初めての
体育の授業のあと着替えに手間取って授業に遅れそうになり廊下をばたばたと走っていると、急に呼び止められた。「おい!」
「……げっ」
立ち止まって振り返らなければよかったのである。声で相手を識別できる余裕があれば、立ち止まったりなんてしなかった。
露骨に顔を歪めたあたしに一切構わず、早坂先輩が教科書を小脇に抱えて近づいてきた。移動教室らしいが、もうすぐチャイム鳴りますけど?
「お、お前さ」
「……なんですか」
「映画とか、興味ある?」
「ないです、じゃっ」
「待て! 待て待て!」
即会話を終了させて教室に戻ろうと踵を返しかけると、先輩が慌てたようにあたしの肩を掴んだ。何なんだこの人。
「別にデートの誘いじゃない!」
ん?
映画とか興味ある? って、受け取り方によってはデートの誘いなわけなの?
たとえばあたしがここでイエスに近い返事をしていたら……あっ、なるほど、スムーズにじゃあ今度俺のオススメ映画を……っていう流れに持っていけるわけだ。何だこの高等テクニック! 吉川さんに使います!
で、ここでぽかんとした顔を続けていたら馬鹿に見えそうだったので、お誘いじゃないなら何なんだ、といういかにも分かってました風を装ってみる。
じとっと見ていると、早坂先輩がふっと鼻で笑い、話を続けた。
「フラれてへこんでる後輩を慰めてやろうと思ってな、今度の金曜公開の新作の前売りを買ったんだ」
「……」
「観に行くよな?」
「……」
これはデートの誘いとどこが違うんだろう……。
「先輩」
「ん?」
「あたし、彼氏いるんで!」
「……ん?」
「じゃっ!」
「……え!?」
満面の笑みで告げて、ダッシュで教室に戻る。
あたしの背中に向けて、早坂先輩が叫ぶ。
「何それ!? 俺聞いてない!」
言ってないし。
そんなことはどうでもいい。あたしの、吉川さんとのラブラブをはじめとした順風満帆な生活に、ひとつ問題が生じてしまったことのほうが、よっぽど重大だ。
「吉川さん!」
「お嬢ちゃん」
相変わらず、お仕事仲間さんの前ではお嬢ちゃん呼びだが、まあいいだろう。
鞄を抱えて吉川さんのとなりに並ぶと、へらっと笑って首を傾げた。
「帰るか」
「もう、お仕事終わったんですか?」
「そこ狙って来てるくせに……」
ちょうど終わったとこだよ、とため息をついて、吉川さんが伸びをした。背中の肩甲骨のところがやわらかく動いた。思わずまじまじと見てしまったあたし、……破廉恥だな……。
「新ちゃん?」
「あっ、はい、なんでしょう!」
破廉恥なことを考えていたのがばれないように取り繕うけど、態度がおかしいのはばればれだったようで、吉川さんは怪訝そうな顔をした。
「どうした? 顔赤いけど、熱ある?」
「ぎゃあ! ないです!」
手が額に触れて、思わず奇声を上げてしまう。すぐに離れていったけど、ごつごつした手の感触は離れない。おっきくてあったかくて、優しい手。
離れてしまったのが、ちょっともったいないと感じる。声、上げなきゃよかった。
「じゃ、また明日」
「はい……」
吉川さんの手が頭を撫でて、額にキスされる。このときだけ、いつもあたしはなんだかたまらない気持ちになる。
世界が吉川さんとあたしのふたりだけになったみたいな、胸がぎゅうっと苦しくなる気持ち。
そんな魔法はすぐに解けてしまうけど。
「戸締りちゃんとな」
「あっあのっ」
吉川さんの作業服の裾をつまむ。ん、と不思議そうな顔であたしを見る吉川さんの目はたまらなく優しくて、こわいくらいだ。
あたしは、勇気を振り絞り羞恥心をかなぐり捨て、ぎゅっと目をつぶって思い切って聞いた。
「な、なん、なんで、口にはしてくれないんですか……」
「……」
吉川さんは黙っている。
沈黙が怖くて目を開けて見上げると、ちょっと困ったような顔で、少し頬を赤くしていた。
「別に、理由はないけど……」
「ないなら、して、くれても……」
「……いいの?」
「え?」
「初めてだろ、こんな、流れとかじゃなく、こう、もっと……」
「……」
吉川さんが何を言わんとしているのかがようやく分かって、顔が真っ赤に染まっていくと同時に目が潤んだ。
それを見て、慌てて言い訳っぽく、いや違うんだよとかなんとか言い始めたところにタックルして抱きつく。
「おわっ」
「吉川さん!」
「なに、ちょ、どしたの」
たくましい胸筋に顔をぐりぐり押しつけて、吉川さん、を全身で感じる。
そんなに一生懸命あたしのことを考えてくれてたのが、うれしくて切なくて、なんかもう、死んじゃう。
でも、でも。
「吉川さん」
「……」
「あたし、吉川さんならなんでもいいんです……」
感動しすぎてもう自分でも何を言えばいいのかよく分からないが、とりあえずそれだけ伝える。
これはほんとうだ。吉川さんだったら、なんでもいい。でもきっと、吉川さんはそうやって優しくいろいろ考えてくれてるって分かっているから、なんでもいいって言えるんだ。それって、すごいことだ。
吉川さんの汗のにいと作業着の洗剤のにおいが混じった、吉川さんだけの匂いに酔ったみたいになってふわふわした頭で吉川さんを見上げる。
すると、吉川さんが目を細めてくっと顎を引き、つばを呑んだ。そのまま、あたしは吉川さんに抱きついたまま、吉川さんの手があたしの後頭部を上に持ち上げるように軽く引き寄せた。
「……」
「……」
ちゃんとできたのかな。変じゃなかったかな。め、目は閉じてたよね。それから、それから、それから……。
「……戸締り、しっかりな」
「……はい……」
頭がぽーっとなって、ふらふらと吉川さんから離れて鍵を開け、ドアの向こうに滑り込む。鍵をかけて靴を脱いで、部屋に向かう。部屋のドアを閉める。
「わあああ……」
うめきながらベッドに着替えもせず頭からダイブして、足をばたつかせる。枕に顔をうずめてぴたっと動きを止め、唇に指を伸ばした。
あ、あったかかった……あと、なんか、すごく、ふにゃって、やわらかかった……。
壁にかかったカレンダーを横向きに見つめながら、しばし余韻に浸る。……顔がぽかぽかして、熱い。
そのまましばらくぼんやりして、ふと時計を見る。……。……夕飯!
「やばい!」
お母さんの帰宅予定時間が迫っている。急いで立ち上がって秒で着替えてキッチンに向かい、冷蔵庫を覗いていると、お母さんが帰ってきた。
「ただいま!」
「おかえ、り……」
「こんばんは」
「こんばんは……」
帰ってきたのはお母さんだけじゃなかった。伴田さん……お母さんが再婚するかもしれない相手も一緒だったのだ。そうだ、今日来るって朝言ってた。全然忘れてた。
にこにこ笑っている伴田さんは、お母さんよりひとつ年上で、それでも吉川さんより年下。
お父さんの友達だったそうなんだけど、あたしはあんまりこの人が好きになれない。なんだか笑顔がとても胡散臭いし、とってもとっても馴れ馴れしい。
「今日は何をつくっているの?」
「あ、えと……さつまいもと豚肉を炒めようと思ってて……」
「すごいね、まだ高校生なのに」
「……」
ネクタイを緩める。ここは、あなたの家じゃないのに。
「じゃあ私、ちょっと着替えてくるね」
「ああ、うん」
お母さんが寝室のほうへ消えて、リビングにはあたしと伴田さんが取り残された。
料理に集中するふりで伴田さんのほうを見ないでいると、伴田さんはぽつりと言った。
「新ちゃんは、学校は楽しい?」
そんな、お父さんが聞くみたいなこと、言わないでほしい。
どんどん、高揚していた気持ちが落ち込んでいく。急に、今までずっとお母さんとふたりでやってきたのに、急に父親になるなんて言われても、全然しっくりこないし抵抗感しかない。
この人と一緒に暮らすことになるかもしれないの? ……やだ……。
だって、お母さんにとっては好きな人かもしれないけど、あたしにとっては知らないおじさんだ。知らないおじさんと一緒に暮らすなんて、お父さんって呼ぶなんて、無理だよ。
「……楽しいです」
「そっか」
だってあたしのお父さん、ひとりだけだもん。