恋の終わり
友達が目の前で楽しそうに夏休みの計画を立てている。「夏休みと言っても、うちらには強制参加の補習があるけどね……」
「うわ、それ禁句! でも、前期と後期の合計二十日間だけでしょ? しかも午前だけ」
「午後から遊びに行くのとかいいよね」
あたしが一言も発さずにぼんやりしているのを見たみこちゃんが、そういえば、とあたしに話を振ってくる。
「新の夏休みの予定は?」
「吉川さんとデート」
「え、マジ」
「……を、希望する……」
皆が一瞬色めき立ってあたしを見たけど、希望する、と付け加えた瞬間にそっぽを向く。友達がいのない皆さんに、あたしはめそめそと泣き真似をしてみるが、効果はまるでないようだった。
でもとりあえず、協力してくれるつもりはあるみたいで、あたしが喋ろうと口を開くと吉川さんのことだと分かっているにもかかわらず、しぶしぶながら耳を傾けてくれる。
「なんか、のらりくらりとかわされている気がして」
「それは、脈なしなんじゃないの?」
「フラれたんじゃ……」
聞きたくない言葉を思い切り遮る。
「あたしは、吉川さんの気持ちが知りたいの!」
「ん?」
「だから、イエスか! ノーか! はっきり聞きたいの!」
つまり……、とみこちゃんが人差し指を頬に当てて少し考えて、呟く。
「お付き合いができなくてもお、はっきりごめんなさいって言ってもらいたいってこと?」
「できない前提に話を進めないで!?」
「いや……ごめん」
みこちゃんたちは、まあ納得、みたいな顔をして、考えだした。あたしも考えた。どうやったら、吉川さんがするりと逃げずにちゃんと返事をしてくれるのか。
放課後の教室はまだまだ陽射しが強い。夏なんだなあ、夏が来るんだよなあ、と思いながら窓の外を見ていると、そこを吉川さんが通り過ぎる。
「吉川さん!」
呼ばれて顔を上げた吉川さんがあたしを見つけた。窓から身を乗り出して、ふと吉川さんのそばにもうひとり誰かがいるのに気がつく。顔を見ると、生徒指導の先生だった。五十代の熱血漢な先生があたしを見て、吉川さんを見た。そして、眉を寄せて吉川さんに何か言う。聞き取れない。吉川さんが緩く首を横に振った。
「一年生か?」
「え? はい、そうです」
生徒指導の先生があたしに声をかけてきたので、頷いた。しかめっ面になった先生に、なんだろう、と思っていると、背後からみこちゃんが慌てたようにあたしのシャツの袖を引いた。
「新、やばいって!」
「どうして?」
吉川さんに手を振るが、あからさまに目を逸らされて無視された。そしてその場をそそくさと立ち去って、旧校舎のほうへ向かって行ってしまう。ぽかん、としていると先生が声を張り上げた。
「そこの一年生、ちょっと来なさい!」
「……はい」
なんだか怒られるムードがぷんぷんする。と言うか、すでに先生は少し怒っているようだ。でもだからって無視するわけにはいかないので、窓から顔を引っ込めて教室を出ようとすると、みこちゃんが言った。
「もう、旧校舎行けなくなるよ、たぶん」
「……え?」
「新、知らないの。作業員さんに一年の女子が手出されてるって噂」
何それ、と言おうとして、はっと風見先輩の胡散臭い笑顔が浮かんだ。大人の目には、そう映る。
あたしは少し考えた。先生の呼び出しに素直に応じるかどうかをだ。吉川さんはさっき先生に何を言われたのだろう。あたしはこれから何を言われるのだろう。
そして、決めた。
「あたし旧校舎行ってくる!」
「あっ、ちょっと」
もうとっくに頭に入っている学園の地図。先生が立っていた場所を通らないルートを頭の中で導き出して階段を下りる。きっと今行かなくても、先生には捕まってしまう。だったらその前に吉川さんに伝えておかなくちゃいけないことがある。冗談だって笑って済まされないように、ちゃんと言っておかなくちゃいけないことがある。
体育館の横を通って、あたしは旧校舎に向かった。
◆
旧校舎に着くと、ちょうど吉川さんが足場のそばで何か作業をしていた。
「吉川さん!」
仕事の邪魔かもしれない。と思ったけど、声をかけた。振り向いた吉川さんの頬は、泥のような煤のような何かで汚れていた。顔をしかめてため息をつく。
「お嬢ちゃん……今仕事中だから」
「あの、ちょっとでいいんです」
「……」
近寄って、吉川さんの腕を握る。眉をひそめられ、思わず目がうるうるしてきた。泣かないように必死で涙腺のようなものに力を込めて、我慢する。
泣き出しそうなあたしをみた吉川さんが、ぱっと目を逸らす。
なんて言ったらいいのか分からなくて、あたしは腕を掴んだまではいいが黙り込んでしまう。吉川さんも、腕を振り払うわけにもいかないみたいで黙っている。やがて、黙ったままのあたしに痺れを切らしたのか、口を開いた。
「お嬢ちゃん」
その声を聞いて、呪縛が解けたように頭が動き出す。
「……好きなんです」
「……」
「ほんとうに、好きなんです」
ぽたっと涙が一粒落ちた。ああ、泣いたら吉川さん、困るのに。
でも、それを皮切りに、次から次へと涙が落ちてくる。どうしよう、吉川さんを困らせるつもりなんかないのに。
腕を掴んだ手にぎゅっと力を込めると、吉川さんがぐっと眉を寄せた。
「よしかわさん、すきです」
「……」
「だいすきなんです」
「……」
吉川さんの暗い焦げ茶色の瞳が揺れたように見えた。でもそれはきっと、あたしが泣いているせいだ。だって吉川さんの顔すら、ぼやけている。
腕を掴んだまま、半袖のシャツの袖で涙を拭うけど、そんなのは何の応急処置にもならない。ぽたぽたと涙がみっともなく地面のコンクリートに吸い込まれていく。
長い長い沈黙のあと、吉川さんが、静かに言った。
「……迷惑なんだよ」
心臓が縮こまって、すうと冷えた。
「毎日毎日、食っといてなんだけどさ、俺にも俺の都合ってもんがあって」
「……」
「人の話聞きやしねえし、言いたい放題好き勝手言うし、おかげで変な噂立てられるし、そのせいで先生には疑われるし、いいことねえよ」
すとんと吉川さんを拘束していた手の力が抜けて、腕がだらんと垂れた。じっと、泣きながら吉川さんを見つめると、眉を寄せたまま唇を引き結び、ため息をついた。その目は、びっくりするくらい、いつもの吉川さんからはとても想像できないくらい、冷たい。
「お嬢ちゃんは俺で遊べて楽しかったかもしれないけど、俺は全然楽しくもなんともなかったし、ほんとに迷惑だった」
もう一度吐き捨てるようにそう言って、吉川さんが、触れているだけになったあたしの腕を振り払うように腕を振る。その力の強さに、思わず身体が傾いで一歩後ずさる。
「もうすぐこの仕事場も終わりかと思うと、せいせいする。もう二度と俺の前に顔見せんな」
睨むのとは少し違う。だって吉川さんの表情に怒りだとかそういう感情は見られなくて、ただただあたしをなんだかボロ雑巾を見るような目で見ている。背を向けて、足場を上っていく。そのたくましい背中を見つめながら、あたしは声も出せずにぼたぼたと涙を落とした。
背中が、はるか上に行ってそのままシートに隠れて見えなくなってしまっても、あたしはその場に立ち尽くしていた。しばらく突っ立っていると泣きすぎで鼻が詰まって呼吸が苦しくなって、口を開ける。空気を吸って、吐き出そうとしたら嗚咽が漏れた。
「うっ」
遠い背中に手を伸ばそうとして腕を突っ張ると、その手首を掴まれた。
「新」
振り向くと、友達皆が立っていた。あと、生徒指導の先生も。
「宮本さん、ちょっと来なさい」
抵抗したけど、あたしは先生にぐいぐいと腕を引かれて旧校舎から引き離される。遠くなる。吉川さんがどこかへ行ってしまう。あたしは泣きながら先生に引きずられていく。
生徒指導室の椅子に無理やり座らされて、先生はあたしにティッシュ箱を突き出した。数枚引き出して顔を拭う。
「あの作業員さんに何かされたのか」
「さ、されてない、です」
否定するけど先生の険しい顔はほどけない。ああ、あたしのせいで、吉川さん疑われているんだ。そう思うと悲しくて悲しくて、涙は止まらない。
「何もされてないなら、泣いたりしないだろう」
「ほんとに、何も」
「正直に言いなさい、悪いようにはしないから」
その言葉はたぶん、あたしじゃなくて吉川さんが罰せられる、そんな意味を含んでいる。それに気づいてとてつもなく情けなくなった。
周りがちっとも見えていなくて、吉川さんに迷惑をかけるしかできなくて、それであんなふうに言われて傷つくなんて。全部自業自得なのに。吉川さんは優しいから今まで言えずにいただけなのに、ずっとずっとあたしを迷惑だと思っていたのに。そしてあたしは、うっすらとそれに気づいていたのに。
「あの作業員さんには、作業日数も残り少ないし、もう学園内の作業には来ないように伝えるから」
「ち、違うんです!」
駄目だ、そんなの。あたしが全部悪いのに吉川さんが悪者になるのは駄目だ。吉川さんは、自分たちがきれいにした建物を誰かが使ってくれるのがうれしいと言った。そのやりがいを、仕事を、あたしなんかが奪っていいはずがない。
「あたしが、勝手に好きだっただけなんです」
「そう言えって、言われたのか?」
「違います!」
なんで信じてくれいのだろう。どうして先生はそんなに吉川さんのほうを悪者にしたがるのだろう。
それは、あたしがこどもだからだ。なんにもできない、無責任なこどもだからだ。こうやって問題が表面化したときに、あたしは責任を負うことができないんだ。だから、あたしが悪いのに吉川さんが悪者になるしかないんだ。
「だいたい、旧校舎は工事中で危ないから近づくな、って言ってあっただろう」
「……でも」
「注意を聞いてないから、変な大人に捕まるんだ。宮本さんも、ちょっと危機感がなかったんじゃないのかな」
吉川さんは変な大人なんかじゃないのに、何も言い返せなかった。申し訳なさで頭がいっぱいだった。
あたしのせいで、吉川さんは濡れ衣を着せられて、それでもう自分の手で校舎をきれいにすることもできなくて、それってきっと、今後の仕事にも影響してしまうかもしれなくて。
あたしの初めての真剣な恋は、最悪のかたちで幕を閉じようとしていた。
ごめんなさい、吉川さん。ごめんなさい。