男の覚悟

 なるべくうつむきがちに改札を通るけど、駅員さんの視線を感じた。もしかしたら警察に通報されちゃうかも。と思いつつ吉川さんに電話をかける。

『もしもし』
「あっ……」
『新ちゃん? どしたの、こんな時間に』

 駅員さんの目の届かない出口の外まで歩いて、それからしゃがみ込む。ぽろぽろ流れてきそうな涙を精一杯押し込めて、囁いた。

「あの……今、K町駅にいるんです」
『……。……はっ?』

 たっぷり数秒置いて、吉川さんが素っ頓狂な声を出す。

『え、何、どういうこと……? もう深夜なんだけど』
「知ってます。今終電に乗ってきたんです」
『は? なんで、今どこって?』
「駅の北口を、出たところ……」
『……すぐそこにコンビニあるだろ、そこに入って待ってろ』

 ぷつっと通話が切れた。スマホの画面じっと眺めていると、お母さんからの電話。出ないまま、赤いボタンをタップする。
 煌々と明るいコンビニに吸い寄せられるように入って、入口近くの雑誌売り場に所在なく立つ。うつむいていると、来店を告げる自動ドアの開く音と入店メロディが鳴った。

「……吉川さん」
「何してんだ!」
「っ」

 いきなり怒鳴られて、思わず首をすくめて目をつぶる。それからそうっと吉川さんを見上げると、ちょっと呼吸が乱れていて、もしかして走ってここまで来たのかも、と思った。
 黙ったまま、吉川さんが手を差し出してきた。その手を握るとぐっと引っ張られてコンビニを出る。
 歩きながら、吉川さんがぼそっと呟いた。

「で? 終電に乗ってきたって?」
「……はい」
「今車、車検に出してるんだけど……」
「い、家には帰らないです!」
「……」

 すう、と目が細められ、家出か、と言う。そんなつもりじゃなかったけど、そうなるんだよな。
 そのまま、少し考えて、吉川さんはとりあえずというふうに歩き出した。ここでこうしていてもしょうがない、ということなんだろうか。

「とりあえず、うち行くぞ」
「……」

 怒ってるんだ。
 だって目を合わせてくれないし、なんとなく声が疲れているし。そうだよね、だってきっと明日も仕事で、もうすぐ寝ようとしていたところだったかもしれないし、こんな夜遅くにあたしみたいな未成年が出歩いていていいはずないし。
 しばらく歩いて曲がり角を曲がる。

「ここ」
「……」

 見上げると、きれいな三階建てのアパートがそこにある。白い壁が新しくて、朝だったらきっとまぶしいと思った。
 二階のドアの前で吉川さんは立ち止まり、鍵を取り出した。ドアを開けて吉川さんが部屋の電気をつけたとき、あたしの携帯がまた震えた。

「あ……」
「何?」
「……お母さん……」

 吉川さんの手前拒否ができなくて、震え続けるスマホを持ってじっとしていると、吉川さんがそれを奪った。

「入ってな」
「……」
「この緑のボタン押せばいいのか」
「……」

 吉川さんに背中を押されて家の中に転げるように入り込む。短い廊下を歩いて部屋に入る。奥に寝室があるようで、リビングになっていた。テレビがついたままで、吉川さんが慌ててあたしを迎えに来てくれたのが分かってしまう。

「……」

 振り返ると、吉川さんは困ったような顔をしてスマホでお母さんと喋っていた。

「ええ、はい。終電に乗ってきたらしくて。車を車検に出してしまっていて……すみません、タクシーで帰らせます」
「帰らない!」
「え?」

 吉川さんがはじかれたようにあたしのほうを見た。
 ぎゅっと唇を噛んで泣くのをこらえたけど、結局涙は目尻からこぼれてしまって、吉川さんがあわあわと近づいてきた。

「新ちゃん」
「帰らないです! 絶対帰らない!」
「わあ! あ、あの、ちょっとすみません、待ってください!」

 吉川さんが携帯を放り出してあたしの頭に手を置いた。あたしは、立っていられなくて床にしゃがみ込んで、もう吉川さんが困っているとかそんなのお構いなしに泣いた。
 必死でどうにかしようとしているのが、声や指先から伝わるけど、一回飛び出してしまった涙と押し込めていた感情がそう簡単に引っ込んでくれるはずもなくて、吉川さんの頭や背中を撫でさする手に余計に泣けてきて、あたしはひとりぼっちみたいに泣いた。
 ほんとうはひとりぼっちではなくて吉川さんがとなりにいてくれたけど。でも、それでもお母さんの話や伴田さんのこと、お父さんのこととかいろいろが頭をめぐって、すごく悲しくて、胸が詰まって。
 慰めてくれる優しい手に甘えてわんわん泣いて、気づいたら、朝が来ていた。

「…………」

 むくっと起き上がると、あたしはちゃんとお布団で寝ていた。
 枕元にはスマホが置いてあって、当たり前に通話は切られている。
 時計を見ると時間は五時過ぎを指していて、結局あんなふうに泣き疲れて寝てしまってもいつもの時間に目が覚めるんだと思ったらちょっと笑えた。
 お母さん、寝たのかな。朝ごはん、もう起きて準備してるのかな。
 少しだけまぶたが重い。目をぐしぐし擦って立ち上がって窓のカーテンを引いた。朝陽がさあっと入り込んできて部屋を照らす。
 全然知らない風景が広がる。

「……」

 ぼうっとしていると、背後でドアが開いた。慌ててカーテンの陰に隠れる。

「……何してんの?」

 怪訝そうな声を上げた吉川さんに、気まずくて、ちらっと顔だけカーテンから出して、目を合わせないようにうつむくと、ため息をつかれた。びく、と身体が揺れた。

「送ってくから、顔洗っておいで」
「……」
「この期に及んで、帰らないはなしだぞ」
「……」

 ずっとうつむいていると、吉川さんはまたため息をついて、あたしのそばまでやってきて、がしがしと髪の毛を掻き混ぜるみたいに頭を撫でた。

「お母さん心配してた。帰って謝らないといけないだろ」
「……だって」
「理由は昨日聞いたよ」
「え」
「新ちゃん、泣きながら新しいお父さんのこととか、俺のこととか話してたよ」

 恥ずかしい、そんなこと言ってたんだ。
 三度目のため息をついた吉川さんが、ぽつりと呟いた。

「お母さんが反対するのも、当たり前なんだよな……」
「っそんな」
「だって俺、お母さんより年上だろ」
「……」

 言い返せない。その通りだから。
 何が駄目なの、ってほんとうに思っているけど、その反面でお母さんが反対する理由もちゃんと分かってて。
 でも、お母さんはあたしが傷つくのが嫌だって言ったけど、あたしが自分で選んだことなんだから。いつまでも何も分からないこどもじゃないんだから。もう、結婚だってできるし働いてもいい歳だ。
 自分で選んで痛い目を見たって、そういうことも大事なことだって思うのに。

「あたしもうこどもじゃないのに、自分で選べるのに」

 また、涙が出てくる。軽くしゃくりあげると、吉川さんは眉を寄せた。

「新ちゃん。新ちゃんが思う以上にな、今の新ちゃんに選べることは少ない。たしかに新ちゃんはもうこどもではないかもしれない。でも、社会的には責任も権利もないんだ。新ちゃんは、自分で選んだことの責任を取れない」
「……」
「準備して。帰るぞ」

 痛いところを突かれてしまった、と思った。
 あのとき。吉川さんを好きになって猛アタックしていたあのとき。あたしは自分でしたことの責任を、取りたくても取ることができずに、吉川さんにひどいことをしてしまった。
 カーテンから抜け出して、立ち上がる。
 吉川さんの部屋は、吉川さんって感じがした。ちょっと散らかっていて、でも、不愉快じゃない。落ち着く。
 顔を洗って、朝ごはんも食べずに、着替えた吉川さんと家を出る。

「……」
「……」

 会話がない。
 角を曲がったところで、そっとアパートを振り返る。やっぱり、まぶしい。
 電車に揺られながら吉川さんは黙っていて、あたしはどうしようもなく不安になってしまう。反対されるの、きっと面倒くさいと思われた。別れようって言われたら、どうしよう。
 ぎゅっと吉川さんの服の裾を握ると、その手にごつごつした大きな手が重ねられた。大丈夫だよ、って言われているみたいで少しほっとした。

「新!」

 アパートに帰ると、部屋の前でお母さんが立って待っていた。吉川さんが、あたしとつないでいた手をぱっと離してしまう。ぞわっと、言いようのない不安が広がる。

「……」
「ほら、新ちゃん」
「……ごめんなさい」
「心配したのよ!」

 お母さんが駆け寄ってきてあたしの頭を軽く叩いた。じわっと涙が浮かんできたけど、それを我慢した。
 それから、お母さんは吉川さんのほうに向き直った。

「新がご迷惑をかけて、ほんとうにすみません」
「あ、いえ……」

 なんだか居心地が悪そうな吉川さんに、一気に申し訳なくなる。
 お母さんが、吉川さんに向かって、あたしの頭を思いっきり押して下げさせた。

「新。謝りなさい」
「……ごめんなさい」

 消えちゃいたかった。吉川さんに迷惑かけたんだって今更再認識して、すごく、消えちゃいたかった。
 お母さんは、そのあとずいぶん言いにくそうに言葉を選ぶようにして黙っていたけど、やがて口を開いた。

「新との交際のことなんですけども」
「……」
「私の言いたいことは分かると思うんです」
「はあ……」
「考え直しては、いただけないでしょうか」

 お母さんに押さえつけられたままの頭が真っ白になる。

「新はまだこどもです。一人前だって本人は思っているけど、まだこどもなんです。社会的にも守られるべき存在で、私にはこの子を守る義務があるんです。それはあなたも同じはずです」

 吉川さんの表情は見えないけど、でも何の言葉も発しないのはなんでなのって思ってしまって、悲鳴が零れそうになって口を手で覆った。

「……お母さんのご心配は、もっともだと思います」

 吉川さんが口を開く。静かな声だった。

「俺も、同じように思ってます。まだ幼いし、問題もいろいろある」

 吉川さんはため息をついた。もうたまらなくなって顔を上げると、吉川さんは意外にも笑っていた。

「……新ちゃんは俺みたいな奴にはもったいないくらいよくできた子だし、未来もある」
「吉川さん」
「新ちゃん。俺の勝手な気持ちでさ、俺が新ちゃんの未来を奪っていいはずはねえんだよ」
「……!」

 未来なんていらない。吉川さんがそこにいてくれたら、あたしはなんでもいいのに。
 吉川さんのいない未来なんて、そんな未来手に入れたところで、あたしがうれしいはずないのに。
 ぽたっと涙が落ちた。それを見て、吉川さんは困ったように頭を掻く。

「でもなあ。いっぺん覚悟決めちゃったもんな」
「……え」
「もう俺、駄目な大人だからなあ、最後まで駄目であるべきだろ」
「……」
「男に二言はない」
「よ、よしかわさん」

 短い髪の毛をがしがしと掻き混ぜて、ぽかんとしているお母さんに向かってにかっと笑った。

「すいませんけど、無理な相談ですね」
「……」
「あんなふうに泣かれちまったら、余計に」

 お母さんの肩の力がふっと抜けたように見えた。でもその表情は硬いままだ。

「俺は……、新ちゃんがゆっくり大人になるのを、ちゃんととなりで見届けてあげたいかなって思います」
「……新。帰るわよ」
「えっ」

 お母さんが吉川さんに背を向けて、ぼそっと言った。

「今日のところは帰っていただけますか」
「……」
「そんな自分勝手な言い分、到底納得できません」

 そう吐き捨てて、お母さんはドアを開けてあたしをちょっと乱暴に玄関に押し込んで自分も入って鍵を閉めた。
 それから、あたしを見て長々とため息をついて顔を手で覆った。

「しばらく学校以外の外出禁止」
「えっ」
「えっ。じゃないわよ! どれだけ心配したと思ってるの!?」
「……ごめんなさい」

 自分の部屋に入って、窓の外を見る。
 きらきら、朝陽が輝いていた。