ヤンキー大活躍

 ペーパーナプキンが、触りすぎたせいかちょっとしなしなしている。文字が一部だけにじんでしまって、濡れた手で触ったかもしれない、と反省する。
 大事に大事に持っているのはいいものの、いまいち訪ねる勇気がわかないで、お父さんの実家から帰宅して早五日。もう、まあくんさんに合わせる顔がなさすぎて逆に訪ねづらい。
 しかししっかりというかちゃっかりというか、場所の下見だけはしているのだ。近づく勇気が出ないだけで。
 駅からほど近く、うちのアパートと同じ方向で道を一本外れて少し行ったところにあった。十階建てくらいのマンションで、なるほどシートがかかって作業員さんたちが仕事をしているようであり、車が数台建物の前に停まっていた。
 遠目にそれを見届けて、近づく勇気はない。
 あたしは駅前のスーパーで食料品と日用品の買い出しに来ていた。今日はとにかくお野菜が安い日だ。な、なんと水菜がふた束五十八円……。

「重……」

 調子に乗って重たい野菜やティッシュペーパーなども買ってしまったため、帰り道はよろけるほどにかさばる荷物を引きずる勢いで歩いている。よろよろしながら、マンションに続く道をちらり、と見て、立ち止まって数秒考える。
 まあ今日は荷物も多いし、勘弁してやるか。
 と、それらしい言い訳を頭の中でうだうだ連ねて、くるりと踵を返す。

「あ」
「あ」

 角のコンビニから出てきたまあくんさんと、ばっちり目と目が合って、固まる。
 ある意味吉川さんと出くわすよりも気まずい。蛇に睨まれた蛙みたいな気持ちになって、一歩後ずさると、まあくんさんはあたしを斜めに睨みつけてすたすたと近づいてきた。ヒィ。

「よう」

 てっきり、恨みつらみの何らかをぐちぐち言われるかと思いきや、意外とふつうの挨拶が飛んできたことに拍子抜けして、ふつうにこんにちはと返す。

「こんにちはじゃねえよクソガキ」
「え」

 あたしの目の前で止まった彼は、あたしを電柱に追いやってその後ろの民家の壁に手をついた。わあ、人生初の壁ドン。
 眼前に迫った明るく夕陽に透ける茶色い瞳が、見下すように見つめてくる。

「俺が住所教えてやってから何日経ってると思ってんだよ」
「と、十日くらいですかね」
「そうだっけ」

 彼は、待った、という自覚はあれど時の流れの計算はしていないようで、あたしの適当な言葉に曖昧な返事をした。そして、んなこたどうでもいい、と言いつつ手を壁から離し。

「ヒッ」
「いい加減にしろよな」

 今度は足を思い切り蹴り上げて壁に足裏をつけた。どこのヤンキーだ! こわい!

「これじゃあ、何されても文句言えねえよなあ?」
「……」

 やばい、ぼこぼこにされる。
 そんな予感が胸を突き抜けて、今までの思い出が走馬灯のように脳裏を駆け巡った。お父さん、新はもうすぐそちらに参ります……。

「ね、吉川さん」

 え。
 がばりと顔を上げると、まあくんさんより少し遅れてコンビニから出てきたと思われる吉川さんが、居心地の悪そうな顔をして立っていた。

「おまえ、お嬢ちゃんがおびえてるだろ」
「こんな薄っぺらい服で人通り少ない道選んで通って、こんなの変質者の格好の的じゃねえすか?」

 唖然としているうちに、まあくんさんが、あたしのTシャツの裾をぺろっとめくった。荷物を持っているので抵抗できないでめくられるがままだ。
 好きな人の前でこんな辱めを受けようとは。泣きたい。

「街灯も少ねえし、物陰に連れ込まれたらアウトだな」
「…………」

 ゆっくり丁寧に、パンにバターを塗るような口調で、まあくんさんがあたしを脅す。今まであまり意識したことなかったけど、たしかにこの通りは近道だけど大通りからは外れていて、街灯も人通りも多くない。
 ほんとうに変質者がいたらどうしよう……。

「こんな防御力低い服、すぐ丸裸だっつうの」
「ぎゃあ!」

 勢いをつけて、まあくんさんが、つまんでいたTシャツの裾を思い切りまくり上げ、たぶんちょっと見えてはいけないものが見えた。ほんとうに泣きたい。
 あたしがぷるぷると震えているのをどう思ったのかは分からない。ただ、吉川さんがあたしの前に来て、まあくんさんを押しのけた。

「ふざけるのもいい加減にしろ」
「は、事実でしょ。だって狙いやすいじゃん」
「……」
「せいぜいひとりで家まで無事にたどり着けよ」
「いたっ」

 最後に軽くデコピンをかまされて、両手を荷物でふさがれているためにもろに食らってしまって悲鳴を上げる。
 衝撃に目を閉じているうちに、まあくんさんはあたしに背を向けて去って行ってしまうところだった。
 待って、あの脅し文句聞かされたあとでひとりで家まで帰るのめちゃくちゃこわいんだけど。

「……」

 呆然と、その背中を見送っていると、不意に右腕が軽くなる。

「あっ……」
「……送るよ」

 あたしの右側に持っていた荷物を取り上げて、吉川さんが駅のほうに向かってすたすたと歩きだす。慌てて口を開く。

「あのっ」
「なんだよ、ひとりで帰れんのか」
「……あたしの家そっちじゃないです」
「……」

 気まずい。気まずいオブザイヤーだ。
 吉川さんと、知り合いというには少し遠い、でも他人というには少し近い距離を保ちつつ夜道を歩く。てく、てく、てく。
 ティッシュ箱を抱えてそっと右側を盗み見る。
 あたしを迷惑だと冷たく突き放した吉川さんがそこにいて、でも、あのときのように冷たい目をしているわけではなくて、いつもの、お弁当を渡す前の同僚の人と歩いているような吉川さんだ。
 どうしていいのか分からず、ぐるぐると思いを巡らせる。話しかけてもいいのか、黙っていたほうがいいのか、そしてチャンスはこれきりになってしまうのか。

「……家、近所なんだな」

 不意に彼のほうから話しかけてきた。

「あっ……はい……」
「あんまり夜遅くに出歩くなよ。極端だとは思うけど、あいつの言ってたことは間違っちゃないんだから」

 あいつ、というのはまあくんさんのことだ。
 夜遅くと言っても、まだまだ薄明るい六時半。こんな時間に出歩けなかったら、学校にも行けないし、何もできないのに。

「あと、両手がふさがってたらいざってときに何もできないし、逃げにくいだろ。買い物は分散させたほうがいいんじゃねえの」
「……でも、特売日にいろいろ買いたくて……」
「主婦かよ……」

 吉川さんが吹き出す。それを見てあたしはたまらなくなってしまった。

「よ……っ」

 名前を呼んで、近づこうとしたところで、あたしは道のでこぼこに足を引っかけてものの見事にこけた。
 ティッシュ箱を抱えていたので受け身も取れなくて、まともに転んでしまう。唯一の救いは、ティッシュ箱が盾になって上半身が無事で済んだところだけだ。ティッシュ箱が潰れた。

「お嬢ちゃん」

 慌てた様子で、吉川さんが近づいてきた。大丈夫、の一言とともに手が差し伸べられて。

「……あたし」
「ん? どっか痛い?」
「あたし、この手、掴んでもいいんですか」

 初めて、吉川さんに出会ったときのことを思い出す。絶望してへたり込んでいたあたしを助けてくれた大きな手。
 それが目の前に差し出されて、そしてあたしが、吉川さんの大好きな仕事や大人としての信頼をぐちゃぐちゃにしてしまったあたしなんかが、この手を取ってもいいのか分からなくて、そう聞いた。
 あたしのそんな気持ちをすべて分かったのか、それとも分かってないのか、吉川さんが黙った。

「……」
「あたしばかだから、また吉川さんに、好きって言ってもいいのかなとか、そういうの期待しちゃうんです。ほんとは嫌われてないんじゃないかなとか、迷惑なんて嘘だったかもとか、そんなふうに期待しちゃうんです。だから、だから……」

 ぐしゃ、とまぶたの裏側が潰れたような心地がして、涙があふれた。頬を伝っていくそれを、拭いもできないでいると、吉川さんが手を引いて、あたしに背を向ける。
 やっぱり、駄目なんだな。優しいから、つい手を出してしまっただけだったんだな。

「……だし巻き卵が」
「……?」

 あたしに背を向けたまま話し出した吉川さんの声は、どこか掠れていた。

「美味くないんだ、だし巻き卵が」
「……だし、まき?」
「コンビニのも、総菜屋のも、寿司の出前のも。なんか、美味くないんだ」

 なんで今だし巻き卵の話をするんだろう、と思ったけど、口を挟めるような空気ではなかった。

「美味くないっつーか、いや、美味いんだけど、なんか足りないっつーか、これじゃない、みたいな」
「……」
「から揚げもさ、冷凍のやつも弁当屋のやつも全然、なんか違うんだよ」
「……」

 吉川さんの好きなもの。あたしが一生懸命つくった、お弁当のおかず。

「あんなに好物だったのに、なんか食うの嫌になってさ、なんでかなって思ったときに……、俺はお嬢ちゃんをすげえ傷つけて泣かせて突き放したことを思い出した」

 迷惑だ、もう会わないと思うとせいせいする。そう言い放って、あたしをボロ雑巾のような目で見た吉川さんを、あたしはたぶん、一生忘れないだろうとは思う。
 ただ、あたしはあれが吉川さんの本音だって、どこかで信じてない。

「俺は大人だからさ」

 不意に、話が変わることを知らせるかのように声のトーンが変わる。

「お嬢ちゃんはまだ若いし、いつかさ、俺みたいなのに引っかかって泣いたなあって、思い出にできるだろ、笑い話にできるだろ。俺はもう無理なんだよ。だから、引きずりたくなかったんだよ」
「……」
「って思ってたのにまた会っちまうんだもんなあ……」

 何を言っているのかがよく分からないでいた。何を、あたしが笑い話にして、何を、彼が引きずるのか。

「何言ってんだろうな、俺。駄目だ、ははは、いざってときにうまい言葉が出てこねえもんだ」

 ぐす、と鼻をすすると、頭をがしがしと掻いた吉川さんはこちらを振り返らずに、しゃがみ込む。目の前に、大きな背中がある。

「だからさ、お嬢ちゃん、俺みたいなの好きになってもどうしようもねえぞ」
「どうしようもないかどうかはあたしが決めます」

 ティッシュ箱を放り出す。背中に、ぴたりと頬をくっつけて、心臓の音を聞く。息を深く吸い込むと、吉川さんのにおいがした。
 なんか、まるで、その言い方って、あたしが吉川さんを好きでいることを許してくれるみたいだ。
 なんか、まるで、その言い方って、吉川さんがあたしのことを好きでいるかのようだ。

「お嬢ちゃん、離れろ」
「好きです」
「……」
「大好きです」

 背中が大きく上下して、ため息をつかれたのが分かった。

「なんで俺が言えねえような言葉を、軽々と言っちゃうのかな……若いからかな……」

 一気に、ぐしゃぐしゃと涙がこぼれた。
 吉川さんは、言えないけどあたしに向けたその言葉を持っているんだ。
 おなかに腕を回して、思い切り抱きついた。

「お嬢ちゃん、離れろ」
「宮本新ですっ」

 どうせ名前を呼んでもらえないのは知っているけど、それでもあたしはお嬢ちゃんじゃなくて、ただのひとりの宮本新という人間なんだって分かってほしかった。

「……あらたちゃん、離れろ」
「……!」

 人生でこんなに泣いたことってない。それくらいあたしは顔面をぐちゃぐちゃにして泣いている。
 いろんな気持ちがふくらんでふくらんで、張り詰めて張り詰めて、もうあとちょっとでぱあんと割れてしまう。そんなときに放たれたあたしの名前。
 転んだままの体勢で背中に抱きついて、あたしはえんえん声を出して泣いて、きっと吉川さんを困らせているんだって分かるのに、止められなかった。

「……落ち着いた?」

 しばらくして、あたしの嗚咽がおさまってきたあたりを見計らい、吉川さんがつぶやく。
 頷いて鼻をすすりようやく離れる。吉川さんのTシャツにあたしの涙のあとがびっしりと染みていた。

「ほら、帰るぞ」
「……」

 うん、と小さく声に出さずもう一度頷き、立ち上がる。擦った膝がちょっとひりひりするけど、そんなのはどうでもいいくらい。
 となりに並んで、そこで初めて吉川さんの顔を見て、少しぶっきらぼうな表情で、あたしはこれが夢ではないのだって知って。

「……」

 じっと見つめていると、ふいと逸らされた。耳が、赤い。そんなことに気づいて、また泣きたくなってしまう。

「……家、このアパートです」
「あ、そう」

 アパートの階段を上って部屋の前まで来た吉川さんが、あたしにレジ袋を手渡した。じっと見つめていると、怪訝そうにドアを示される。

「家に入ったことを見届けないと、送ったことにはならんだろ」
「……そうですね」
「あと、一応言っとくけど」

 急に硬い声を出した彼が、きゅっと眉をひそめた。

「一応、付き合うとか、そういうの犯罪だからな」
「……」

 急に奈落に突き落とされたみたいな気持ちになった。あのときと同じだ。
 あたしがくちゃっと顔を歪めたのを見て、吉川さんが慌てたように口を開く。

「だから、節度を持って、ちゃんと、って言ってんだよ」
「……せつど?」
「そう、門限はちゃんと守らせるとか、そういうこと。親御さんに心配かけるわけにいかねえだろ」
「……はい……」
「ん、分かった?」

 頭を無骨な手が撫でて、それから顔が近づいて、あたしが何かを思う間もなく唇が額に触れた。

「…………」
「……え、なんで顔赤いの?」

 眉を寄せた吉川さんが心底不思議そうな顔をした。

「なんでって、だって急に、吉川さんが、おでこに」
「……あんなにぐいぐい迫ってきたくせに?」
「それとこれとは話が別です!」

 あたしから吉川さんに触れる分には、自分でやっていることなのでどうってことない。
 でも、吉川さんから触れてくるのはまったく予測できないし、困る。

「……そういうもんなの?」
「そうです!」
「ふうん……」

 納得しているんだかしていないんだか曖昧な相槌を打って、ほら、とドアを開けるよう促す。
 すごすごとドアを開けて中に入る前に振り向くと、一歩引いて、照れくさそうに手を振っていた。ちょこちょこと振り返し、ドアを閉めて鍵をかける。
 耳を澄ませていると、足音が去っていく。

「…………」

 玄関に提げていた袋を落とした。そのまましゃがみ込んで、座り込む。膝を抱えて玄関マットにお尻をつけて、そわそわと額に手をやった。
 嘘じゃない。
 触れていた。
 吉川さんが。
 嘘じゃない!

「……へへへ」

 口元を手で覆って、誰が見ているわけでもないのに、緩む唇や持ち上がる頬を隠す。
 明日から、きっとあたしはちょっと照れくさいけどちゃんと、マンションに足を運びに行ける。お弁当を作っていこうかな、なんて。
 そんな夢をみてしまう。
 そしてそれはきっと夢じゃなく現実になるのだって、あたしはなんとなく実感しながら、目を閉じた。