お悩み相談室
もう気持ちは最悪の中の最悪で、何て言うか、氷の溶けきったぬるくて薄いアイスティーにガムシロップを五、六個ぶち込んだものを無理やり飲まされている気分だ。ぐるぐると腹の底から吐き気が襲ってくるのに、吐けない。本校舎の窓から、旧校舎の方角をぼんやりと見る。しっかりとその姿が見えるわけではないが、今日も、あの建物にかけられたシートの向こうで、吉川さんは働いている。
「新っぽくないね」
「……あたしだって、ぐじぐじ悩むこともあるの」
みこちゃんが、ふうんと相槌を打って一粒のチョコレートをぽいと口に入れる。
吉川さんにお弁当を投げつけて逃走してから、一週間。あたしはその間一度も旧校舎に行っていない。
そろそろ吉川さん不足で禁断症状が出そうなんだけど、行く勇気がない。どうしても。あんなふうに派手にブチギレてしまったからというのもあるし、次に吉川さんに会いに行って今度こそ冷たく突き放されたらと思うとこわくてたまらない。
「いいじゃん。これを機に、吉川さんは諦めておとなしく早坂先輩と付き合っといたら?」
「やだ。あの人生理的に受け付けない」
「うわ、早坂先輩超可哀相」
いや、早坂先輩がどう、とかじゃなくて、吉川さんじゃないと嫌なのだ。好きな人以外とのそういうことって、想像すらできないし、生理的に無理だって思う。
そこまで答えが出ているのになんで旧校舎に行けないのだ。この意気地なしめ、あんぽんたん。うじうじすんな、と思うんだけど、あの去り際のあたしを見ようともしなかった吉川さんが、忘れられない。
さみしかった。悲しかった。こわかった。そして今も、さみしくて悲しくてこわい。
あたしの恋が第二形態に進化したのがいいことなのか悪いことなのか、分からない。
チョコレートの、最後の一粒を口に放り込んだみこちゃんが、手をウエットティッシュで拭きながらぼそりと呟いた。
「そういえば、生物の課題って今日までだっけ」
「へ?」
「やばい。まだ仕上げ終わってなかった」
「……」
課題?
「新あんたまさか」
「課題ってなんだっけ……」
忘れていた。旧校舎に行かなくても、時間はきちんと過ぎていくことを。
休み時間を全部潰して更に放課後は居残りして、ひいひいになって課題を終え、職員室に向かう。春も終わり初夏の空気が漂う外はまだ明るいけど、時計を見るともう六時近かった。
呆れ顔の先生に課題を提出して、鞄を取って階段を駆け下りる。靴を履き替えて外に出ると、湿った風がぶわっとスカートの裾を揺らした。
あーあ、今日スーパーの特売でトイレットペーパーがおひとり様二セット限定で大特価だったのに。もうないだろうなあ。
特売を諦める代わりに、ちらりと旧校舎のほうを見てしまうあたしはすっごく未練がましい。
「……帰ろ」
もう、作業員さんのお仕事も終わっている頃だよね。とぼとぼと正門までの道を歩いていると、背後から声をかけられた。
「よう」
「…………まあくんさん」
振り返る。そこに立っていたのは、作業員の茶髪のお兄さんだった。鞄を持っているところを見ると、今日の作業はおしまいで、帰りらしい。
慌てて辺りを見回すが、ほかの作業員さんの姿はない。そんなあたしを見たまあくんさんがにたりと笑った。
「吉川さんは車で帰ったよ。俺今日用事あるから、電車で帰るの」
「……」
「最近来ねえけど。さすがに吉川さんに飽きた?」
「飽きたわけないです!」
「ふうん」
顎を撫でたまあくんさんは、あたしの横に並ぶとそのまま歩きはじめた。あたしも、慌ててついて歩き出す。
「じゃあなんで来ねえの?」
「……吉川さんが」
帰れ、って。自分にも聞こえるかあやしい音量のそれをまあくんさんの耳はきちんと拾ったようで、えっ、と目を見開いた。その表情にきょとんとすると、聞いてくる。
「なんで?」
「な、なんでって、……俺で遊ぶな、とか、大人をからかうな、とか」
言いながら悲しくなってくる。あたしの本気は所詮吉川さんにそれくらいにしかとられていなかったのだ。
一方まあくんさんは、ふうん、と息をついて視線をうろつかせ、もう一度、ふうんと言った。
「吉川さん、よくそんなこと言えたな」
「それどういう意味ですか」
「いろんな意味でだよ」
真面目に答えてくれてはいるけど、肝心なことは何にも分からない。いろんな意味で、とはどういうことなんだろうか。
とにかく友達に愚痴るだけでは到底うっぷんを晴らせないあたしは、まあくんさんをこれ幸いと使うことにした。
「吉川さんが、迷惑なの分かってるんですけど、でも、どうしても好きなんです」
「ああ」
うろつかせていた視線を上のほうにめぐらせ、ふむ、と何か納得したように頷く。
「そういうのは本人に言ったれ。俺に言ってどうする」
「だって、吉川さんちっとも本気にしてくれない」
「……まあ、吉川さんの気持ち、分かんないでもないよ」
「え?」
正門をくぐり、学園の外に出る。お兄さんはあたしに歩調を合わせることをしない。でも、あたしが小走りになっているのに気付くと、ちょっとだけ歩くスピードを緩めてくれた。
「吉川さん、今年で四十だっけ」
「四十三です」
すかさず訂正を入れると、うっとうしそうに眉を寄せる。それくらい誤差だろ、と言う。
「で、まあ、うん。やっぱ世間体とか気になるんだろうし、結婚もしたいみたいだから、なかなかお前と向き合ってらんないってのも、分かるよ」
お兄さんの言い分はもっともだ。世間体なんか、って思うのはあたしが幼いからだ。そんなの気にしないって言い切れるのはあたしがこどもだからだ。
吉川さんがあたしのことをどう思っているかどうかは別として、真剣に取り合ってくれないのにはそういう理由があるんだろうか。
「あたしじゃ、結婚相手にはなれないのかな」
「お前今いくつ?」
「こないだ十六歳になりました」
「結婚できんじゃん」
「……あっほんとだ!」
あたしだって結婚できる!
「というのはまあ置いといて」
「置いといちゃうんですか!?」
「だって現実問題、お前まだ学生だし、急に結婚しろって言われてできる?」
「……」
それは、無理だ。できない。
言葉に詰まると、まあくんさんはにやりと笑った。
「置いといて、だ。たまにはちゃんと真面目に好きって言ってみりゃいいんじゃねえの」
「あたしいつも真面目なんですけど」
「馬鹿かお前、そういうこと言ってねえよ」
思い切り真正面から罵倒されて思わずまあくさんを見上げると、がしがしと頭を掻いてあたしを見下すようなこわい目つきで見下ろした。
こうして見れば、イケメンだけどコワモテでこわいよね。
「大人には理由が必要なんだよ」
「……理由?」
「お前なんで吉川さんのこと好きなんだっけ?」
あたしが、入学式当日のことの顛末を話すと、まあくんさんが、ああ、とため息をついた。
「それだ」
「ど、どれだ?」
「一目惚れっつうのは、吉川さん的に理由として弱い」
「ええっ」
すごくショッキングな事実をぶちまけられて、のけぞる。
「俺的にはいいけど、吉川さんはそういうの信じない派だと思う。どうせ、なんか頭ン中お花畑で、出会ってからの時間〜、とか、育まれていく愛〜、とか、そういうの大事にしまい込んでる」
「素敵ですね!」
「盲目かよ」
と言うか、一目惚れでこんなにガンガンに押せるあたしもだいぶ頭の中お花畑だと思いますが。
「作戦としては、もっと、吉川さんとの濃い時間を増やす」
「……」
「結局、濃さなんだよ、人間の感情って。どんだけ相手と濃い時間を過ごしたかで印象操作なんか余裕だ」
「……」
濃さ。とは。
「でも」
「あ?」
でも、とりつく島もなければどうしようもないのだ。
「もう、無理です」
「なんで」
「吉川さん、なんかあたしに冷たくて、きっとあたし何かしちゃったんです」
「冷たい?」
はて、とまあくさんんが首を傾げる。その様子にこちらも首を傾げると、まあくんさんは不思議そうな表情のまま呟いた。
「別に何もしてねえだろ」
「なぜそう言い切れるのですか」
「だって吉川さん、弁当箱洗って毎日持ってきて、お前が取りに来るのずっと待ってんだぞ」
「えっ」
自分が吉川さんにお弁当箱を投げつけたシーンがフラッシュバックする。
吉川さん、いって、って言ってた。たぶん、急所的な痛いどこかにクリティカルヒットしてしまったんだと思う。それを考えるとますますおそろしい。
「昼休みが近くなるとそわそわしだして、俺らがからかうとむきになって否定するんだけどさあ」
そこまで言って、回想したのかまあくんさんは、ふはっと吹き出した。
「別に、怒ってねえから。ちゃんと来いって」
「でも」
「あー。でもでもってうじうじうるせえな。俺、そういう何もしてないくせに後ろ向きなの大っ嫌いなんだけど」
「うっ」
でも、もしまあくんさんの言っていることがほんとうだったら、まだ、あたしは吉川さんに嫌われてはいないのかな。
もう一度、お弁当つくって訪ねても、いいのかな。
そうっと、まあくんさんの顔を、うかがうように見上げると、それに気づいた彼はにっと笑った。
「吉川さん、押しには弱いけど、ちゃんといい大人なんだから、ほんとに嫌なことは嫌だって言えるよ」
「……」
「……たぶんな」
たぶん。それはあまりにも不安定で無責任な言葉だったけど、あたしは少しだけ安心した。
ぽんぽんと軽く頭を撫でられて、気づくと学校の最寄駅まで来ていた。
「お前、どっちの線?」
「あ、こっちです」
「俺反対。じゃ、気いつけて帰れよ」
「あの」
「ん?」
ひらひらと手を振りかけたまあくんさんを呼び止める。
「なんで、あたしのことそんなに応援してくれるんですか?」
「……」
想定外の質問だったとばかりに目を丸くした。
「さあ。なんか、なんだろうな……」
的を射ない曖昧な表現で濁されるのかと思いきや、まあくんさんはどうやら真剣に考えてくれるようで、改札の手前で立ち止まった。
「……お前さ、うちの嫁に似てる」
「えっ」
「顔じゃねえよ。馬鹿正直で素直で無鉄砲で、相手のこと大好き大好き〜って。そういうのって俺、なんか応援してやりたくなるんだわ」
ぼんやりと、顔は浮かばないけど、お嫁さんの姿が目に浮かぶ。
「お嫁さん、かわいいですか」
「ばーか、めちゃくちゃかわいいよ」
笑って即答して、お嫁さんを思い出しているのかもしれない、まあくんさんが優しい顔をして少し遠くに視線をやった。
いいな、こんなふうに大切に思われているお嫁さん。あたしもいつかそうなりたいな。吉川さんに大切に思われて、めちゃくちゃかわいいよって言いふらされたい。道のりは遠いどころか途切れかけている気もしないでもないが。
「じゃあな。明日来いよ」
「あっ」
すたすたと、まあくんさんは改札をくぐってホームのほうに行ってしまった。
しばらく改札口でぼうっとしていたあたしも、改札を通る。
ホームで電車を待ちながら、吉川さんのことを考える。
お弁当箱、返そうと思ってあたしのことを待っているって、ほんとうかな。ほんとうだったら、うれしいな。
鞄を抱き込んで、やってきた電車に乗り込む。満員電車でおしくらまんじゅうされて揺られながら、あたしはぼんやり吉川さんの顔を思い浮かべた。頭の中の彼は、笑っていた。