しになって血が滲んでいる亜里香の小さな踵を眺め、晴市は右足のハイヒールを、両手を使って傷に触れないよう丁寧に脱がせた。
それでも、当たってしまったようで亜里香の細い小鹿のような足が跳ねる。
なだめるように、膝小僧に口づけを落とし、晴市はそのまま膝裏と腰に手を添えて亜里香を持ち上げた。
「きゃあ!」
夜九時過ぎと言えば、まだまだ汽車道をはじめ、みなとみらいには人がいる。人の目をあまり気にしない晴市でも、亜里香を抱き上げたことで注目されたのが分かったのだから、亜里香にはもっとだろう。
腕の中でじたばたする亜里香をぐっと抱き直し、耳元で囁く。
「おとなしくしろ。余計目立つぞ」
忠告したが、まだもぞもぞしている亜里香を、もう諦めて好きなようにさせながら車まで戻る。
助手席に、ドア枠から足がはみ出るように座らせて、再び跪き改めて靴擦れを見る。
「晴市さん、もう大丈夫です、ほんとうに、あの」
「何が大丈夫なんだ、治ったのか?」
「あ、いえ、あの、きゃあ!」
乾いた指ではさすがにかわいそうだと思った。だから、せめてもの仕置きのつもりで舌で傷を押せば、亜里香が痛みで悲鳴を上げた。
見上げると、頬を真っ赤にして涙を溜めた目で亜里香が見下ろしていて、背筋がぞわりと粟立つ。
絆創膏なんて持っていないし、亜里香が持っていたとしても、水で流しもせず消毒もせず、そのまま貼っていいわけがない。
そう判断し、晴市は亜里香を助手席のシートに座り直させ、運転席に回り込む。
「晴市さん……?」
「ホテルで、手当てするぞ」
「あ、……ごめんなさい……」
「なんで謝る」
怪訝に思い左側に視線を流せば、亜里香は今にも零れそうな涙をこらえながらきゅうと唇を引き結び、いいえ、と言った。
◆◆◆
今から思えば、いくらでも気づく余地のある女の言動やしぐさを、晴市は見逃していたのだ。
あの靴擦れの日、亜里香が申し訳なさそうな顔をしたのは、晴市に手間をかけさせたことを悔いたからだ。情婦のくせに手を煩わせやがって、と思われた。そう勘違いしたのに違いない。
晴市はただ、亜里香の足に傷がついたことをひどく痛ましく思い、これ以上痛い思いをしてほしくないだけのつもりだったが、そんな気遣いは一切伝わっていなかったのだ。
「……なるほどな」
福岡のやくざものと見合いをした亜里香を、晴市はとりあえず自分のセーフハウスのひとつに匿うことにした。
仕事は無理やり病気休暇を取らせ、スマートフォンは取り上げた。連絡のつかない彼女を、母や義父、そして相手方が躍起になって探していることだろう。
事務所で煙草をふかしながら、晴市は宇藤を睨むように見た。銀色のフレームの眼鏡を押し上げて、宇藤は淡々と言う。
「つまり、西田亜里香の養父は、俺たちの敵だっつうわけです」
亜里香のことを秘密裏に調べていた宇藤によると、こういうことだった。
彼女の義父は、福建省を拠点に人身売買をおこなう犯罪組織のトップと懇ろで、売買された人間を日本に密入国させては違法労働を強いたり偽装結婚の温床にしたりと、完全なクロだった。
そして、見合いの相手も、今度はその場が東南アジアに取って代わっただけで、やっていることは同じだ。
その人身売買のブローカー組織というのが、最近横浜の晴市たちのシマを荒らすならず者と、少なからずかかわりがあるようなのだった。
要は、福岡の義父による斡旋だけでは飽き足らず、横浜を足掛かりに関東にも踏み入ろうとしているのだ。
「傑作だ。潰す手間が省けるじゃねえか」
「……ボス、冷静になってくれ。確かに、いずれは潰さなくちゃなんねえが、今じゃない。黒社会を相手にしてこっちが無傷でいられるわけねぇだろ」
「宇藤、今じゃねえって、じゃあいつだ? 慎重なのは大事だよ、だがなァ、お前のそれは、横浜が乗っ取られて俺の首が向こうのボスに踏み潰されても、きっと今じゃねえんだろうよ」
ぴくり、と宇藤のこめかみが動く。
「お前はいっつも、行動がおせぇんだ。だからあの時だって野垂れ死にしそうになってたんだ。俺が拾わなかったら、死んでた」
「ボス、その話はやめろ」
眉を上げ、宇藤の制止を聞く。
宇藤は慎重すぎるきらいがある。晴市が宇藤を拾った十年前も、彼は判断を誤って死にかけていた。
「たしかにあの時俺はへまをした。ただ、今回はもう違う。ボスの役に立てるように最善を尽くすつもりでいるんだ。あの時俺はひとりだった。でも今はそうじゃねえだろ」
「……分かってんなら、俺の勘を信じろ」
「……」
宇藤は、それでもなお、納得ができない様子で渋った。
自分よりもよほど頭の切れる男だからこそ何か思うところがあるのは分かる。ただ、考えすぎては行動ができない。
それを、晴市は身をもって知っているつもりだ。
◆◆◆
セーフハウスに帰宅すると、亜里香が出迎えてくれた。
「おかえりなさい」
「……ただいま」
セキュリティは厳重だが、この目で亜里香を認めるまでは安心できないのが正直なところだ。ほっと息をついて、亜里香の頬を撫でる。
「イイコにしてたか?」
「たぶん……」
「ハハッ」
イイコ、の意味が分からなかったようで、亜里香は首を傾げてたぶんと言う。年齢より幾分か幼く見えるそのしぐさに笑って、髪の毛に手を入れて掻き混ぜた。
晴市だって、イイコ、のほんとうの意味なんて知らない。
「……? 何の匂いだ?」
玄関で靴を脱ぎ、廊下を進みリビングに足を踏み入れ、その匂いに気づく。何の匂いかは分かるが、その匂いがこの部屋で漂う理由が分からなかった。
「昨日、晴市さんの部下の方……眼鏡の方に、必要なものはないかって聞かれたときに、お願いして材料と調理器具を買ってきてもらったんです。夕飯を、つくりました」
宇藤だ。確かに、晴市は亜里香が生活するにおいて必要な物品の調達を宇藤に一任した。
下手をすれば十何年と嗅いでいない匂いだ。味噌汁の匂い、魚が香ばしく焦げる匂い、炊き立ての米の匂い。
「お口に合えば、いいんですけど……」
そう言って自信なさげにキッチンの前に立った亜里香を、背後から抱きすくめる。腕の中で身じろぐ体温に、軽く体重をかける。
「お前はほんとに、俺を喜ばせるのが上手だなァ」
「え……?」
「鯵の干物か。いいな、好きだよ」
いくつかあるセーフハウスの中でも、事務所のある横浜駅から利便性の高い新高島のここに帰ってくることが一番多い晴市だが、この部屋で食事をすることはほぼなかった。
そのため、フライパンなどの調理器具から盛りつけるための皿まですべて、宇藤が買い揃えたのだろう。和食を乗せるには少々ちぐはぐな、真っ白なプレートに鯵の干物が乗る。
炊飯器などもちろんない。小鍋で炊いたらしい白米は粒が立ち、キャベツの味噌汁からは湯気が上る。付け合わせの酢の物のサラダはタコとわかめだった。
「亜里香は、料理が上手なんだな」
「いいえ……そんなことないです」
「俺はお前のこと何も知らなかったな……」
「……」
味噌汁をすすりながらしみじみと零した言葉に、亜里香は少しだけ沈黙し、儚くほほえんだ。
「私も……晴市さんのこと、何も知らないから、知っていきたいです……」
虚を突かれ、押し黙る。
「それで、いろんな晴市さんを知って、もう一度恋をしたいです」
「…………幻滅するかもしれねぇだろ」
「しませんよ」
くすくすと笑い、断言する亜里香が不思議でならない。
亜里香に見せていない部分の瀬戸晴市は、おそらくひどく残酷で、また自堕落で、どうしようもない男だ。
生活が怠惰であることを知られるのは時間の問題かもしれない、だが、残酷な一面は、死んでも見せたくなかった。
「しません」
もう一度、きっぱりと言い切り、亜里香はこう言う。
「だって、私は私を大切にしてくれる晴市さんが好きなだけだから」
その一言で、晴市は痛感するのだ。亜里香が今までいかに、人に大切にされてこなかったのかを。
彼女たち母娘を痛めつけた父親はもちろんのこと、多感な時期を母親が日陰の存在だっただけで、おそらく同級生たちにも白い目で見られて過ごしたことだろう。
だからと言うわけではない。
ただどんな自分であろうとも亜里香が好きだと思ってくれるのなら、晴市は亜里香を命が続く限り大切にしたいのだと思う。
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