波乱の幕開け

 家の最寄り駅で電車を降りて、家に向かう途中、道を逸れる。とくとくと心臓が少しずつ鼓動を大きく刻んでいくのを感じながら、弾む息を整えて、マンションの前に立つ。
 まだ、工事中のシートに覆われている。すぐそばの道端に、大きな車が何台か停まっている。そわそわしながら人の気配がするほうを覗き込めば、ちょうど作業を終えた様子の作業員さんたちがぞろぞろと、車に向かってくる。

「吉川さんっ!」
「えっ? ああ、お嬢ちゃん」

 今月いっぱいで、このマンションのリフォームは終わってしまうらしい。十月からは毎日会えなくなってしまうから、今のうちにたくさん会っておくのだ。
 ところで吉川さんは、いまだにあたしのことをお嬢ちゃんと呼ぶ。

「今帰りか?」
「はいっ、吉川さんも、今お帰りですか?」
「ああ」

 ほかの作業員さんたちにぺこっとお辞儀して、まあくんさんにもぺこぺこしておく。今があるのはまあくんさんのおかげと言っても過言ではないからな、神様仏様まあくんさまだ。
 車に乗り込んでいく作業員さんと別れて、吉川さんは、あたしに「送っていくよ」と言って歩き出す。そのすぐ横を車が通り過ぎて行った。
 吉川さんは、いまだにあたしのことをお嬢ちゃんと呼ぶが。

「新ちゃん」

 ふたりになると名前を呼んでくれる!
 じたばた足踏みしながら喜びを噛み締める。どうしてみんなの前で名前を呼んでくれないの、と聞くと、大人のけじめってもんがあるだろ、と言われた。あたしにはよく分かんないけど、吉川さん、照れているだけだと思うんだなあ……。
 並んで歩きながら、会話をこころみる。

「あの、ご飯ちゃんと食べてますか?」
「食べてるよ」
「コンビニのお弁当ばっかりはだめなんですよ」
「新ちゃん知らないだろうけど、最近のコンビニ弁当はすごいんだぞ」

 若干責めるような口調で言えば、吉川さんはばつが悪そうに頭をがしがしと掻いて言い訳する。
 吉川さんは迷惑に思っているのかもしれないけど、好きな人の身体のことは心配したいし、きっと吉川さんはバランスを考えて食事をとるほうではないと思うので、こうして口酸っぱく言わないと。
 今までと同じ生活なのだから平気、と言うのかもしれない。でも、あたしは吉川さんのことがとてもとても心配なのだ。

「学校、楽しい?」
「え? はい、楽しいですよ」
「そっか」

 吉川さんは、たまに父親みたいなことを言う。学校楽しい? とか、お勉強ちゃんとしてる? とか。
 ……父親が年ごろの娘にほんとうにそんなことを聞いているのかは、ドラマでしかみたことないから分からないんだけども。あたしには父親がいないんだからしょうがないじゃないか……。
 正直吉川さんにそんなこと聞かれるの、めちゃくちゃ複雑な気持ちなんだけど、仕方あるまい。

「あの」
「ん?」
「えっと」
「……?」
「……てっ、手、つなぎませんか」
「……」

 ぴた、と吉川さんが立ち止まった。なんだろ、変なこと言ったかな。これでも渾身の、なけなしの勇気を振り絞ったのに。
 って思っていると、歩き出した吉川さんが、あたしの横を通り過ぎて先に行く。その追い越しざまに、少し乱暴にあたしの手を取った。
 引っ張られて少しよろけながら、あたしも歩き出す。吉川さんは、振り返らない。
 つないだ手を見る。まめのできた大きなてのひらと太い指に、あたしの手がすっぽり握り込まれている。

「……えへへ」

 にやにやすると、吉川さんがちらりと振り返って、なんとも形容しがたい顔であたしを見た。

「……早く帰るぞ」
「……」
「新ちゃん?」
「ちょっと遠回りしませんか?」
「は?」
「なるべくいっぱい、吉川さんと一緒にいたいです!」

 吉川さんは、少し考えるようにあたしを見て、それから首を横に振った。

「駄目。遅くなったら、親御さん心配するだろ」
「お母さんは、仕事で遅いのでいつもいませんよ」
「親父さんは」
「お父さんは、いないので」
「……悪い」
「だから寄り道していきましょう!」
「そういう理屈にはならん」

 ちえ。吉川さん、お堅いんだ。
 とぼとぼ歩いていると、吉川さんはつないでいないほうの手でがしがしと頭を掻いて、ため息をついた。

「あのな」
「はい……」
「新ちゃんは未成年だし、俺は大人だしな、けじめが大事なの」
「……?」
「たとえ親御さんが家にいなかろうと、だからって遅くまで連れ回していいわけじゃねえんだよ」
「……はい」

 言いたいことは分かるんだけど、それでも、やっぱりさみしい。吉川さんと一緒にいたい。
 吉川さんは、そうじゃないの? あたしともっと一緒にいたいって思ってくれないの?
 それで、会話もほとんどなくなっちゃって、手をつないで歩いているうちに、アパートの前に着いてしまった。

「じゃ、また明日な」
「……」

 するっと手が離れ、吉川さんはあたしがドアを開けるのを待っている。このままあたしが鍵を取り出さなかったら、ずっと一緒にいてくれるのかな。
 でも、いくら時間を稼いだところで、鍵がなかなか見当たらないふりで鞄を探ったところで、時間はやってくる。あたしはのろのろと吉川さんに背を向けて鍵を開けた。

「……吉川さん」
「ん?」
「あ、あの、あの」
「ん?」

 自分から、キスしてほしいなんて、言えない。でも、最後にちょっとだけ、触れたい。
 もじもじしていると、何かを悟ってくれたらしい吉川さんが、あたしの頭を優しく掴んだ。
 吉川さんの唇はいつものように額に落とされて、頭を掴んでいた手が髪の毛をするりと撫でる。

「……」
「じゃ、戸締りしっかりな」
「はい……」

 髪の毛を撫でた指が首筋に当たって少しだけくすぐったくて。
 さっきまでの名残惜しさもどこへやら、逃げるようにドアを開けて玄関に飛び込んだ。
 顔が、首が、背中が、体中が熱い。吉川さんの降れた額と首筋が、燃えちゃう。

「……」

 靴を脱いで自分の部屋に入って、制服を着替えていると、玄関のドアが開く音がして、お母さんが帰ってきた。

「ただいま」
「おかえり!」

 着替えの途中だったので、声だけ張り上げて急いで済ませる。リビングに出て、キッチンに立った。夕食の支度をしていると、部屋から着替えを終えたお母さんが姿を見せた。

「今日、早かったんだね」
「うん、仕事が思ったよりサクサク済んだの」
「ふうん」

 残り野菜で八宝菜でもつくるか、と冷蔵庫を眺めながらお母さんの声を聞く。
 野菜を切っていると、お母さんがとなりに立って、口を開いた。

「?」
「新、さっき男の人と一緒にいたでしょ」
「……」

 えっ。

「み、見てたの?」
「帰り道で新を見つけたから、声をかけようと思ったんだけど……おててなんかつないでるから、ストーカーのように尾行するしかなかったの」

 お茶目に言ったお母さんは、なんでもなさそうな顔で言う。

「ずいぶん、年上に見えたけど」
「あ、うん……。前に、言ってた、学校の改修工事の作業員さんなの……」

 怒られたことを思い出す。また怒られるのかな。

「ふうん」

 お母さんが頷いて、あたしがシンクの三角コーナーに捨てた野菜の皮を、袋ごとゴミ箱に捨てた。
 なんだか煮え切らない態度に、不思議に思って手を止め顔を上げると、お母さんはいつもの癖で親指の爪を噛みながら、呟いた。

「新、明日は早く帰ってこられる?」
「いつもと同じだよ」
「じゃあ、久しぶりに、学校帰りに待ち合わせして、お外でご飯食べよう」
「え?」
「たまには、いいでしょ?」
「……うん」

 お母さんの中で、吉川さんの話は終わってしまったみたいだった。
 絶対、何か言われると思ったのに。変なの。とは思ったが、ここで藪をつついて蛇を出すほどあたしは馬鹿ではないのだ。
 待ち合わせしちゃうと、吉川さんと帰れないなあ、でもお母さんと外食するの久しぶりだしなあ、と思って、あとでメールしておこうと思う。
 ご飯を食べて、お母さんと少しだけテレビを見て、部屋に退散した。
 スマホを取り出して吉川さんにメールを書く。メッセージのやり取りが楽に違いないけど、吉川さんはなんか機械に弱いらしくガラケーなので、できない。

「明日、用事があって、一緒に帰れません……と」

 絵文字をつけるかどうかかなり悩んで、結局号泣している絵文字をひとつつけた。
 送って数分後、吉川さんから返事が来た。『了解』。

「それだけ!?」

 思わず画面に向かって叫ぶ。
 ……吉川さんらしいって言ったら、らしいけど……もうちょっと、残念だな、とか、さみしいな、とかそういう飾りの文章があってもいいのでは……。
 ハッ、ひょっとして全然残念じゃないとか? うう……。
 そういえば、吉川さんとアドレスは交換していたものの、メールのやり取りはこれが初めてであることに気づく。
 初メールがこれとか、泣いちゃう。

 ◆

「……」
「久しぶり、新ちゃん」
「…………」

 なんだってこんなことに。
 お母さんと待ち合わせした駅前で合流し、あたしが歩き出そうとすると、お母さんがそれを引き留めた。

「待って、新。まだ来てないから」
「え?」

 誰がだろう?
 そう思って、そのまま、誰が、と聞こうとすると、お母さんにやたら親しげに話しかけてきたおじさんがいた。
 遅くなってごめんだとかなんだかんだ言っているその人に、はてなってなっていると、男の人はあたしに向き直って、久しぶり新ちゃん、と言った。
 こんなおじさんに覚えはない。

「……やっぱり覚えてないのか〜」
「え……」
「じゃあ、改めましてはじめましてだね、新ちゃん」

 ちょっと待ってそれはそれでなんか心がもやもやして気持ち悪い。
 訳が分からないでいるうちに、お母さんがにっこり笑って、爆弾発言を投下する。

「新。今まで黙っていたけれど、お母さんね、この人と再婚を考えているの」
「……さいこん」

 照れたように頭を掻くその人をじっと見つめ、さいこん、という単語について考える。
 さいこん。さいこん。さいこん。

「え!?」

 再婚!?
 再婚ってアレ? 今再びの婚姻関係を結ぶ、アレ!?

「きゅ、急にそんなの……」
「ごめんね、紹介しようとずっと思ってたんだけど、なかなか……新も高校生になったし、いいかなと思って」

 積もる話はご飯でも食べながら……とその場を仕切りだしたおじさんと、それに同意したお母さんに、まったくついていけない。
 意味が分からない。再婚? 再婚ってなんだ?