親愛なるあなたへ

 とぼとぼと歩いているうちに、結局今日も旧校舎に来てしまった。毎日の習慣は怖い。足が勝手に動いている。
 ピロティにいた作業員さんたちのところまで無言で歩み寄ると、吉川さんはいなかった。代わりに、まあくんさんが声をかけてきた。

「吉川さん、トイレ行ってるよ」
「……そうですか」
「何? 元気ねえじゃん」
「そんなことないですよ」

 吉川さんのお弁当が入っている巾着袋をぎゅっと抱きしめる。怪訝そうにあたしを見ている彼の視線が、あたしの背後に逸れた。

「おっ。お嬢ちゃんこんにちは」
「こんにちは」

 振り返る。首からタオルを下げた吉川さんがそこにいる。やっぱり好きなのに。胸が高鳴るのに。
 ぷるぷると首を振って、雑念を飛ばすように、よしっ、と小さく呟くと、あたしはいつもみたいに笑って吉川さんの腕を取った。

「今日はエビフライです!」

 ベンチに着くと、吉川さんは首を傾げながら座る。

「どうかなさいましたか?」
「いや、なんか、お嬢ちゃん元気ないな」

 あれ、なんでばれているんだろう。ちゃんと笑っているはずなのに。
 目を丸くすると、吉川さんがお弁当を受け取って、そのふたを開けながら更に聞いてきた。

「どっか具合悪いか?」
「いいえ」
「誰かにいじめられた?」
「……いいえ」

 となりに座って、あたしもお弁当を開ける。二段弁当の一段目に入っているエビフライを、吉川さんが箸でつまんで口に入れた。そして、唸る。

「こういうのって、冷食じゃないの?」
「ちゃんとエビを買ってつくっています」
「すげえな」

 もぐもぐしながら、吉川さんは心底感心したようにため息をついた。
 冷食のおかずは、便利だけどそんなに量が入っていないのでコスパ的にはいまいちだ。冷凍のむき身エビを安い時に買って保存して使うほうが絶対に安い。それに、冷食だとおかずはそれだけになるけど、食材だとアレンジが利く。
 あたしが無言で食べていると、吉川さんがちらりとこちらを見た。

「やっぱり、なんか元気ないな」
「そんなことないですよ」
「熱でもあるのか?」

 むっとする。喋らないあたしはそんなに物珍しいか。
 しかしそのむっとした気持ちも、次の瞬間吹き飛ぶ。吉川さんの手が、あたしの額に触れたのだ。ぼっと顔が熱くなるのを自覚する。
 あたしから吉川さんの腕に触れたりするのは構わない。でも、吉川さんから触れてくるのは心の準備も何も整っていないし、よくない。額に心臓があるように鼓動が頭のすぐそばで聞こえて、どうしようもなくなる。

「具合悪く、ないですよ」
「まあ、熱はなさそうだ」

 手が離れていく。触れていた額だけが妙に熱くて、ほんとうに熱はなかったのだろうか、と疑問に思うくらいだった。
 なんで吉川さんなんだろう。なんで吉川さんはこんなに年上で、あたしは十六歳なんだろう。風見先輩の言う通り早坂先輩を好きになっていれば、大勢の人が認めてくれた。先生だってきっと、「ちょっかいをかけられている」なんて思わなかった。
 あたしが、年上の人を好きになるのは間違いなんだろうか。

「あの生徒会の坊主にまたなんか言われた?」

 ん、と引っ掛かりを覚える。たしかに、生徒会長に言われたのは言われたんだが、吉川さんが言っている坊主は風見先輩のことではない。

「なんか、って?」
「いや、違うならいいけど」

 なんでここで早坂先輩が出てくるのだ。

「……嫉妬ですか?」
「違うっつの!」

 思いついたまま口を滑らせれば、吉川さんが即座に噛みついてくる。じわじわと、沈んでいたさみしい気持ちが持ち上がってくるのを感じる。
 吉川さんが何を思って早坂先輩の名前を出したのかは分からないけど、その登場の仕方はあたしのご機嫌を直すのにはじゅうぶんすぎた。あたしのことを気にかけてくれているのはもちろんだし、早坂先輩とあたしの仲を少々気にしている様子なのが分かるからだ。
 どうしてそんなことを気にするのかまでは分からないけど。少しはあたしに興味があるんだって思わせてくれる。

「あの、吉川さん」
「なんだよ」
「アスパラのベーコン巻きも美味しいはずですよ」

 吉川さんがお弁当箱の中を見て、ベーコン巻きを箸で挟んだ。口元が少し緩んでいるのを見て、やっぱり大好きだ。って思う。
 恋に年齢なんか関係ない。あたしはあたしの好きを突き通す。そうしないと、あたしがあたしでいられない。
 みこちゃんは、あたしがうじうじしているのを、らしくないと言って笑った。その通りだ。あたしが猪突猛進しなくて、誰が突撃するのだ。

「お嬢ちゃん?」
「あっ、はいっ」
「やっぱり、具合悪いんだろ」
「……そうかも、しれないです」

 あたしはたぶん病気だ。病的に吉川さんを好きだと思う。

「最近暑いからって、腹出して寝るなよ」

 にっこり笑ってあたしを見る。こども扱いして、と思うけど黙っておいた。だってあたしはこどもだ。
 でも、ちゃんと恋もできるし吉川さんを好きだっていう気持ちは誰にも負けていない。好きだっていう気持ちに大人もこどももない。
 吉川さんを好きになっても誰も認めてくれないのはさみしいことだけど、吉川さんを好きなことはさみしいことなんかじゃない。
 成就しそうなの。という風見先輩の言葉を思い出す。させたい、させたいな、成就。

「……おなかなんか出してません」
「どうだかな」

 吉川さんにとって、あたしがおなかを出して寝るようなこどもだとしても。
 それでも立派に恋をしている。それだけは誇っていいはずなんだ。

 ◆

「よっ、と」

 学校の図書館に置いてあった歴代の卒業アルバムのとある年のものを開く。

「み、み、み」

 いた。

「みやもと、しゅうた」

 家に飾ってある写真より幾分か幼い顔で笑っている男の子。お父さんだ。
 お父さんが、あたしくらいの年齢だった頃、いったいどんなふうに過ごしていたのか、急に知りたくなった。
 もともと私立の学校にあたしを通わせる余裕なんかなかったのだけど、ここが家から一番近い学校だっていうのと、お父さんの母校だっていう理由でどうしても、受けたかった。必死に勉強漬けになったおかげで、あたしは学費全額免除の待遇を受けることができたけど、それは結果論で、つまり特待生になれなくたってあたしはここに通うつもりでいた。
 お母さんがどういうつもりだったか知らないけど、ちょっとずるいけど、学費のことはお父さんのお父さん、つまりあたしのおじいちゃんになんとか頼み込むつもりですらあった。

「かわいい……」

 無邪気に笑っている卒業写真のお父さんは、とってもかわいい。年相応か、ちょっと幼いかなってくらいに見える。あたしが幼い頃に撮った家族写真を見てもお母さんとそんなに身長差がないようだから、あんまり大柄ではなかったと思うけど、きっとモテモテだっただろうなあって感じのかわいい笑顔だった。

「新、何してんの?」

 ひょい、とみこちゃんがあたしの手元を覗き込んでくる。

「お父さん」
「えっ、ここのOBなんだ?」
「うん。この人」
「わーっ、新にそっくり!」

 散々、かわいい、モテる、とか感想を抱いた顔にそっくりだって言われると、なんだか自画自賛したようで照れくさい。
 へへへ、と笑ってお父さんの写真を指で撫でる。

「今お父さんって……、あ、ごめん……」

 何の気なしに、今のお父さんの話をしようとして、みこちゃんが口をつぐむ。あたしが母子家庭であることを思い出したのだ。にっこり笑って、あたしは言う。

「今生きてたら、吉川さんと同い年くらいだったのかなあ……」
「うん……」
「そう考えると、あたしってやっぱりファザコンなのかなあ……」
「……ああ」

 そこで、ようやく気まずさを払拭したらしいみこちゃんが、頷く。

「新の年上好きって、そこから来てるんだ?」
「そうだと思う」

 つるんと何の迷いもなく認めたあたしに、みこちゃんは眉を寄せる。

「失礼なことを聞くけど」
「え? うん」
「お父さんの代わりとかじゃないよね?」
「違うよ!」

 そこは絶対に違うって言い切れる。

「あのね、あたしのお父さんはお父さんだけだし、それは吉川さんにも、誰にも代わりはできないの。どれだけ吉川さんが好きでも、あたしのお父さんは、お父さんだけ」
「……そう?」
「だって、吉川さんにお父さんの代わりをお願いしたところでほんとのお父さんじゃないし……」
「ご、ごめん」
「え?」

 すっごく気まずそうな顔をリターンさせて、みこちゃんがあわあわと口を震わせている。
 あ、ちょっとさみしそうな顔をしてしまって、みこちゃんに気を使わせている。

「ところで、あたしさっきお父さんの顔見て、かわいい〜、とか、モテそう〜、とか、思っていたわけなんだけど」
「……新と同じ顔してるけど」
「うん……」
「ちょっとぉ」

 へらっと笑ったあたしを肘で小突きながら、みこちゃんは、でも、と言う。

「たしかに、かわいいし女子に人気だっただろうなあ」
「でしょ?」

 お父さんは、この広い学園でどんなふうに生活していたんだろう。
 あたしみたいに、好きな人がいたのかな。一生懸命その人にアタックしたのかな、それとも陰から見ているだけだったのかな。
 なんとなく、なんとなくだけど、今もこの校舎のどこかにお父さんはいて、それであたしのことを見守ってくれている気がするんだ。
 新がんばれ、って言ってくれている気がするんだ。