大人はみんな

 次の日も晴れていた。今日はあのベンチに座れるだろうか、と思いながら旧校舎に向かって駆けていく。もちろん、面倒なことになるのはごめんなので早坂先輩迂回ルートを使うことは忘れない。
 いつものように旧校舎のピロティに向かうが、吉川さんの姿はない。あたしを出迎えてくれたまあくんさんに聞くと、ああ、と視線を少し上に逸らした。

「作業押してて、ちょっとだけ遅れる」
「……分かりました」

 作業が押す、ということが今までになかったわけじゃない。何度かあったし、運がよければ吉川さんが働いているところを見られたりした。作業員さんたちがしている仕事の内容が具体的に分かるわけじゃないけど、真剣な顔をして作業している吉川さんを、いつも格好いいと思う。
 しかし、今、時間がないとなってはその仕事が憎らしい。そのままピロティで、お弁当を広げて食べ始めるまあくんさんのとなりにしゃがんで待つ。

「お嫁さんのお弁当ですね」
「うん」
「……なんと」
「なんだよ」
「なんと女子力の高いお弁当」

 まあくんさんが広げたお弁当は、とってもかわいかった。うずらの卵を串刺しにしているのはピンク色のかわいいピックだし、何より目を引いたのがごはんスペースで、海苔をハートに切ったものが乗せられ、海苔が乗っていないスペースは桜でんぶで埋められている。

「……ふつうでいいって言ってんだけどな」
「そんなことないです! まあくんさんを思いやっているのがとっても伝わってきて、すごく素敵なお弁当だと思います!」
「どーも」

 にやりと不敵に笑ったまあくんさんは、そんなハートの海苔を気にせずぐちゃぐちゃにしてごはんを食べる。
 そんな彼を見ていると、吉川さんが組んだ足場から降りてきた。

「あっ、吉川さん!」
「……おう」

 かなり不自然に、あからさまに目を逸らされた。なんだろう、と思いはしたものの、あたしは吉川さんの腕を引っ張ってベンチに向かう。いつものように諦めたように引っ張られるままになっている吉川さんと歩いていくと、ベンチはしっかり乾いていた。
 座ってお弁当を広げると、吉川さんがぽつりとあたしを呼んだ。

「なあ、お嬢ちゃん」
「なんですか」

 そのまま、何か続くわけでもなく黙っている。なんだろう。箸を止めて吉川さんを覗き込むと、なんだか妙に渋い顔をして顎に梅干しをつくっている。
 首を傾げ、吉川さんの言葉の続きを待っていると、ぐぐっと眉を寄せた彼は諦めたように息を吐いた。

「なんでもない」
「え?」

 そのままお弁当を食べ始めた吉川さんに、んん、と思うものの、彼はもう話してくれそうな雰囲気ではなかった。黙々とおかずを口に運んでいる。

「……吉川さん?」
「大したことじゃない」

 ふうん。とそれで納得するあたしではないが、無理に聞き出すのも何か違う気がする。
 そのままもぐもぐと食べながら、ふとまあくんさんのお弁当が頭に浮かぶ。

「吉川さん」
「ん?」
「まあくんさんのお弁当、見たことあります?」
「あるけど」

 それが何、と言わんばかりに語尾を跳ね上げた吉川さんに、畳みかける。

「やっぱりあたしのお弁当は、女子力が低いと思うんです!」
「じょしりょく?」
「まあくんさんのお弁当、桜でんぶとか使ってました! 海苔でハートもつくってました! それに比べてあたしのお弁当ときたら!」
「……とりあえずさ」

 咥えていた箸を口から引き抜き、吉川さんはあたしのお弁当に視線を落とす。

「別に奴の弁当をけなすわけではないけど、第一にまずは味じゃね?」
「……」
「あと、俺は米と合わせるのはパリパリの海苔がいいから、しんなりしちまうのはちょっとな」
「……そ、そうなんですか」
「あと、桜でんぶって、甘くね?」

 す、すごい勢いでまあくんさんのお嫁さんをディスっている……。いや、別に個人の好みなのでディスっているのとは違うと思うけど……。

「俺は、お嬢ちゃんの弁当すげえと思うよ」
「……ほんとに?」
「なんで嘘つかなきゃいけないの」
「別に嘘だって思ってるわけじゃないですけど……」

 唇を尖らせる。だって、男を落とすには胃袋を掴めって言うけど、吉川さんは胃袋を掴んでもするんと本体が逃げていくし、たぶんまあくんさんって胃袋掴まれて落ちたクチの気がするんだけど、吉川さんはそうはいかないみたいだし。

「美味かった。ごちそうさん」
「…………」
「お嬢ちゃん?」

 じっと、自分のお弁当を見つめて動きを止めていると、吉川さんが不思議そうな顔であたしの肩を叩いた。

「吉川さんは」
「ん?」
「あたしの顔についてどう思いますか?」
「え?」
「かわいいですか?」

 正直なところ自信がまったくないわけじゃない、そんなあたしの顔。お父さんもかわいいし、お母さんもかわいい。そんなふたりから生まれたあたしがかわいくないわけないのだ!
 ものすごい美少女、って言っちゃうと自意識過剰なので言わないけど、それなりのはずなのだ。
 うるさい性格だし、同年代の男の子に興味がないので、今までそういった色っぽい話とは無縁だったわけだが。
 何気なく口にしたその質問に、吉川さんはだいぶ困惑したようだ。そりゃあ、なかなか正面切って自分のことをかわいいかどうか聞くような女の子はいないかもしれないけど。

「ええと、お嬢ちゃんは……」

 どう答えるか迷っている、ということは好みじゃないんだろうな。それが分かって残念な気持ちになる。顔は変えようがない。化粧でどうにかするって言っても限界はあるし。
 吉川さんが悩んで、あたしがふくれっ面をしているうつに、予鈴が鳴った。お弁当を見下ろす。まだ半分くらい残っている。あとで食べよう。

「もう、いいです」
「えっ」
「困らせてすみません、また明日!」

 立ち上がって、吉川さんの手から空のお弁当箱を奪う。ぽかんとしている吉川さんに頭を下げて、旧校舎をあとにする。
 本鈴に間に合うように廊下を小走りに駆けていると、向こうから生徒会長の風見先輩がやってくるのが見えた。ちらりと会釈して通り過ぎようとすると、声をかけられる。

「あ、ちょっと」
「え?」

 立ち止まると、爽やかな笑みを顔に貼りつけてこちらを見ている。この前は思わなかったけど、よく見るとちょっと胡散臭い。

「早坂に聞いたけど、まだ旧校舎通ってるんだってね?」
「はあ」
「ちなみに片思いは成就しそうなの?」
「ど、どうなんでしょう……?」

 なぜそんなことを聞くのか、よく分からないまま素直に答える。片思いが成就するかしないかは、あたしの行動にもよるが結局は吉川さんにかかっているので、あたしにはどうしようもない。
 首を傾げると、風見先輩は少し渋い顔をつくって告げた。

「ちょっと、先生の間で噂になってるんだよね。一年生の女の子が旧校舎の作業員にちょっかいかけられてるんじゃないかって」
「…………は?」
「生徒会長という役職柄、よく職員室には行くけど、そんな話を小耳に挟んだよ」

 それはだいぶ事実が捻じ曲げられていないか?

「逆、じゃないですか?」
「うん、俺もそう思う」

 ちょっかい、と言うと果てしなく軽い気持ちになるが、事実上ちょっかいをかけているのは一年生の女の子、すなわちあたしのほうだ。吉川さんはどっちかって言うと被害をこうむっている側だ。
 先輩は、でもね、と言って続けた。

「大人の目には、そう映る」
「……」
「せいぜい気を配って、うまくやれば」
「……」
「俺としては、早坂は女心も分かんないし女と手をつないだこともないけど、まあ大事にしてくれるんじゃないかって思ってるんだけどね」

 そう言い残し、風見先輩は歩いて行ってしまった。
 あたしは、ひとりぽつんと廊下に立ち尽くして風見先輩の言っていたことの意味を考えていた。大人の目には、そう映る。
 早坂先輩が口を酸っぱくしていたお説教が今更重たくのしかかってきた。あたしがこうしてアタックすることで吉川さんにプラスになることはなにひとつないのだ。先生たちの目から見れば、あたしはこどもで吉川さんは大人で、恋とかそういう関係性は想像ができないのだ。
 ひどい、と思う。あたしはまだ十六歳になったばっかりだけどちゃんと恋しているのに。相手が吉川さんだろうと早坂先輩だろうと、そんなのは誰にも何も口を挟む権利なんかないはずなのに。
 でも、頭の中にはとても冷静な部分というのがたしかにあって、あたしはちゃんと分かっていた。
 あたしが早坂先輩と恋をしても誰も変だって思わないけど、吉川さんを好きになると非難されてしまうっていうことを。
 そんなのは間違っている、ただならぬ恋だ、って、大人はみんな思っていることを、ちゃんと分かっていた。
 別に、だから吉川さんを好きでいることをやめたりしないけど、やめるわけがないけど。でも、きっと恋が実ったとしても、認めてくれる人なんてほとんどいないのかもしれない。そんなことに気づかされる。

「あっ、本鈴……」

 鳴り響いたチャイムに、はっとして走り出す。慌てて教室に滑り込むと、熊野先生が出席を取ろうとしているところだった。

「宮本さん、ギリギリセーフ」
「あ、ありがとうございます……」
「どこに行ってたの? お手洗いは休憩中に済ませなさい?」
「あ、いえ、あの……きゅ……」

 とっさに口をつぐんだ。風見先輩の忠告が頭に浮かんだからだ。
 先生たちの間で噂になっているんなら、言わない方がいいに決まっている。

「きゅ、きゅうりに思いを馳せていました……」
「はあ? さっさと席につきなさい」
「はい……」

 席に腰を落ち着けて教科書とノートを開く。じわっと、一瞬だけ文字が滲んだ。