信じたい

 失恋してもテストで散々な点数をとっても何をしても、時間は平等に進んでいくしあたしは夏休みの補習に行ったり料理をしたりして、なるべく吉川さんのことを考えないようにしていた。
 実際、何かに集中しているときはそれはうまくいったんだけど、やっぱり寝ようとして横になったときとか、ふと集中力が切れたときに考えてしまう。
 最後の吉川さんの思い出があんなに冷たい目だったなんてまだ信じたくないし、考えれば考えるほどあのときの悲しさとか吉川さんを悪者にしてしまった悔しさがよみがえってきて涙が止まらなくなる。
 もう使わない吉川さんの分のお弁当箱を捨てられなくて、まだ台所の棚に置いてある。お母さんはあたしの相手について詳しくは知らないだろうけど、きっと夕飯のおかずがお弁当の残りだったりで悟っていたのだ、お弁当箱を見ても何も言わない。

「どこ行こうか」
「……」
「映画とかどう? 先週公開のやつがあったでしょ」
「いいですね!」
「……」

 みこちゃんと風見先輩がわきあいあいとおしゃべりしている中で、目の前の早坂先輩を睨む。おかしいな、今日はみこちゃんとケーキの食べ放題に行く予定だったはずなんだけど、どうしてこんなことに。

「ほら、宮本さん、そんなに硬くならないで、早坂もスマイル」
「……ははは」

 ははは、と乾いた愛想笑いができただけでもあたしは褒められるべきだ。顔の筋肉がすごい勢いで引きつっていたけど、それでも音にできたあたしは。
 みこちゃんに騙された、と気づいたのは待ち合わせ場所に颯爽と、早坂先輩を引きずって登場した風見先輩を見たときだ。まるであたしたちと待ち合わせをしていたかのように自然な動作でこちらに近づいてきた風見先輩を見て、おそらくこの策略を知らなかったのはあたしだけだとすぐに勘付いた。早坂先輩はずっとばつの悪そうな顔で黙っている。
 ただただ和やかに話すふたりを見ていると、みこちゃんが時計を見て声を上げた。

「映画はじまるんじゃないですか」
「もうそんな時間?」
「新、行こう」
「え、待って、あの」

 さっき、映画どうかな、という話をしていたのに、まるでそれを見ることが決まっていたかのようなこの流れ。
 あたしが必死で目で訴えかけてもむなしく、みこちゃんは先輩たちと歩き出す。突っ立ってその背中を唖然として見ていると、早坂先輩が振り返った。

「……早く来いよ」

 若干照れが混じっているように感じるその台詞とともに、あたしに手が差し伸べられた。つなげと?
 とりあえず手を無視してみこちゃんのとなりに並んで、抗議する。

「なんでこんなことになってるの」
「なんでって、新が落ち込んでるからダブルデートで気を紛らわそうと思って」
「みこちゃん早坂先輩のファンでしょ、いいの、そんなことして」
「もうファンじゃないし」

 なんて都合のいいミーハーっぷりだ。
 みこちゃんはお忘れかもしれないが、あたしは何と言ってもおじ専という性癖のおかげで今までまともな恋愛経験がない上に、相手は天敵だ。どう転んでも気晴らしになるわけがない。
 しかし逃げるわけにもいかず、とぼとぼとシアターまで歩く。風見先輩が鞄から四枚のチケットを出す。もう完全にデートコースが決まっている。
 とりあえずチケット代を出そうとそれに追いつくと、財布から鞄を出しかけたあたしに早坂先輩がチケットを押しつけた。

「お金」
「いらねーよ、チケ代くらい、別に」
「は?」
「は、じゃねえよ。お前はこれくらいのご厚意も受け取れないのか」

 えらそうにふんぞり返った先輩がどうしてもお金を受け取る気がなさそうなのを察し、しぶしぶチケットを受け取る。でもこれ、風見先輩が取ってくれたんだよね、早坂先輩があたしの分のお金を払ってくれているとしても風見先輩にお礼を言わないのは失礼だよね。

「あの、風見先輩、ありがとうございます」
「……お礼は早坂に言ってあげて」
「…………」
「そんな嫌そうな顔しないでよ」

 口を尖らせて、早坂先輩にも頭を下げる。いつもだったらきっと、この態度に対して十も百もお説教の言葉が飛んでくるところだろうが、先輩は眉を寄せただけに留めた。

「何観るの?」

 なるべく早坂先輩から逃れようとみこちゃんに話しかけるが、さらりと無視されてこれ見よがしに風見先輩に擦り寄っていった。……あれ? この間サッカー部かどこかの迫田先輩が……とか言って……なかったっけ……。

「お前の席こっち」
「は?」

 シアター内で、早坂先輩に腕を引っ張られて無理やりとなりに座らされる。あたしが一番端で、早坂先輩、風見先輩、みこちゃんの順に座る。引っ張られて近づいたときに、ふんわりとシトラスの爽やかな匂いがして、あたしはみこちゃんがいつだったか言っていた制汗剤の話を思い出した。
 吉川さんはこんな匂い、しない。汗と洗剤の香りが混ざった、吉川さんだけの匂いがする。
 それにしても、早坂先輩の指、細いな。掴まれた手首をさする。お兄さん、という感じの、まかり間違っても好みじゃないタイプのやわらかい指。吉川さんの手はもっとごつごつしていて節くれ立っている。無骨な指や硬い身体を想像してしまって気分がふさぐ。去り際の背中は、いつもと同じだったのに。
 吉川さん、お仕事がんばってるのかな。コンビニ弁当ばっかりで栄養偏ってないかな。……それとも、お弁当つくってくれるような人、いるのかな。
 夏休みの真ん中で日曜日、ということもあって、座席は満席だ。そのうち館内が暗くなって映画の予告やマナー喚起の映像が流れる。
 そして映画が始まって数十分。ラブストーリーというだけで嫌な予感だったのにベッドシーンが流れ、あたしは激しく動揺した。思わず肘掛けをぎゅっと握ると、その腕に細い腕が重なった。びくっととなりを見ると、同じく驚いた顔をした早坂先輩の顔がスクリーンに照らされている。
 左側の肘掛けを占領していることに気づいたあたしは、そっと早坂先輩の腕が乗るようにスペースを開けた。しかし、二時間に及ぶ上映時間の中で、再び早坂先輩が肘掛けにふれることは、なかった。
 エンドロールが流れて館内がうっすら明るくなる。みこちゃんと風見先輩は楽しそうに映画の感想を話し合っている。あたしはぼんやり座ったまま、ちらりととなりに目をやった。
 早坂先輩がのろのろと立ち上がり、あたしに手を差し出した。

「なんですか」
「べ、別に」

 差し出しておいて恥ずかしくなったのか、即座にその手を引っ込めた。自力で立ち上がってみこちゃんに近寄ると、風見先輩が吹き出した。

「そんなに早坂が苦手?」
「えっ」
「可哀相だから、あっちに行ってあげてよ」
「……」
「別に俺可哀相じゃないですよ!」

 からかわれたのを赤い顔で否定して、早坂先輩があたしの手を引っ張った。

「何?」
「別に!」

 何度も思うけど、どうして早坂先輩があたしのことを好きなのかさっぱり分からないし、ほんとうにこの人はあたしのことを好きなのかと疑問になる。扱いが雑すぎる。今だって、引っ張られたせいでよろけたし。
 シアターを出ると、風見先輩が腕時計に目をやってあたしたちに言う。

「宮本さんは、ほんとうはケーキバイキングに行くつもりでいたんだよね?」
「……そうですけど」
「ケーキ食べたい?」

 いや別に? と思ったけど、とりあえずおなかもすいたので頷いておく。というか、ほんとうは、という言い回しからしてもう最初からたばかる気満々だったのだな。

「あそこ入ろうか、今空いてるみたいだし」

 ちょうどお昼時を過ぎたとあって、風見先輩が指し示したカフェはたしかに空いていた。
 四人掛けのテーブルに通されて、なぜか早坂先輩のとなりに座らされ、みこちゃんと風見先輩が向かい側に座る。

「何食べる?」
「えっと」

 チーズケーキとチョコレートケーキと迷って、結局安いほうのチーズケーキを指差す。店員さんを呼んでさっさと注文を済ませた風見先輩は、そうだ、と思い出したように呟く。

「宮本さん、やっぱり中田先生に怒られたんだって?」

中田先生というのは、生徒指導の先生だ。黙ってこっくり頷くと、となりからぼそっと言葉が飛んできた。

「俺があんだけ言ってやったのに言うこと聞かねえから」
「先輩には関係ないです!」
「はあ? お前のためを思って注意してやってたんだぞ」
「大きなお世話です!」
「まあまあふたりとも」

 牙を剥いて先輩に噛みつきかけると、慌てたみこちゃんが仲裁に入る。が、もう遅い。

「んだと? 人の親切を大きなお世話だと?」
「早坂先輩にはあたしがどうなろうと関係ないじゃないですか!」
「それで結局作業員さんに迷惑かけてんじゃねーかよ!」
「そ、れは……」

 うっと目に涙が溜まる。何も言い返せない。
 そして、あたしの涙目を見た先輩は言葉に詰まった。ずるい、そんなの知ってる。

「ほら、今日は喧嘩しないって、早坂言ったろ?」
「う……」

 機を見て早坂先輩をたしなめた風見先輩をちらりと見ると、店員さんがケーキセットを運んでくるところだった。四人分のプレートがテーブルに置かれて、とりあえずあたしは黙ってケーキを食べることにする。
 チーズケーキをむしゃむしゃと咀嚼していると、となりからチョコレートケーキが乗ったフォークが突き出された。

「……?」
「……さっき、これと迷ってただろ、やる」
「いりません」
「お前ほんとかわいくねえ!」
「別にかわいくなくていいですもん」

 かわいくっても吉川さんには振り向いてもらえないどころか嫌われてしまった。あたしがしょんぼりしているのをわたわたしてどうにかしようとしている早坂先輩を見ていると、背後から、あれ、とお声がかかった。振り向くと、そこには見覚えのありすぎる顔がいた。

「……まあくんさん」
「何お前、ちゃっかり乗り換えちゃってんの」

 私服姿の茶髪のお兄さんが、赤ちゃんを抱っこして立っていた。赤ちゃんと言っても生まれたてではなくて、二歳くらいの子だ。あたしは赤ちゃんが身近にいないので、大きさや育ち具合を見てはっきりと何歳くらい、とは言えないけど。
 というか聞き捨てならない。

「乗り換えてないですよ!」
「どう見てもダブルデートじゃん」
「違うんですこれは!」
「てか、年上が好きって嘘か」
「違うんですってば!」

 思わず立ち上がる。そして全力で言い訳を開始する。なんだか浮気現場を押さえられた気分だ。吉川さんと付き合ってもいない上に、まあくんさんはまったく関係がないのに。

「この人は、ただの学校の先輩で、全然好きとかじゃなくて! 吉川さんが大好きなのは変わってないんです、でも、フラれちゃったから!」
「あーはいはい、うるせえ」

 となりのテーブル席に腰掛けて、赤ちゃんを膝に乗せる。それから、唖然としている早坂先輩のほうをちらっと見て笑う。

「フラれちゃったから、何?」
「……この子が、気分転換にって……」

 みこちゃんを指差すと、彼女はささっと姿勢を正しておじぎをした。まあくんさんはそれを無視してあたしを見た。

「諦めんの?」

 ぐさりとくる。諦めるも何も、あんな言われ方したら、もうどうしようもない。まあくんさんは、もしかして吉川さんがああいうふうに思っていたこと、知っていたのかな。

「……諦める、のかな……」

 自問するように呟くと、赤ちゃんをあやしながら興味も何もなさそうに言った。

「ま、それくらいで諦めるんだから、それくらいの気持ちなんだよな」
「……」

 思わず眉が寄った。

「俺に関係ねえし。どうでもいいけど」

 そうだ、関係ない。これはあたしの問題だ。でもそんなふうに吐き捨てるように言われるような恋をしていた覚えはない。あたしはいつでも真剣だったし、まあくんさんもそれを知っていたはずだ。

「そんな言い方、ないと思います」
「なんで?」

 軽く睨まれる。切れ長なツリ目の彼は、普段はふつうの人だけどこうして睨まれるとすごく怖いことに気づいた。でも、ひるみかける気持ちを叱咤した。

「だって、あんな、遊んでたとかめちゃくちゃ言われたら、あたしだってさすがに傷つくし」
「だからさあ」

 イライラしたように、眉をひくひくさせながらため息をつく。

「何をどう言われたか俺は知らねえよ? でも、お前忘れたの?」
「……?」
「そうなるまでの吉川さんが言ったこととか、お前のメシいつも美味いっつって食ったのも、プリン我慢して食ったのも、全部忘れたの?」
「……」
「まさか全部演技だと思ってるわけじゃねえだろうな」

 ぎゅっと唇を噛む。
 そうだ、思い出の吉川さんって、優しくてちょっと情けなくて、流されやすいけどちゃんと自分があって、それってあたしの大好きな吉川さんそのもので。
 諦められるわけがない。あんなにひどいことを言われても、迷惑だって心の底で思われていたとしてもそれでも、あたしは吉川さんを諦められない。
 だって、あんなに好きになったのは初めてで、きっとこれから吉川さんを諦めてほかの誰かを好きになったとしても、あんなに一生懸命になれるなんてそうそうあることじゃない。

「……忘れてないもん」
「……」
「忘れてないもん」

 吉川さんに会える豊富も分からないけど、もう一回会って、それでもう一回だけでいい、伝えなきゃ。またひどいことを言われるかもしれないけど、迷惑にしかならないのかもしれないけど、それでも、あたしはもう一度だけ、あの優しい吉川さんを信じたい。
 言いたいだけ言って、駄々をこねはじめた赤ちゃんをあやしていたまあくんさんが、ちらりとこちらを見た。赤ちゃんが、明るい茶色の髪を引っ張る。いて、とぼやいて、彼はテーブルの上のペーパーナプキンを一枚取った。

「なんか書くもん持ってる?」
「え?」
「シャーペンでもなんでもいいから」

 わけが分からないまま、鞄からボールペンを取り出して手渡すと、まあくんさんはペーパーナプキンにさらさらと何か書きつけてあたしにそれを押しつけた。

「な、なんですか」
「新しい仕事場の住所」
「え」
「俺今、ここで作業してんの。吉川さんもな」

 まじまじとその字を見る。思いのほか丸くてかわいい字が、吉川さんにつながる情報を教えてくれる。

「あれ?」
「ん?」
「この住所って」

 見覚えがある、どころか。

「うちの近所ですね……」
「マジで? よかったじゃん」

 全然よかったなんて毛ほども思ってなさそうな心のこもってないよかったじゃんを聞きながら、あたしをけしかけたり話を聞いてくれるのは、お嫁さんに似ているから、ほんとうにそれだけなんだと思い知る。別にいいけど。
 そのまま、まあくんさんはカフェラテとオレンジジュースを注文して、そっぽを向いた。膝に乗せた赤ちゃんが髪を引っ張るのを鬱陶しそうにやめさせて、ペーパーナプキンで遊ばせる。
 そこであたしは唐突に皆さんの存在を思い出す。ばっと自分のテーブルのほうを振り向くと、頬杖をついて面白そうな顔であたしを見ていた風見先輩と目が合った。

「あの、すみません」
「ん? いいよ別に。楽しいし」

 この人の感覚はよく分からない。今のあたしとまあくんさんのやり取りが楽しそうに見えたのならちょっとおかしい。

「宮本さん、一途だね」
「えっ」

 そう言われると恥ずかしい。ちらりと横目でまあくんさんをうかがうと、赤ちゃんにジュースを飲ませたり遊んであげたり、こちらの話は全然聞いていなさそうだ。

「早坂なんかお呼びでないわけだ」
「先輩!」

 うっと言葉に詰まる。自分でそれを言う分にはいいけど、風見先輩に言われると、早坂先輩にすごく申し訳ないことをしている気持ちになってくる。

「まあ、今回は縁がなかったね」
「……」

 眉を寄せて黙り込んでしまった早坂先輩が、ほんとうにあたしのことを好きなのか半信半疑だけど。他人の口からそういうことを聞いてしまうと、あたしが彼にひどいことをしているような。
 食べ終えたケーキのシートをフォークでいじくっていると、みこちゃんが最後のひとかけらを口に入れた。一言も発さないとなりの早坂先輩が気になるし、視線を感じる。

「そろそろ出ようか」

 風見先輩の言葉を合図に、三人が立ち上がる。あたしも立ち上がって、鞄を持って最後にちらりとまあくんさんのほうを見た。完全にあたしに興味をなくしたようで、というよりも赤ちゃんをあやすのに一生懸命でこちらのことなんか見てもいなかった。

「このあとどうする?」
「あたしもう帰ります……」
「帰っちゃうの? じゃあ早坂送ってあげたら?」

 苦虫を噛み潰したような顔で、早坂先輩が朗らかに笑う風見先輩に無言の抗議をする。あたしも、完全にフッてしまった相手とふたりきりの帰り道なんて地獄すぎるので、丁重にお断りしてさっさと駅のほうに向かった。
 改札をくぐって、ちょうどやってきた電車に乗る。運よく座ることができた車内で、あたしはまあくんさんが書いてくれたペーパーナプキンの住所をまじまじと見る。
 住所の末尾にマンションの名前らしきものが入っていて、その名前自体に見覚えはなかったけど、この住所なら探せばすぐに見つかりそうだ。いつまでここで作業をしているのかまでは聞き忘れたのが悔やまれる。
 明後日から、あたしはおじいちゃんの家、つまりお父さんの実家に墓参りに行くから、それから帰ってきてからだと思うんだけど、まさかたった数日で撤収とかしてないよね。
 今度吉川さんに会えたら。
 どんな暴言を吐かれても二度と顔も見たくないと言われても、学校の外ならあたしは潔く納得できるんだろうなって思った。学校の外でも同じことを言われたらあたしはもうそれを受け入れるしかない。
 だけど、あたしは優しい吉川さんを信じたいのだ。
 まだ、終わってないから。