あたしが傷つける


 嵐斗くんが上着を脱いで床に落としたのを見て、息を吸った。

「ほんとに大事な話だから、びっくりしないで、ってのは絶対に無理だけど」
「……う、うん」
「でも、あたしが今から話すのは、嵐斗くんを傷つけたいからじゃないんだっていうのだけ分かってね」
「え……、うん……」

 柄にもなく緊張している。嵐斗くんがどんな反応をするか、考えるだけで心臓がばくばくと暴れて、今にも喉から出てきそうだ。吐きそう。
 あたしの緊張がうつったのか、嵐斗くんもこわばった顔をしている。
 愛子さんとあたしは、嵐斗くんになんの配慮もないクソみたいな弁護士ジジイに知らされるより、あたしが知らせたほうがいいんじゃないか、って話し合って結論づけた。
 愛子さんは電話を切る最後まで、あたしにそんなデカい責任を押しつけてしまったことを悔やんでいた。

「嵐斗くんの、親のことが分かった」
「…………え」
「ごめん。愛子さんからちょこっと聞いた情報使って、勝手に調べた。……ごめん」

 深々と頭を下げる。顔を上げると、嵐斗くんは、その鋭い目をまんまるにしてあたしを見ていた。

「……アテナちゃんが、調べたの?」
「うん」
「どうやって?」
「ネットで」
「は? ネット、って……どういう……」

 じっと嵐斗くんを見る。タイミング、間違えちゃいけない。あたしが言いたいこと、伝えたいことを全部言っちゃうのは簡単だ。でも、嵐斗くんの呼吸に合わせないと駄目だ。絶対間違えたら、駄目だ。

「……嵐斗くんがちっちゃい頃に親が離婚して、嵐斗くんはお父さんに引き取られてる。嵐斗くんが五年生のとき、再婚の話が出たんだ。……あのさ、嵐斗くんのお父さんは、嵐斗くんを殴ったり蹴ったり、してないよ。ちゃんと育ててた」
「…………」
「でも、……再婚相手が、嵐斗くんに……手を出したから」

 いつかは知ってしまうだろうけど、それでもあたしの口から生々しいことは言えなくて、ちょっとだけぼかす。
 嵐斗くんは息をすることも忘れたように、黙ってあたしを見ている。呼吸、分かんなくなっちゃうくらい、静かだ。

「お父さんが、怒って、再婚相手の女の人を、…………ころした」

 ひゅ、と嵐斗くんが息を呑んだ。
 間違えてない? あたし大丈夫だったか? ちゃんと、できたのか? 分かんない……。

「…………ころ、した、って」
「調べたら分かることだから言うけど……嵐斗くんの目の前で何回も刺したみたい。……、……これも、調べたら分かっちゃうことだから言う、……再婚相手の女の人、嵐斗くんにエロいことしてた」
「…………」

 結局、あたしや愛子さんじゃない誰かの口や、ネットの文字が嵐斗くんを傷つけるのを見たくなくて、傷つけるならあたしじゃないとって思って、全部伝えてしまう。
 今嵐斗くんから目を逸らしたら駄目だ、って思った。視線を逸らしたり、うつむいたりするのは、全然誠実じゃないと思った。
 涙がこぼれそうになりながら、じっと嵐斗くんを見ていると、嵐斗くんは呆然と呟いた。

「俺、人殺しのこどもなのか?」

 それは、どんなネットの面白おかしく書かれた文章より、刺さった。
 その一言に、嵐斗くんの絶望とか悲しみとか苦しみとかが全部詰め込まれてぐるぐるに混ぜてあるような気がした。

「違うよ」
「何が違うんだよ」
「嵐斗くんの親は、愛子さんと旦那さんでしょ」
「血はつながってない」

 言葉になんにも力がこもってなくて、あたしの言葉がどれくらいの深さで嵐斗くんに刺さっているのか、きっと想像すらできない深いとこまで刺さっている、そういうことを考えて、ぐっと泣きそうな目に力を込めた。

「嵐斗くん」
「……」
「ほんとは、これは黙っていようって思った」
「……」
「嵐斗くんが知りたいって思うなら、知らせてあげたいって思って調べたけど……、でも知らないほうがいいって思ったから、言わないつもりだった」

 嵐斗くんと目が、合うようで合わない。

「でも……今日の変なおっさん、嵐斗くんのお父さんの弁護士だった。声かけられて、お父さんが嵐斗くんと会いたがってる、って聞かされて、……ヤな感じのおっさんだった。あんなおっさんに嵐斗くんが話しかけられて知っちゃうくらいなら、あたしが嵐斗くんを傷つけるほうがマシだって思った」

 嵐斗くんが下を向いて、あたしがそろえたトランクスヘアがぱらりと顔にかかった。サイドにちょっと残っている刈り上げの名残が見える。

「……アテナちゃんは、……」
「……?」
「…………知ったとき、どう思った?」

 あたし? あたしの気持ちなんかどうでもいいだろ、大事なのは嵐斗くんの気持ちだろ。

「……嵐斗くんは、愛子さんやあの施設の人たちに、愛されて育ったな、って思った」
「……」
「だって、記憶のない六年生ってきっと育てるの大変だったと思う。だから、嵐斗くんが今こうしてここにいるのって、すごいことじゃない? 嵐斗くんもがんばったけど、愛子さんたちにちゃんと愛されてたんだなって、思った」

 愛子さんや、施設の職員さんたちが、一生懸命嵐斗くんを愛したから、今あたしは嵐斗くんと一緒にいられるし、こうやってお話もできる。

「可哀想だって思うか?」
「……嵐斗くん、いつもそれ聞くけど、もしかして可哀想って思われたいの?」
「いや……分かんないけど、俺は可哀想なのかなって思った」
「嵐斗くん。自分のことを可哀想かもしれないって思ったら、愛子さんが悲しむし、あたしだって悲しいよ」

 嵐斗くんが自分を可哀想なのかと思う頭の癖には心当たりがめちゃくちゃあるので、頭の中で心当たりを一本背負いしたあと固め技をキメる。

「嵐斗くんは可哀想じゃない。でも、嵐斗くんが自分で自分を可哀想だって思ったら、可哀想になっちゃうから、思わないほうがいい」

 たぶん何をどう伝えても、嵐斗くんは今受け止められないだろうけど、でも自分のことを可哀想だって思ってほしくなかった。
 だって、嵐斗くんは、あんなにいっぱい愛されて育って、今あたしにこんなに愛されてんのに、なんで可哀想なんだ?

「……ごめん、せっかく来てくれて、メシもつくってくれてる途中なのにさ、変な話させてごめんな」
「あたしが話し出したんじゃん……?」
「アテナちゃんがつくったオムライス、食いたいかな」
「お? 任せろ、ふわとろのオムレツを上に乗せてやる」

 結局、オムレツを焼くときに火加減を間違えてふつうの玉子焼きを乗っけて食べる羽目になったし、嵐斗くんはピーマンがちょっと苦手なので(知っててわざと入れている)口をへの字に曲げた。
 落ち込みたいのは嵐斗くんのほうだろうに、オムライスすら満足につくれないで落ち込んでいるあたしを慰めて、嵐斗くんはいつもみたいに笑った。
 さすがにえっちなことをする空気ではないと思ったので(あたしだって空気くらい読めるんだよなあ)、その夜は一緒のベッドで寝るだけにした。あたしを腕に抱え込み、うとうとしながら、嵐斗くんは呟いた。

「……アテナちゃんには、敵わねえよなあ……」

 まあ、柔道黒帯だし……。

 ◆

maetsugi
modoru