ちゃんと息をしよう
ほんとうは吉川さんと初詣でに行きたかったけど、電話しても吉川さんが出なかったから仕方ない。あけましておめでとう、を一番最初に言いたかったのにな。寝てるのかな。
スマホの画面をじいっと見つめて逸らさないのには、吉川さんからのリダイヤルを待っているほかにもうひとつ理由がある。目の前に座るこの人のことだ。
お母さんはトイレに行くと言って無情にも席を立った。取り残されたあたしと伴田さんは、神社のそばのファミレスの席で向かい合わせで沈黙を守っていた。やがて、伴田さんがぼそぼそと呟いた。
「ごめんね、新ちゃん」
「……」
完全に無視する。伴田さんは渋い顔でコーヒーをすする。
「この間、まさかあんなに年上の人と付き合ってるとは思ってなくて、少し驚いたんだ」
「……」
「失礼なことを言ったのは、謝る」
「……」
スマホの画面からちらっと目を離して伴田さんを軽く睨むと、伴田さんが小さく縮こまった。
「何を言っても、たぶん聞き入れてもらえないとは思うけど」
「……」
「新ちゃんのことが心配なのは、分かってほしい」
「……」
むすっとしたまままた画面に目を戻す。あたしの発信履歴は吉川さんで埋まってる。スマホを持ってるお母さんや友達とのやり取りで通話機能を使うことはあまりないから当たり前なのだが。
吉川さん、スマホにしないかな。そしたらメッセージのやり取りができるようになって、メールより身近になるのに。吉川さんのメールはそっけないし。絵文字ひとつもないし。
「真剣に付き合っているなら何を言ってもどうしようもないのは分かるんだけど、それでもさすがにあそこまで年上だと動揺してしまって……」
「……」
「その……結果的に新ちゃんを傷つけるようなことを言って、ごめん」
むすっとした顔は崩さないけど、ここまで素直に謝られてしまうと怒ってるあたしのほうがなんだか悪いことをしている気分になってしまう。いや、あたしは悪いことなんてひとつもしてないぞ。
なんとなく気持ちがむずむずして、あたしは伴田さんのほうを見ることなく呟いた。
「……別に、いいです、もう」
伴田さんが、ぱっと顔を上げたのが目の端に映る。なんだかますます心臓がむずがゆくなって、あたしは絶対そっちを見ないようにする。
とそこへ、お母さんが戻ってきた。
「新、お母さんたちこれから家に帰るけど、お友達と約束とかしてないの?」
「……」
みこちゃんはお正月なのでたぶん帰省中だったと思う。ほかの友達とも特に約束してないけど、なんでそんなこと聞くんだろう?
首をかしげると、お母さんが眉毛をぴくぴくさせて苦々しく吐き捨てた。
「吉川さんと会う予定はないのかって聞いてるの」
「あっ、えっ」
お母さんが、そんなことを言ってくれるとは思いもよらず、あたしは間抜けな返事をしてしまった。それから、鳴らない携帯をちらりと見て、急いで言葉をつなげる。
「あ、ある! あるよ!」
「……そう」
怪しんでいるお母さんの視線から逃れるように、あたしは慌ててコートと鞄を抱いて立ち上がる。それから、一応ぼけっとしている伴田さんにおざなりにお辞儀をして席を離れた。背中にお母さんの言葉が突き刺さる。
「遅くならないでね、あと、ご迷惑をかけないで」
「分かってる!」
ぱたぱたとファミレスを出て、駅に向かう。初詣では、お母さんと伴田さんと済ませてしまったので吉川さんと行っても二番詣でになってしまうけど、もし行ってくれるんだったら行きたいな。
スキップする勢いで電車に乗り込んで、座るのがもったいなくてドアのそばに立つ。電車は景色をどんどん追い越してその色を変えていく。その景色が、少しだけ馴染みのある風景になって、吉川さんの住む町に着いたことを教えてくれた。
もう何度となく通ってすっかり覚えた道のりを、ドキドキしながら歩く。いつも、吉川さんの家に行く時はドキドキする。
曲り角を曲がって、白い建物が見える。お正月で静かなせいか、いつもよりも荘厳に見える。ただのアパートなのに。
チャイムのボタンにそっと指を乗せる。
「はい……あ」
「あけましておめでとうございます!」
「おめでと……」
完全に、今起きましたチャイムの音で起きました、という感じの吉川さんが顔を出す。
「あー……まあ、入って」
「お邪魔します!」
あくびした吉川さんから、少しだけお酒の匂いがした。
「昨日、お酒飲みました?」
「ん? ああ、仕事仲間と朝までコース……」
「それで電話出てくれなかったんですね」
「電話? ごめん携帯まったく見てない」
出てくれなかった、っていう言い方はちょっと押しつけがましいと思ったけど吉川さんは気にしていないようだった。
そしてブーツを脱いで部屋に入って絶句する。汚い。
「吉川さん、部屋が汚いです」
「身もふたもない言い方すんな」
「いつもより、汚いです」
「……年末忙しかったんだよ。片づけてる暇がなかった」
「あたし片づけます!」
「は? いやいいよ……」
「そういえば、このおうち掃除機がありませんね」
「聞いてた?」
あ、ハンディ掃除機発見。
ご機嫌で掃除を始めると、いいよ、と言っていた吉川さんは諦めたのか、顔洗ってくる、と言って洗面所のほうに消えた。
なんか、こうやってお掃除とかしてると奥さんになったみたいだなあ!
そんなことを考えていると頬が緩んでくる。さくさくとゴミはゴミ箱に、散らかっているものは元の場所に、とやっていると。
「……これは」
「そうだ新ちゃん、もう飯食っ……げっ!」
吉川さんがダッシュしてきてあたしの手からそれを奪い取った。その、なんて言うか、世間一般に言うえ、え、えろほんを……。
「だから掃除しなくていいって言ったのに!」
「ご、ごめ、ごめんなさい……」
「……言っとくけど、今新ちゃんより俺のほうが恥ずかしいからな……」
顔が真っ赤になっていると思う。だってあんなの、コンビニや書店に成人向けの棚があるから存在は知ってたけどまじまじと見るのは初めてだったから。
だって、だって、あんなアングル……!
奪還したエロ本を丸めて握りしめた吉川さんが、深々とため息をついてそれをぽいとその辺に投げ捨てた。
「そ、そういうことするから散らかるんですよ……」
「うるせえ。今そんなこと言ってる場合か」
「……」
「まさかと思うけど中身見てないよな?」
「えっみ、見てないです……」
「……」
なんとも言えない沈黙が訪れて、何が何だか分からなくなってしまったあたしの頬をぽろっと涙が伝った。
「え!? なんで泣くの!?」
「ご、ごめんなさ、あの、びっくりして……あの」
「男なんだからエロ本の一つや二つ見逃してもらえないと困るんだけど!」
「そうじゃなくて……初めて見たからび、びっくりして……」
えぐえぐ泣きながら必死でそれだけ伝えると、吉川さんがむむっと黙り込む。そして、呟く。
「刺激強すぎたってこと?」
「た、たぶん」
「耐性なさすぎだろ……」
吉川さんが頭を抱えてしゃがみこむ。あたしは涙を止めようと頑張りながら、吉川さんを見下ろすかたちになる。
ややあって、吉川さんが顔だけ上げて気まずそうにぼそっと言った。
「将来的には……」
「え?」
「……俺は新ちゃんとそういうことがしたくないと言うと嘘になるんだけど」
「あんなに足開くんですか!?」
「やっぱ見たんじゃねーか!」
ばっと立ち上がって吉川さんが赤い顔であたしを非難する。だって、見えちゃったんだもん、しょうがないじゃん!
というか待って、ついふつうに答えたけどよく考えたら、そういうことがしたくないと言うと嘘になるということは……?
吉川さんの言ったことを完全に理解して、顔がぼっと燃える。これ以上はないってくらいに顔や首、果ては体中が燃え盛っている。
ぺしょ、と膝をつくと、吉川さんがしゃがみこんであたしの顔を覗き込んできた。
「新ちゃん」
「うそ、うそー!」
「……嘘ではねえよ……まだ先の話だとは思ってるけど……」
先って、どれくらい先のこと?
秋、吉川さんと初デートした時にそういうことをするホテルに入ったことはある。でも、あの時は非常事態だったし、吉川さん全然そんなそぶりなかったし。ちょ、ちょっとだけそうだったかもしれないけど。
知識としては、一応知ってる。学校でも習ったし、友達にはそういうおませなことをよく知っている子もいないこともない。でも、体験したことがないので具体的に何をするのかと聞かれたらまったく答えられないし、想像のしようもない。
「あっあの、よし、吉川さんは」
口が舌がうまく回らない。焦れば焦るほど回らない。だいたい、何を言いたいのかも頭の中でまとまっていないから分からない。だけどとりあえず何かしゃべらなくちゃ、と思って口をぱくぱくさせていると、吉川さんの手が伸びてきて、あたしの頭を優しく撫でた。
「別に今すぐ取って食おうってわけじゃねえから、落ち着け」
「あ、の、あの」
「それに……まあ、いいや」
「え……?」
「いや、こっちの話」
そうっと吉川さんの顔をうかがうと、困ったなあ、と言いたげな表情であたしを見ている。
「そもそもさ、新ちゃん」
「ひゃい」
「キスするくらいで息止めてるようじゃ、道のりは遠い」
「……」
キスするとき、息って止めないものなの?
よっぽど間抜けな顔をしていたのだろう、吉川さんがふはっと吹き出した。
「止めててもいいけど……」
言いつつ吉川さんの顔が近づいてきたので、内心叫び出しそうになりながらまぶたを下ろす。いつの間にか吉川さんの手はあたしの後頭部に添えられていて、後退できないようになっている。
ちゅ、ちゅ、と何度かついばまれる。意識したら余計息なんてできない。吉川さんの服をぎゅっと握って恥ずかしさに耐えていると、かぷ、と唇を噛まれて思わず悲鳴が漏れた。
「あっ……!?」
その隙を縫って、口の中に吉川さんの舌らしき、ものが……。うそ、うそだ!
その舌が、口の中を探るように回ってあたしの舌を捕らえる。絡められて遊ばれて、さっき押し込めたはずの涙がうるうると閉じたまぶたの内側で膜を張った。
頭がパンクしそうだ。なんにも考えられない。
「ん、ふ」
何度か角度を変えてそうやって恥ずかしいキスをされて、最後にまたちゅっと唇をついばんで、吉川さんは離れていった。
「こういうのした時に、息止めとくのはきついだろ?」
「……」
吉川さんの手があたしの背中と頭を優しく撫でている。ぜえぜえと息をしながら、あたしは呆然としていた。無意識に、またぽたりと涙が落ちた。
「え、また!? ごめん、やりすぎた?」
「……頭、ぼうっとする……」
「あ、新ちゃん?」
自力では座っているのもつらくて、あたしは目の前の吉川さんにぽすんと倒れ込んだ。涙がじわっと吉川さんの服にしみていくのが、なんとなく分かった。
吉川さんの手は相変わらずあたしの背中をずっとなだめるようにさすってくれている。
頭がぐちゃぐちゃなのにそうやって吉川さんに抱きつくと吉川さんの匂いがして、ぐちゃぐちゃなのにさらにふわふわになってしまって、もうなんにも分からない。
あたしが平静を取り戻したのは、それからだいぶ経ってからで、その時にはもう吉川さんは「送ってく」と完全に帰す体勢になっていて。
ぼんやりしていた時間がものすごくもったいない気がしたけど、なんだか幸せな時間だったような気もする、と思ったのだった。