断固として

 ぼんやりと窓の外を見ていると、教室のドアがものすごい音を立ててスライドされた。

「おい、お前っ」
「……」

 今度こそ声で識別できる。早坂先輩だ、無視しよう。あたしはお前という名前じゃないので、振り向いてやる義務は塵ほどもないのである。
 そのまま窓の外の景色を見ていると、今度はだいぶ近くで声がした。

「無視すんな!」
「……」

 かたくなに無視を続行する。あたしにはいろいろと考えることがあるのだ。吉川さんのこととか伴田さんのこととか、吉川さんのこととか吉川さんのこととか。
 こんな人を相手にしている場合じゃない。と思っていると、肩を揺さぶられた。限界だ。

「おい!」
「なんですかピイピイと」
「人をひよこみたいに言うな!」
「ひよこ以下です」
「……ちょっとこっち来い」

 いつになく真剣な顔をしている。

「……?」

 あまりにも真剣な顔をしているので、仕方なく席を立ちそのままついていく。ひとけのない廊下の隅で立ち止まる。
 くるりとこちらを振り向いた早坂先輩は、すごく神妙な表情であたしに言った。

「こないだの」
「え?」
「彼氏いるって話」
「ん、ああ」
「ほんとか?」
「ほんとです」

 ふんっとない胸を張ると、ますます困惑したような顔になった。

「それ、もしかしてあの作業員さんとか、言わないよな」
「言います」

 即答する。たぶん、あたしはそれがどれだけまずいことなのかよく、というかまったく分かっていなかった。
 あたしの返答を聞いた途端、早坂先輩が眉根を寄せて眉間にひどい皺をつくった。そして、あたしに向かってため息をつく。

「お前……俺が散々注意したこと忘れたのかよ」
「学校の品位うんたらかんたらですか」
「そうだよ」
「校外だからいいじゃないですか」
「よくない!」

 牙を剥く。ようやくいつものキャンキャンうるさい早坂先輩っぽい。
 またお説教か、とややげんなりしながらうつむくと、例によりがあがあとまくし立て始めた。

「いいかお前、お前はまだ高校生で未成年で! 向こうは年齢知らないけど立派な大人で! 淫行が成立するんだよ!」
「淫行とか言われるほど破廉恥なことしてませんし!」
「そういう問題じゃないんだよ! お前分かってないかもしれないけどな、なんかあったとき罪被るの、全部あのおっさんのほうだぞ!」
「は!? 何言いがかりつけてくれちゃってるんですか!?」
「言いがかりじゃない! ほんとのこと言ってんだよ、なんかあってあのおっさんが世間から白い目で見られてもいいのかよ!? そうなったときお前が悲しいんじゃないかとか、お、俺は……」

 ていうか、なんか、ってなんだ。破廉恥だな。
 でも言ってることはまともだ。あたしはちょっと黙って考える。吉川さんが、世間から白い目で見られる?
 いやだ。そんなの、あたしのせいでそんなの、絶対いやだ。
 あたしが顔をしかめたのを目ざとく見つけた先輩が勝ち誇ったような顔で言う。

「淫行は犯罪だ!」
「いつあたしが法に触れることしたんですか? 何時何分地球が何回まわったとき!?」
「あんなおっさんを彼氏って呼んでる時点で犯罪だ!」
「吉川さんはあんなおっさんじゃないです!」

 何回このやりとりしたと思ってるんだ、懲りないな、この人。
 そんな早坂先輩がまたぐだぐだと学園の品位について語り始めたので、あたしはうんざりしながら一歩後ずさる。それを見た先輩があたしをぎろりと睨み、たぶん決め台詞を吐いた。

「だから! お前は俺と付き合っとけば問題ないんだって!」
「ご丁寧なお説教ありがとうございました! 肝に銘じます! じゃっ!」
「あっ、ちょ、おい!」

 何かと思えばまたその話。吉川さんがいなかったとしても早坂先輩はあり得ないんだってば。
 小走りで廊下を走り抜け教室に戻ると、みこちゃんが近寄ってきて首を傾げた。

「早坂先輩、なんて?」
「淫行にならないよう気をつけろ、だって」
「ああ……ほんと気をつけなよね」
「みこちゃんまで……」
「だって、なんかあったとき捕まるの吉川さんのほうだよ?」

 う。また、なんか。みんなして、なんかなんか、って破廉恥。でも、なんか、でそういう想像をするあたしが一番破廉恥なのかな。吉川さんとなんかなんて、そんなのそんなの……。

「恥ずかしい!」
「うわっ、急に叫ばないでよ」

 軽いキスでいっぱいいっぱいなのに、なんかなんて!

 ◆

「……新ちゃん?」
「……」
「……俺の顔なんかついてる?」

 その日の帰り道、吉川さんの顔をじっと見つめていたら不思議そうに逆に覗き込まれた。びっくりしてつないだ手にぎゅっと力を込める。
 なんかあったとき、っていう言い回し、結局よく分からない。なんかって具体的にはなんだろう。

「吉川さん」
「ん?」
「なんかあったとき、ってなんだと思います?」
「は?」
「今日、なんかあったときに迷惑こうむるのは吉川さんだってみんなに言われて」
「……」

 ぽかんとあたしの話を聞いていた吉川さんが、言葉の意味を考えているのか難しい顔をした。それから、ため息をつく。

「たぶんな、それは正しい」
「……」
「なんかってなんだよって感じではあるが」
「ですよね!」
「まあ、手をつないでるだけでじゅうぶん犯罪臭いんだよな」
「えっ」

 これも駄目なの?
 つないだ手をじっと見ていると、頭上で吉川さんがふっと吹き出した。

「細かい法律とか俺もよく分かんねえけどさ、でもまあ、その、なんだ」

 言葉を探すように目をうろうろさせた。でも見つからなかったらしく、うーん、とうなって、とにかく……と続ける。

「別にその、あれだよ、新ちゃんがいやだっつーことはしないし、ほら一応あれだよ……あれ」

 言いたいことはさっぱり要領を得ないけど、いやだって言うことはしないって言ってくれたのがなんだかすごく、胸がぎゅっとなる。やっぱり吉川さんは優しい。
 いつもみたいにアパートの部屋の前に着いて、吉川さんは頬を人差し指で掻いて困ったような顔になった。

「……あそこでの作業、今週いっぱいで終わりなんだわ」
「あ……」
「だから、来週あそこ行っても俺もういないから、寄り道せずに早く帰れよ」
「……はい」

 今週で九月も終わり。それはすなわち、吉川さんと一緒にこうして帰れることの終わりを表している。
 つまんないな。さみしいな。

「吉川さん、どちらに住んでいるんですか?」
「ん? K町」

 意外と近いし、学校から家までの通過駅だ。
 あたしが目をきらきらさせているのを見て吉川さんが怪訝そうに眉を寄せたけど、それもすぐやめてあたしの頭をするっと撫でた。

「戸締り、ちゃんとな」
「……」

 こっくり頷いて、吉川さんに見守られながら部屋に入る。
 キスは全然慣れない。軽く羽毛が触れたようなかわいいやつでも、だ。
 玄関にしゃがみ込んでいると、ドアが開いた。

「ただいま……何してるの?」
「おかえり……」

 お母さんがきょとんとしてあたしを、邪魔だと手で払うしぐさをする。ふらふら靴を脱いで自分の部屋に入ろうとすると、お母さんはあたしを手招きした。

「新、ちょっと来なさい」
「……?」

 部屋のドアノブに手をかけたところで呼ばれ、そこから手を離しリビングに向かう。お母さんはテーブルの椅子に腰かけて、あたしもそれにならって対角線上の椅子に腰を下ろした。
 真面目な顔をしたお母さんは、あたしをじっと見てため息をついた。

「な、なに?」
「ねえ、新」
「うん」
「伴田さんのこと、どう思う?」
「……」

 いきなりそんなことを聞かれ、かなり迷う。素直に言うべきなのかどうかを。返答を言いあぐんでいるあたしに、お母さんは二回目のため息をつく。

「正直に言って」
「……あんまり、好きじゃない……」
「……」
「…………ごめん」
「いいの。急に紹介されても戸惑うだろうし、新にとっては赤の他人のおじさんよ、仕方ない。でもね新」

 お母さんはふっと息を吸って、真剣な顔であたしを見つめた。

「お母さん、新の恋人のこと、反対よ」
「へ?」

 なんのことを言っているのかよく分からなかった。なんで伴田さんのことから急に吉川さんのことに話が飛ぶの? それに反対って、どういうこと?

「好きなだけならいいけど、でも付き合うってなったら話は別よ。だってお母さんより年上なんでしょう」
「それは……」
「相手の方が何を考えてるか、分からないし、なんかあって新が傷つかないなんて絶対言えない」
「よ、吉川さんはそんなひどいことしない」

 また、なんか。

「どうしてそう言い切れる? 相手の方はただ、新みたいな若い子と付き合いたいだけじゃないの?」
「そんなの、違うの」

 ほんとうは吉川さんはあたしみたいな女子高生とは、お子様とは付き合いたくはなかったのだ。だってそう言っていた。でも、あたしがゴリ押ししてゴリ押しして、それで折れてくれたのだ。もしかして、あたしのことをそんなに好きじゃないかもしれないけどそれでも、だからこそ、吉川さんがそんな「若い子と付き合いたい」なんていう目的じゃないって言える。

「あ、あたしが無理言って付き合ってもらってるだけだもん……」
「だったら尚更よ。あとあと絶対に傷つく。なんかあったときに傷つくのは絶対に女なんだから」
「傷つかない!」
「新」

 ぴしゃり、とお母さんがあたしの名前を呼んだ。

「お父さんが早くに亡くなってるから、新が年上の男の人に憧れるのも分かる。でもね、それはほんとうにその人を好き? 父親の代わりが欲しいんなら、お母さんがいくらでもがんばる」
「そんなこと」
「新たには苦労させてるから、だから絶対傷ついてほしくないの」
「……」

 苦労してるなんて、思ったことない。家事は好きだし、働いてあたしを養って育ててくれているお母さんには感謝しているし、そりゃあお父さんが欲しいって思ったことはたくさんあるけど。
 でも、吉川さんにお父さんの代わりはできないよ。

「……吉川さんに、お父さんの代わりなんか、できないよ」
「新……」
「伴田さんにもできないよ。お父さんはこの世にひとりだよ」
「……」
「あたしのお父さん、お父さんだけだもん! 今更新しいお父さんなんていらない!」

 泣きそうだった。吉川さんのことを認めてもらえないのも、あたしが放った言葉がお母さんを傷つけているのも、どっちもつらかった。
 椅子から立ち上がり、部屋に走って入って鍵をかけた。

「……新」

 部屋の外でお母さんが呼んでいる。でも、開けたくなかった。
 ドアに寄り掛かって、ずるずると崩れ落ちる。無性に吉川さんに会いたくなって、頭を撫でてほしくなって、それでいつもの笑顔を見せてほしくなって、安心したくて。
 でもそれはお父さんの代わりだからじゃない。あたしが吉川さんを好きだからだ。
 床に寝転んで、じっとしていた。お母さんが、諦めたようにドアの前から去っていく気配がした。
 吉川さんに、会いたいな。
 物音を立てないように、あたしはそうっと立ち上がった。