間接キスは中華味

 最近じめじめして雨が増えてきた。そうすると何が起こるかって、吉川さんたち作業員さんが学校に来ない日があるのだ。雨が降っているとやっぱり危ないからなのか、彼らのお仕事はお休みになる。
 吉川さんが学校にいない日は、なんだか張り合いがない。もしかして遭遇するかも、とどきどきする必要なんかまったくないし、一応、とつくったお弁当は無駄になるし。そんな行き場のなくなった可哀相なお弁当は、夕飯のおかずとなりお母さんを不思議がらせている。

「新、最近夕飯がお弁当のおかずじゃない?」
「……その、最近つくる量がよく分かんなくて」
「ふうん……?」

 ちなみに吉川さんには逃げられている。物理的にも心理的にも。
 濃い時間をつくろうと思えば思うほど、吉川さんがするすると逃げていく。あーんもさせてもらえないし、お尻ひとつ分近づけば同じだけ離れていく。そして、吉川さんの好みの女の人のタイプを詳しく聞こうと試みると、彼はこう言った。

「……ちょっとお嬢ちゃんには刺激が強いと思うけどなあ」
「えっどういう意味ですか」
「うーん、うーん……」
「?」
「まあ、平たく言えば、……エッチなビデオのお姉さんが好きだな」
「……!」

 照れくさそうにがははと笑った吉川さんを尻目に、あたしはいろいろとショックを受けていた。
 エッチなビデオのお姉さんって絶対巨乳だし、あたしにはどんなお姉さんがいるのか確かめるすべもない。吉川さんの好きなタイプは分からない上に改めて胸が大きい人が好きなんだと突きつけられて、ショックだった。
 しかしショックはそこで終わらない。みこちゃんにそれを愚痴って彼女の指摘によって気がついたのだが、吉川さんはそういうふうに言うことであえてあたしを幻滅させようとか、確認できないようにさせようとか思ったんではないのか、という魂胆だったのでは、と。
 吉川さんがエッチなビデオのお姉さんをほんとうに好きであるかどうかはこの際関係ない。問題は、吉川さんがそう言うことによってあたしに与えた損害なのだ。

「ああ……」

 昼休み、今日もまるで世界が終わるような雨である。風もわりと強めで、窓を大きめの雨粒がとんとんと叩いている。
 ため息をついて俯きがちに廊下を歩いていると、目の前で上履きが立ち止まった。
 のそりと顔を上げると、そこには天敵が立っていた。

「……」

 いつもなら、げっ、と言うところだが、今日はそんなふうに戦闘開始する気分じゃないし気力もない。
 目の前に仁王立ちする早坂先輩を無視して廊下を通り過ぎようとすると、慌てたように肩を掴まれた。

「無視するな!」
「……なんですか」
「な、何へこんでんだよ……」

 あたしの、珍しくしょんぼりした態度に狼狽したらしい早坂先輩が、掴んでいたあたしの肩を強く握る。

「いたっ」
「あ、わ、悪い、ごめ」
「……早坂先輩には、関係ないです」

 何へこんでんの、に対する返事をすると、先輩は眉をつり上げた。

「はあ?」
「なんですか」
「……お、俺にだって、心配くらいさせろよ」
「……気持ち悪いですね」
「はっ?」

 正直そのまま心のままを述べると、彼は更に眉をつり上げた。そして、その勢いのまま弾丸のように次々と言葉が繰り出される。

「お前、俺がお前のこと好きだって言ったの忘れたのかよ、もっとその、ほかに言い方あんだろ!」
「その件に関しては丁重にお断りしたはず……」
「されてねえよ!」

 あれ、そうだっけ。あたしは首をひねって記憶を回想する。好きだ、バーカ。そう言えばその後の記憶があまりない。

「あ、そか。だって先輩言い逃げしましたもんね」
「ぐ……!」

 ぐうの音も出ません、という顔をして、かろうじて、ぐ、とだけ出した先輩が唸る。
 あたしは、ちょっと申し訳ないなと思いつつもはっきり言うことにする。こういうのは引き延ばせば引き延ばした分だけ面倒くさくなるのが予想できる。すっぱり言っておいたほうがあたしのためだ。

「ではこの場ではっきりお断りさせていただきます。ごめんなさい」
「なんでだよ! あんなおっさんより俺のほうがいいだろ! おかしいだろ!」

 いらいらする。
 この人のぎゃんぎゃん騒ぐこどもっぽいところが苦手だ。声が大きいとかうるさいとかではなくて、言っていることに整合性がないところ。
 そして聞き捨てならない。

「吉川さんはあんなおっさんじゃないです、何もおかしくないです!」
「なんで俺は駄目なんだよ! 第一印象か、第一印象が悪かったからかよ? 俺でもいいだろ、別に!」

 第一印象、は最悪だな、うん。でもたぶん、そういう問題じゃない。
 あたしは、早坂先輩に出会う前にすでに吉川さんに出会ってしまったし、仮に順番が逆だったとしても、きっとあたしは吉川さんに恋をした。
 あたしの中で特別なのは吉川さんだけで、それはたとえばどんなイケメンや男前が言い寄ってきたとしても変わらないのだ。それが吉川さんでないのなら、あたしにとってその男の人はただの男の人だ。好きにはならない。

「あのおっさんでいいなら、俺でも別にどこと言って劣ってないだろ」
「……じゃあ聞きますけど、逆に早坂先輩があたしじゃなきゃいけない理由ってなんですか?」

 彼の理論にものすごく引っ掛かりを覚え、思わず眉が寄って真剣な顔になってしまう。

「え」

 あたしが真面目に返すと思っていなかったのか、早坂先輩が口をつぐんだ。

「今の理論だと、早坂先輩だって、別にあたしでなくてもいいし、みこちゃんでもいいし、誰でもいいことになりますよね?」
「……」
「あたし、みこちゃんに勝ってるところなんてほとんどないし」

 今度こそぐうの音すらぐの音すら出なくなった先輩に、別に聞かせるわけでもないような小さな声で言う。あたし自身に言い聞かせるような小さい声で。

「そんな、簡単な気持ちじゃないんです、簡単に諦めるなんて」
「諦める?」

 地獄耳にもほどがある。なんだかばつが悪くなって顔を歪めると、早坂先輩が突っ込んできた。

「どういう意味だよ」
「別に早坂先輩には関係ないです……」
「い、言えよ」
「なんでですか」

 一歩踏み出して先輩から離れようとすると、一歩引いてあたしの行く手を阻む。なんなんだこの人、ほんとうに面倒くさい。

「暇なんですか? あたし先輩の暇つぶしに付き合う時間はないんですけど」
「暇とか言うな! お前、先輩に向かってその態度おかしいだろ!」
「……ほっといてください」
「……」

 ぎゃんぎゃんと言い争う精神力がそろそろない。吉川さんにするすると逃げられている上に、その彼と毎日会えるわけでもない日々なのだ。ダメージが大きい。
 早坂先輩は、あたしを訝しむような目つきで眺めて、そわそわと言った。

「そ、相談乗ってやってもいいぜ」
「けっこうです」

 しれっと言う。

「くっそむかつくなお前! もう泣きついてきても相談乗ってやんねーからな!」

 悔しそうな顔をして、来た道を戻っていく。……あの人はほんとうにあたしのこと好きなのか?
 だって、ほんとうにあたしのこと好きなんだったら、吉川さんについての相談なんて聞いても傷つくだけだと思うんだけど。吉川さんに好きな人がいて、その人のことを相談されたら……わあ、考えるだけで心がばっきばきに割れて折れて粉々になりそうだ。というかそんなことをしたら早坂先輩が鈍いと言うよりあたしが無神経な人間になりそうだから絶対ごめんだ。
 自分が傷つく結果になるだろうということを分かっていないのが早坂先輩らしいと言うかなんと言うか。ただもし、傷つくことを分かっていてもあたしのためにああいうことを言っているなら少しは考えを改めなければならんよな。
 窓の外は相変わらず雨が降っている。早く上がらないかなあ、タイムリミットは刻一刻と近づいているのに。
 吉川さんがこの学校で仕事をしているのは、予定では七月末まで。もうあと一ヶ月くらいしかないのだ。……ないのだ?

「うそっ」

 スマホで日付を見ると、六月の終わりに差し掛かっている。嘘でしょ、吉川さん、あと一ヶ月くらいしたら、いなくなっちゃうの?
 あかん、あかんのですよ。
 教室に戻って自分の席について、あたしはじとっと考え込む。すると、みこちゃんが近寄ってきた。

「どうしたの?」
「……あと一ヶ月……」
「え?」

 すっかり忘れていたけど、この恋のアタックにはタイムリミットがあるのだ。工事は夏まで。吉川さんはずっとここにいるわけじゃない。今みたいにほぼ毎日会えるのは、夏まで。
 こんな、かわされてへこんでいる場合じゃない!

 ◆

「吉川さん!」
「お嬢ちゃ……うわっ」

 梅雨の晴れ間の昼休み、あたしはダッシュで旧校舎に向かい、吉川さんを拉致する。腕を引っ張っていつものベンチに向かうと、夜中まで降っていた雨でびしょびしょになっていて、とても座れたものではなかった。

「あ……」
「あー」

 吉川さんががしがしと頭を掻いて、こっち、と呟いて歩き出す。疑問符を浮かべながらついていくと、吉川さんは躊躇なく森の中に入っていく。
 どこに行くんだろう……と思いながらもその背中を追うと、なんだか屋根が見えてきた。

「ここなら……おっ、大丈夫そうだ」
「ここ……なんですか?」
「東屋だよ」
「あずまや?」

 漢字が当てはめられない。あずまや、とはなんだ。あとで辞書で引いておこう。

「なんか、公園とかによくあるだろ、こういうの」
「……なんでそれがここに?」
「それは知らん」

 あずまやは、屋根と柱だけの簡素な休憩所みたいなものだった。たしかに、公園とかにあるかも。あまり公園自体行かないからサンプルは少ないけど、近所の緑地公園にはあった気がする。
 屋根のおかげで雨をしのいでいて、中のベンチは無事だった。砂を払って吉川さんが腰を下ろす。
 それにしても森の中にこんな休憩所をつくるとは、この学園は何を目指しているんだろうか。だいたい、この学園は広すぎる。本校舎に、今度新しくなる旧校舎に、体育ハウスと呼ばれる体育館やプールやテニスコートが集まった敷地に、追加でこの森だ。あたしでなくとも迷子が続出するのも納得だ。
 とにもかくにも、あたしも吉川さんのとなりの席に座って、お弁当を差し出す。

「今日は、中華風です」
「中華風?」
「揚げてない、ヘルシーな春巻きです!」
「へえ」

 まあ、中身は昨日の夕飯のときに多めにつくって冷蔵しておいた肉みそなので、中華風はあくまで風である。ということは内緒である。
 あんまり見るな、と前に言われたので、見ないようにしつつも反応をうかがっていると、吉川さんが呟いた。

「これ、美味い……」
「……!」

 付け合わせのサラダも中華風の味つけにしてみた。ちょっとピリ辛の、コチュジャンダレ。
 それも吉川さんは美味いと言ってゴマの一粒も残さずに食べてくれた。いつも通り豪快な食べっぷりで、つくったこちらの気分をよくするのがほんとうにじょうずな人だなあって思ってしまう。もちろん、吉川さんにそういった作為的な気持ちはないと思っているけど。

「ああ、ごちそうさん。……春巻き、美味かったな……」

 名残惜しそうに空っぽになってしまったお弁当箱を見つめている。

「……あたしの分あげましょうか」
「え、いや、そういうつもりじゃなく」

 ずいっと吉川さんに、ごくごく自然なつもりで箸で挟んだ春巻きを突き出すと、少しのためらいのにのちに素直に口を開けてくれた。これまでだったらやんわりとあーんは拒否されていたのに。春巻き、恐るべし。
 そしてこのままこの箸を使うのにはかなりの勇気がいるし、羞恥心が相当邪魔だ。
 でも、そんなふうに照れている場合じゃないんだよね。あと一ヶ月しか一緒にいられないんだから。
 あたしは、覚悟を決めておかずを自分の口に運んで咀嚼して飲み込んでから、ぽつんと呟いた。

「……間接キスですね」
「ぶっ」

 吉川さんが派手にむせた。

「げほっ、げほっ」
「だ、大丈夫ですか?」
「ごほっ」

 慌ててペットボトルのお茶を差し出すと、ぐいとあおってようやく息をついた。そして、涙目でこちらを見る。

「へん、なこ、と言うな!」

 喉がおかしなことになっているのか、声はいつもより変に高くて掠れている。

「変なことじゃないです、事実です!」
「そういう問題じゃない」
「じゃあ……どういう問題なんですか?」
「そ、れは……」
「だいたい、このペットボトルもあたしのです。か、間接キスです!」

 しまった、間接キスをつい恥ずかしくて噛んでしまった。しかし吉川さんはそんなことは気にならなかったらしく、言葉に詰まっている。
 そんなことをしているうちに、予鈴が遠くのほうで鳴ってしまった。
 残っていたごはんを慌てて口に詰めて、お弁当箱を片づけて立ち上がる。スカートがひらりと風に舞い、かすかに砂ぼこりが立つ。

「吉川さん、お昼休み終わっちゃいます」
「……」

 どことなく赤くなった顔をものすごく渋くして、吉川さんが立ち上がってお尻を払う。うつむいている吉川さんの表情はもうよく分からないけど、なんだか少しご立腹な感じではある。
 森を歩きながら、吉川さんは終始無言だった。あたしもそれにつられてしまい、何か言うわけじゃなかった。ほんとうは、明日は何が食べたいかとか、好きな色とか好きなこととか、いろいろ聞きたいことはあったけど、黙っていた。
 でも、それは決して悪い沈黙じゃなかった気がするのだ。
 きっとまたみこちゃんに、新の気のせい、と言われてしまうのかもしれないけど。