俺で遊ぶな

 なんだか、とっても吉川さんがあやしい。
 ぼうっと森のほうを見ていたり、あたしの話を聞いていなかったり、何か考え込んでいたり、何にせよどこか脱け殻のようなふわふわした感じがある。

「吉川さん?」
「あ、あ、うん。なんだっけ」
「……別に、大したことではないんですけど」
「あ、そう?」

 もぐもぐといつものようにあたしがつくったお弁当を食べながら、でもぼうっとしている。
 具合でも悪いのだろうか。熱があるとか、身体がだるいとか?

「吉川さん、お具合悪いんですか」
「え、別に」
「でも、なんだかぼんやりしてますよ」

 はっとした顔になり、吉川さんがきりりと表情を引き締める。今更である。
 そして、今日の自信作であるチーズとじゃがいものおやきを口に運びながら、吉川さんがぽつりと呟いた。

「お嬢ちゃんさあ」
「宮本新です」
「何回も聞くけど、俺の何が楽しいわけ?」
「……楽しいっていうか……」

 楽しい、って言うと、あたしが吉川さんで遊んでいる感じがすごいが、楽しいのに違いはない。
 言葉にするのはとても難しい気がする。
 吉川さんが、あたしのつくったお弁当を美味しいって言って食べてくれたり、あたしの話に笑ってくれたり、時々、ほんとうに時々触れてきたりするたびに、うれしい、が増えていく。
 あたしをあの日救い出してくれた王子様みたいに頼りがいがあって格好よかった吉川さんの、ほんとうは強く迫られると断り切れない優しいところも大好きだし、あたしなんかより全然年上なのにどこか頼りなくて、でもやっぱり最初に感じた通りの頼りがいがあって。
 悩み果てて黙ってしまったあたしに、吉川さんは気にするふうでもなく続ける。

「まあ、別になんでもいいけど」

 なんか、なんだか吉川さんが、そっけない気がする。
 この気持ちは気のせいではないと思う。吉川さんはいつも、流されやすいけど投げやりじゃない。
 じっと睨むように見つめるがあたしの視線に気づくようなしぐさも見せず、ほうとため息をついて、吉川さんはごはんを掻き込む。
 やっぱり、具合悪いのだろうか、元気ない。

「吉川さん、やっぱりお具合悪いんじゃ」
「別に」
「……」

 そっけない気がする、が確信に変わる。吉川さんはいつも迷惑そうにしつつも丁寧にあたしの話を聞いてくれるし、さっきみたいに聞き逃したりしないし、こんな突き放すような態度とったりしない。
 それが、なんで。
 そのまま、なんだか気まずい空気を感じながらああたしはもそもそとお弁当を食べて、予鈴が遠くで鳴るのを聞いた。

「あ、えっと、授業はじまるので、あたし帰ります」
「うん」

 絶対ぜったいおかしい。
 いつもだったら、美味しかった、とか言ってくれるのに。あたし、何かしたのかな。もしかして嫌いな食べ物入っていたのかな。美味しい、って言ってもらうのを目的にするのはあさましいかもしれないけど、でもやっぱり言ってほしいから。
 差し出されたお弁当箱を受け取って、後ろ髪を引かれながらもゆっくり方向転換して本校舎のほうへ歩き出す。
 途中ちらりと振り返ると、いつもなら吉川さんは仕事場に戻るために立ち上がってとっくにこちらに背中を向けているのに、まだベンチに座ってぼうっとしていた。
 やっぱり変だ。
 気になるけど、でももし聞いてうっとうしがられたら嫌だ。お前になんか関係ない、と言われるのがこわいし、あたしに関係あったらもっとこわい。
 とぼとぼと本校舎に戻って階段を上る。空っぽなのに、お弁当箱はいやに重たかった。

 ◆

「ふーん。単刀直入に、聞けばいいじゃん」
「でも」

 昼休み後一発目の授業のあとの休み時間、あたしが元気がないのを目ざとく見抜いた前の席のみこちゃんに思い切って相談すると、あっさりとそう言われてしまった。

「なんか、新らしくないね。いつもだったら、あたし何かしちゃいました!? ってわめきそうなのに」

 みこちゃんが大声で叫ぶ。思わず耳に手を当てて辺りを見回すと、クラスメイト達が目を丸くしてこちらに視線をやっていた。

「それあたしの真似?」
「うん」

 あたしそんなにうるさくないし。
 と思ったものの、強く否定はできないので黙っておく。
 たしかに、普段のあたしなら、即座に吉川さんを問い詰めているところだ。でも、今日はそれができなかった。
 吉川さんが、なんだか冷たかったからだ。
 今まで、吉川さん大好き、の気持ちで押し切っていたけど、今更になって煙たがられるのがこわくなったのだ。しつこくして吉川さんに嫌われたらどうしようとかそういうことを考えると、急に声が出なくなった。
 そのようなことをあたしにしては珍しい音量で白状すると、みこちゃんは瞠目して何度かまばたきする。長い睫毛がしぱしぱと動いた。

「深みにはまっているね」
「え?」

 みこちゃんの言っていることがよく分からず首を傾げると、くいっと人差し指を立ててあたしの額を突いてきた。ふにふにと押されてちょっとのけぞると、面白がって更につついてくる。

「好き、っていうだけの気持ちじゃなくて、嫌われたくないっていう自己防衛がはたらきはじめちゃって、新の恋は第二形態に進化している」
「人の恋心をモンスターのように……」

 あんまりな言い草にむっとして唇を尖らせる。けらけら笑って頬杖をついたみこちゃんは、顔は笑っているけど真剣さもにじませる声で言う。

「恋なんてみんなモンスターだよ」
「……」
「だから、そんなの不安がる必要ないと思う。みんなそうなんだもん」
「……みこちゃんがオトナな発言をしている……」
「失礼な」

 でも、たしかに。不安がって踏み込めないなんて、意味ない。
 明日のお昼休み、ちゃんと聞こう。あたしが何かしちゃって吉川さんがそっけないのなら、謝らなくちゃいけないし、このままでいいはずない。
 チャイムが鳴って、先生が教室に入ってくる。教科書を開いて前を向く。
 熊野先生の流暢な英語を聞きながら、ふと気になることが頭をかすめた。
 そういえばこの前吉川さん、熊野先生の話をしていた。あたしのことを、熊野先生がいい子だけど落ち着きがないって言っていたっていう話を。
 もしかしてやっぱり、吉川さん、熊野先生のことが好きになったのでは……、だから今日もぼうっと懸想していたのでは……。
 駄目です、熊野先生はもうすぐ産休に入る妊婦なのです、禁断の恋どころの騒ぎではないのです……。
 絶望的な、祈るような気持ちで吉川さんにテレパシーを送っていると、クラス中の視線があたしに集中していた。

「ん?」
「宮本さん、聞いてた?」
「す、すみません」
「教科書五十六ページの英文を読んで」
「は、はいっ」

 慌てて立ち上がり、たどたどしくも英文を読む。指されていたのに気づかないとかどんだけ没頭していたのだ、自分。
 指されて焦っていたし予習していないところだったので、つっかえつっかえなんとか読んでいると、熊野先生は呆れたような顔をしている。かあっと顔が熱くなってますます舌が回らない。なんとか読み終えて座り、教科書で顔を隠すようにして黒板の文字をノートに写す。
 今頃吉川さん、旧校舎でお仕事しているんだろうな。
 あたしが何かしちゃってご機嫌が悪かっただけならまだいいけど、もし具合が悪いんだったら、お仕事して大丈夫なのかな。
 シャーペンを持つ手に力が入り、どうしても筆圧の強い字になる。
 授業内容が頭に入ってこない。先生の声は耳を素通りしていくし、黒板の英文は目に映って記号と認識されてしまってきちんと意味を理解できない。
 頭の中に、花が咲いちゃった気分だった。

 ◆

 次の日、例により旧校舎に行こうとすると、前方から早坂先輩とそのお友達らしき人たちが歩いてくるのを発見した。
 ちょっと気まずいので、見つかる前に進路を変更する。
 早坂先輩があたしを好きだなんて、絶対何かの嫌がらせに違いない。とは思って見るものの、好きだバーカと言い捨てて走り去った真っ赤な顔は、どうも冗談には思えない。
 本気なのか嫌がらせなのかははっきりしないけど、このまま本人に会ってふつうにやり合えるほどあたしの神経は図太くない。
 なので、とりあえず早坂先輩に遭遇するのを避けることにした。いつもと違う道を通って旧校舎のほうに向かうと、作業員さんたちがお出迎えしてくれた。

「よう、お嬢ちゃん」
「こんにちは!」

 一番年上の作業員さんがにこっと笑って挨拶してくれる。そこに一緒にいた吉川さんに、笑顔はない。

「よ、吉川さん、お弁当つくってきました!」
「うん……」

 新、負けんな、強気でいけ。
 自分に強く言い聞かせて拳を握り、思い切って吉川さんの腕をいつものように掴んでベンチのほうに誘導する。

「今日は、ハンバーグです」
「お嬢ちゃん」
「ケチャップのソースと絡めてあるので、美味しいですよ!」
「お嬢ちゃん、あのさ」
「……吉川さん、あたし、何かしましたか?」

 お嬢ちゃん、と呼んでくれる声が、いつもより抑揚がなくてひやりと冷たく感じる。夜のキッチンの刃物を連想させる声だった。

「あの、怒らせて、しまったのなら、謝ります」

 吉川さんは、黙っている。別に怒っているような顔ではないけど、笑ってない。深々とため息をつかれて、あたしは焦ってしまって、きっとそうじゃない、というようなことを聞いてしまう。

「き、嫌いな食べ物、入ってましたか」
「……入ってない」
「じゃあ、ほんとはやっぱり熊野先生が好きですか?」
「好きじゃない」
「じゃあ、じゃあ……」
「……」

 じゃあ、なんで?
 二度目のため息をついて、吉川さんはどかっとベンチに座って呟いた。

「あんまり、大人をからかうもんじゃねーぞ」
「え?」
「人で遊ぶのもいい加減にしてくれ」
「…………」

 遊んでなんかいない、って、吉川さんの真剣な顔を前にすると、言えなかった。
 そんなふうに思われていたんだ。吉川さんは流されやすいけどしっかりしているから、うぬぼれてた。
 別に迷惑じゃないって思ってくれてると思っていた。ちょっとはあたしのこと、気に入ってくれていると思っていた。
 胸がぎゅうと布きれみたいに縮こまって、そこから涙が絞り出されそうになるのをぐっとこらえて、あたしはようやく反論しようと口を開けた。

「あ、遊んでなんか」
「おいこらスーパー問題児」

 眉が引きつる。ゆっくりと振り返ると、そこには案の定早坂先輩が腕を組んで仁王立ちしていた。

「旧校舎行くなっつったろうが!」
「そんなのあたしの勝手です!」
「うるさい! 俺が嫌だって言ってんだろ!」
「先輩の都合なんて知ったことじゃない!」

 今大事な話をしているところだったのに……!
 牙を剥くと、一瞬ひるんだもののあたしの腕をがしりと掴んだ。慌てて抵抗しようとベンチの腰掛けを握る。

「ほら、作業員さんの邪魔をするな」
「どっちかって言うと今先輩が究極に邪魔です!」
「そんなことないですよね?」

 急に話を振られて面食らった様子の吉川さんは、すぐにまたむっつりとした顔になる。

「帰りな、お嬢ちゃん」
「えっ……」
「ほら見ろ!」

 ずりずりと、踏ん張るあたしを早坂先輩が引きずっていく。吉川さんはこちらを真面目に見ようともしない。

「よ、よ、吉川さんの、バカー!」
「いって!」

 吉川さんに、つくってきたお弁当箱を投げつけて、あたしは早坂先輩の手を振りほどき本校舎の方角に向かって走り出す。
 途中でちらりと涙が目尻に滲んだ。ごしごしとそれを拭って、きりっと前を向く。
 悔しい。なんであんなふうに言うの、吉川さんはなんであたしの気持ち分かってくれないの、なんで、あたしの顔を見てきちんと言ってくれないの。
 吉川さんの、馬鹿!
 がらっと教室のドアを開けると、みこちゃんやほかの友達がきょとんとしてあたしを見た。

「新、どうしたの」
「知らないっもう知らないっ」
「は?」

 遊んでなんかいないのに。あたしは全部本気なのに。どうして吉川さんはあんなことを言うの。
 悔しくて、席についてお弁当箱のふたを開けてがつがつと食べ始める。みこちゃんが近寄ってきて、首を傾げる。

「吉川さんに、ちゃんと怒ってる原因聞いたの?」

 一番触れられたくないところをナイフでぐさりと刺すように鋭く聞いてくるみこちゃんを思わず睨みつけると、ちょっとひるまれた。しまった、みこちゃんには関係のないことで怒ってしまった。せっかく相談に乗ってくれたのに、恩をあだで返している。

「……なんか、帰れって言われた」
「えっ」
「わけ分かんない……いきなり、俺で遊ぶな、とか言い出して」

 みこちゃんは、眉を寄せただけで何も言わなかったけど、あたしの頭をぽんぽんと軽く叩いて撫でてくれた。それから、あたしの豪快な食べっぷりを見てため息をついた。