怒るのは誰の役目

 蝉がやかましい。夏はあたしにとってはあんまりいい季節じゃない。気温がどう、とかじゃなくて、なんとなくさみしい気持ちになるのだ。夏に特別切ない思い出はないんだけど。
 お父さんの眠るお墓の前で、あたしはかんかん照りで暑い中ぼうっとしゃがみこんでいた。
 あたしが小学生になるかならないかくらいでいなくなってしまったお父さんは、とても優しい人だったっていう記憶しかない。お父さんはあたしを怒ったことがなかった。いたずらしたら、お母さんにはよく怒られたけど、お父さんがあたしに声を荒らげたことは一度としてなかった気がする。そして、お父さんがあたし以外の誰かに大きな声を出していた記憶もまた、ない。
 いつも絵本を読んでくれて、精一杯甘やかしてくれていた。規則正しい職種だったみたいで、ちゃんと夜には家にいて、夕ご飯は家族そろって食べていた。

「お父さん、あたしね、恋してるんだよ」

 お父さんは、怒るだろうか。あたしが二十七歳も年上の人を好きになってフラれて、その上まだ未練がましく恋していることを知ったら、なんて言うのだろうか。
 想像しかできないけど、お父さんはきっとあっけにとられた顔をして、それでも笑う。新の好きにすればいいよって笑う。怒るのは、お母さんの役目だ。浮かんできた涙をそっと拭った。

「新、熱中症になるよ」

 振り返ると、水をいっぱい張ったバケツを持ったお母さんとその後ろにおじいちゃんが立っていた。おじいちゃんはお父さんによく似てる。いや、お父さんがおじいちゃんに似ているというのが正しいのか。
 お参りを済ませて墓地をあとにする。何度来ても、ちんまりしているその墓地は、お盆なだけあって人がまばらにいて、線香の煙がどこからともなく青い空に向かって立ち上っていて、少しだけ異様な雰囲気だった。お正月に来るときとは、違う。

「新ちゃん、大きくなったね」
「おじいちゃん、お正月もそう言ったよ」

 おじいちゃんとかおばあちゃんっていう人種は、久しぶりに会った孫に必ず大きくなったと言うと思う。お母さんの実家に行ってもそうだから、きっとそうなんだ。お父さんの実家はうちから距離も遠くないのでちょくちょく遊びに来ているし、この間会ったときと身長も横幅もまったく変わっていないので、絶対におじいちゃんの目の錯覚だ。
 おじいちゃんの家に戻ると、お母さんは夕ご飯の支度をしているおばあちゃんを手伝いに台所へ行った。あたしも手伝おうと思ったけど、おじいちゃんが、ゆっくりしてなさい、と暗に話し相手を要求したのでそちらに回る。

「学校楽しいか?」
「うん、すごく楽しいよ。この間、お父さんの卒業アルバムを見たの」
「なんだ、そんなのたぶん周太の部屋にあるぞ」
「そうなの?」
「悪ガキの顔してたろ」

 へへへ、と笑う。確かに、にっこりと満面の笑みを浮かべていたその顔は、いたずらっ子みたいだった。

「好きな男の子はできたの?」

 言葉に詰まる。おじいちゃんには、さすがに言えない。差別するわけじゃないけど、昔の考え方の人だし、二十七も年の差があるなんて知ったら怒るかもしれないから。

「うん、できたよ」
「新ちゃんももう大人だねえ」

 大人、か。

「この間までハイハイしてたように思うんだがなあ」

 吉川さんはもしあたしが大人なら、あんなふうな言い方はしなかったんだろうか。あたしがもっと大人なら、あんなふうに冷たくはされなかったのだろうか。
 そんなこと、考えだしてもきりがないけど、どうしても考える。

「新ちゃん」
「ん?」
「じいじはな、あんたのお父さんが早くに逝ってしまったから心配してたけども、お母さんと支え合ってようくがんばってると思うよ」

 おじいちゃんもおばあちゃんも、とても優しくてすごくいい人だ。だから、お母さんは義理の家族と言ってもここを訪れることに躊躇がないのだと思う。

「新ちゃんはがんばってるんだから、さっさと幸せになりなさい、ね?」
「……今も幸せだよ」
「そう? お父さんの墓の前で泣いとったように見えたがな」
「そんなことない!」
「はっはっは!」

 見られていたんだ、恥ずかしい!
 顔が赤くなっていくのをおじいちゃんは面白そうに見つめて、それからその意地悪な顔をへにゃっと崩してほほえんだ。

「なんにせよ、新ちゃんの好きなように生きなさい。新ちゃんの人生は、新ちゃんのもんだから」

 まじめな顔をしてそれだけ言って、夕方なのに早くもお酒を飲み始めた。おつまみ取って来るね、と言って席を立ち、冷蔵庫の前に立つ。

「新、そこにいるなら大根取ってよ」
「はあい」

 おつまみの漬物と大根を取って、お母さんに大根のほうを手渡す。

「ありがと……何泣いてるの」
「え、あの、あくび」
「そう?」
「またじいじがいじめたんでしょう、ばあばがあとで懲らしめたるから。昼間っから酒飲んで!」
「ち、違うよ!」

 腕を振りかぶったおばあちゃんに慌ててフォローを入れると、からからと笑われた。なんだ、本気じゃなかったんだ。
 おじいちゃんは、あたしの好きな人があたしよりずっと年上であることを知らない。それでもその一言はあたしをひどく勇気づけた。まるで、お父さんにそう言われたみたいで、とても懐かしかったのだ。
 誰も、きっと表立って応援してくれるような恋じゃないけど。それでもあたしは後悔しないようにやりたい。
 だって、あたしの人生で、あたしの恋だもん。
 夕ご飯を食べたあと、お父さんの部屋に入る。そこは、大学を卒業するまでここに住んでいたせいか、あたしはここでお父さんがどう過ごしていたのか知らないのに知っているような気持ちになる。つまり、お父さんの気配、がそこかしこにまだ残っているのだ。
 勉強机の上に整然と並ぶ教科書類や、ペン立てに刺さっている鉛筆、ありがちに机の表面に、カッターか何かで傷をつけて書かれた「しゅうた」の文字。ちょっとへたれたベッドのマットレスや枕、お父さんがここを出ていくときに持っていかなかったのだろう、クロゼットの中の衣服たち。

「……」

 あたしは、何の前情報がなくてもきっと、この部屋の持ち主がお父さんだって分かるだろう。そんなふうな、気配を感じるのだ。
 クロゼットの床に無造作に置いてあった卒業アルバムを開く。小学校の分。

「か、かわいい」

 高校のときの写真もじゅうぶん無邪気だったけど、輪をかけて破顔している。ちょっとやんちゃな感じが強くなって、高校生のお父さんはあれでもおすまししていたんだなって思った。
 ぱらぱらとアルバムをめくっていると、ふと部屋のドアが開いた。

「お母さん」
「何やってるの?」

 お母さんも混ぜてよ、と言いながらとなりに座って中学のアルバムを開き、お父さんの姿を見つけるや否やくすくすと笑い出す。

「見て、眉毛細い」
「……ほんとだ」

 ちょっぴりやんちゃが悪い方向に行ってしまった感じだ。中学時代はもしかしてちょっと荒れていたのかも。

「……ねえ、新」
「ん?」
「学校から、連絡があったの」
「……」

 嫌な予感がする。

「校舎改修の作業員さんに、目をつけられていたんだって?」
「ち、違うの。あたしが勝手に好きになっただけで……」
「ねえ新。たしかに、毎朝あんだけ楽しそうにお弁当つくってたのを見ると、お母さんだって先生の言ったことを鵜呑みにはしない」

 笑っていたのが嘘みたいに、真剣な顔をしている。

「でも、実際に先生が連絡を入れてきたっていうことは、もしかして、相手の作業員の方にご迷惑をかけたんじゃない? そう先生に誤解されてしまって、作業員の方も困ったんじゃないの?」
「……」

 お母さんは、先生の言いなりではなくて、先生にそういうふうに伝わった、という事実を見ているのだ。そしてそれは、正論すぎる。
 あたしが視線を落とすと、お母さんはアルバムを閉じてため息をついた。

「別に、作業員さんを好きになるななんて言わないけど……今後は人様に迷惑をかけないように、少し考えて行動しなさい。新は思い込んだら一直線なところがあるんだから、余計に考える癖をつけなきゃ」
「…………分かってるよ」

 ほら、やっぱり怒るのはお母さんの役目だった。
 お父さんの実家から帰ったら、あのペーパーナプキンに書かれた住所を探そうって思っていたけど、でもやっぱり、吉川さんは迷惑だったのだから、いくらまあくんさんがああ言ってくれたって、もう顔を見せないほうがいいのかもしれない。
 そういうふうに気持ちが滅入って、せっかく固めた決意が脆くも崩れ去ろうとしていた。