仲直りプリン
心臓が喉から飛び出そう。人という字をてのひらに書いて百回くらい飲み込んだけど、おさまらない。いつものように、早坂先輩迂回ルートを駆使して、旧校舎のピロティが見えるところまでやってくる。……まあ、仮に早坂先輩があたしのクラスにやってきてあたしがいないことに気づいたとしたら、彼が旧校舎に来るのだおることは明白なので、姑息な手段と言ってしまえばそれまでだが、時間稼ぎにはなる。
工事中のシートがかけられた旧校舎の陰からそっと首を伸ばして様子をうかがっていると、作業をいったん終えて、ぞろぞろと作業員さんたちが降りてくる。吉川さんが……いた!
気だるそうに、頭をがしがしと掻きながらほかの作業員さんと話をしているその様子はいつも通りで、ちょっとだけ胸が痛む。あたしがいなくても、いつもと一緒なんだ。ちってもさみしがったりしてくれないんだ。当たり前なんだけど、それでもやっぱり少しだけ悔しい。
「吉川、コンビニ行くだろ?」
「あー……」
と、そこでちらりと吉川さんがこちらを見た。
とっさに隠れたが遅し。あっ、と吉川さんが声を出した。
見つかってしまったのはれっきとした事実なので、あたしは観念して姿を見せる。すごすごと作業員さんたちのほうに近づきながらまあくんさんを見ると、少し馬鹿にしたような、でも満足げな笑みを顔に乗せていた。
「あ、あの、吉川さん」
「……」
「こ、この間は、ごめ、ごめんなさい」
「……ああ、別にいいよ」
「怒ってないですか」
「ていうか……俺が怒らせるようなことしたんだろ」
たぶん、とぼやきながら、吉川さんがもそもそと何か口の中で言い訳っぽいことを連ねている。お弁当を投げつけたことを怒っていないようであるばかりか、なぜかあたしを気遣う発言まで飛び出す。
その態度にちょっとだけ涙がにじむ。いつもの吉川さんだ。ぐすっと鼻をすすると、たちまち慌てたように近づいてきた。
「お嬢ちゃん」
「泣いてません!」
「え」
これは、泣いてますと自己申告したようなものだな。
そんなことをぼんやりと考えながら、あたしは持ってきていた二段の重箱を吉川さんに突き出した。ぽかんとしてそれを見る。
「何これ」
「吉川さんのお弁当箱、なかったので……今日はこれです」
「あ、ごめん」
だし巻玉子もたくさんつくったし、からあげも揚げた。ちょっとがんばって、デザートのプリンも昨晩つくってきた。吉川さんが美味しいって言ってくれるものばかり詰めたはずだ。朝、仕事に行く準備をしながらお母さんが何それと聞いてきたので、曖昧に、友達とピクニックごっこする、とごまかしておいたのだ。
いつも一生懸命つくっているけど、今日は特に気合いを入れた。そうしないと、あたしは吉川さんに向き合えないと思ったから。
そして例によっていつの間にか、ほかの作業員さんたちの姿は離れた場所にある。吉川さんはそれを遠い目で見つめながら、ほっと息をついた。
「あの、ごめんな」
「え?」
「この間……」
あたしのお弁当箱投げつけ事件のことだろうか。吉川さんが申し訳なさそうに眉を寄せているのを見て、あたしの眉も寄る。
あれはあたしが全面的に悪いと思うんだけど、吉川さんが謝ることなんて何ひとつないと思うんだけど。あっ違う、悪いのは早坂先輩のあんちきしょうだ。
「お嬢ちゃん、この間あの生徒会の坊主に」
「ん?」
「その、あれだよ、なんか、本校舎のほう行ったとき偶然聞こえちまって……」
「何がですか?」
煮え切らない態度の吉川さんにますます眉が寄る。あたしが何かしてしまったことによりあの吉川さんの態度だったのなら、はっきりきっぱりとその原因を言ってすっきりしてほしいのだけど。
「べ、別にだから何、とか言うわけじゃねえんだけど。やっぱり、若い子は若い子同士がって思うと、つい……悪かった」
「……?」
本校舎に来た際に早坂先輩とあたしについての何かしらを聞いたということ? 別にいつも通り説教しかされてな…………あっ。
「み、見てたんですか、あれ」
「いや、偶然な、別に聞き耳立ててたわけでは……」
必死で弁解する吉川さんに、顔が赤くなる。まさかあの不名誉な告白シーンを吉川さんに聞かれていたとは、宮本新、一生の不覚……。
……でも待って。早坂先輩があたしに告白しているのを聞いてそれであんな態度を取ったということは。
「嫉妬ですか?」
「ちげーよ! お嬢ちゃんほんと身も蓋もねーな!」
顔を真っ赤にして怒る吉川さんに、もしかして、やっぱり、ちょっと、と思う。
ぐんとご機嫌モードに針が振れたあたしは、さくっと一歩吉川さんに近づく。吉川さんが条件反射からか後ずさりする。また近づく。下がる。
そんなことを繰り返してじわじわ吉川さんを追い詰めて、いつものベンチにたどりつく。
吉川さんは諦めたようにそこに座り、はあっと大きくため息をついた。
「今日は、からあげ弁当です!」
「あ、そう……」
力なく頷いた吉川さんの目が、少しだけ輝いた気がする。からあげ、脳内メモしました。吉川さんはほんとうに、こどもが好きな食べ物が好きだなあ。
重箱を開けて吉川さんと食べていると、ぽつり、と呟いた。
「馬鹿だよなあ……」
「え?」
「いや、こっちの話」
ふるふると首を横に振り、吉川さんがからあげを頬張る。ほっぺたがリスみたいに膨れているのが愛らしいのである。
そういえば……。
まあくんさんの数々のアドバイスが急に頭の中に浮かぶ。濃い時間を共有する、だったっけ……。
「あの、吉川さん」
「ん? あ、これ美味い」
付け合わせのポテトサラダをもぐもぐしている吉川さんが、こちらに一切の注意も払わずに返事をする。その、箸を握っている手をがしっと掴むと、びくりと固まった。そして、ちらっとこちらを見る。
「お、お嬢ちゃん?」
「一目惚れは、理由として弱いんですか?」
「え?」
「吉川さんは、一目惚れとか信じてないから、あたしの気持ちも信じてくれないんですか?」
ん? という顔で、吉川さんはあたしの言葉の意味をだいぶ長いこと考えていた。
「……なんでそう思うの?」
「……まあくんさんが、そうに違いないと」
「まあくんさん……ああ、あいつか」
頭の中に茶髪のツリ目のお兄さんを思い浮かべたらしい、なぜか苦々しい顔になる。
それから、やんわりと自分の手から、あたしの手を剥がした。
「お嬢ちゃん、早く飯食わないと、昼休み終わっちゃうよ」
「吉川さん」
するりとあたしから逃げていく。
いつもはこどもじみているのにそういうところだけしっかり大人だ。あたしの手をいとも簡単に振りほどく。
これは、やっぱり、駄目だってことなの?
「あ、そうだ。弁当箱、返さないとな」
「……」
のんきに、何事もなかったかのように荷物が置いてあるのだろう方角をちらりと見た。お弁当箱を返してもらって、あたしはまたごはんとおかずと期待を詰めて、ここへ来てもいいの?
「……どしたの、タコみたいな顔して」
唇を尖らせていたのを指摘され、誰のせいだと思ってるんだ、馬鹿、と思う。
「……プリンもあります」
「え? プリン?」
「デザートです」
「お、おう」
吉川さんが、おそるおそるという感じで、プリンが入っている小さなタッパーを開けて食べ始めた。
「……美味いよ」
ほっとした。
結局、たくさんつくりすぎたかなあ、と思った重箱のお弁当を、吉川さんは残さず食べてくれた。
そしていつものように予鈴が鳴って、あたしに重箱とお弁当箱を返してくれる。明日、またお弁当つくってきても、いいのかなあ。
授業に遅刻する、と促されて本校舎に戻るけど、どうしても考えてしまう。
あれは、誰がどう見たってごまかされたよね。恋愛経験値ゼロのあたしでも、分かるくらいに露骨に。やっぱり、迷惑だってことなんだろうか。
でも、どうしても期待しちゃうのは、吉川さん自身のせいだ。
早坂先輩相手にやきもちめいたことを言ったり、いかにも待っていたみたいな顔であたしを見て笑ったり、投げつけたお弁当箱を中身をきちんと食べてちゃんと洗って持っていてくれたり、ほんとうに迷惑だったら、お弁当箱なんて邪魔になるだけだから仕事場にわざわざ持ってきているはずがない。
そういうのが、あたしの心の奥に深く深く根ざして、引っこ抜けない。迷惑だったら突き放せばいいのに、優しいからできないだけなの?
吉川さんが全然分からない。本心が見えなくて、あたしはいちいち一喜一憂しながら踊らされている。
「やっぱ世間体とか気になるんだろうし、結婚もしたいみたいだから、なかなかお前と向き合ってらんないってのも、分かるよ」
不意にまあくんさんの言葉が脳裏によみがえる。
世間体を気にしてあたしと向き合っていられないのなら、吉川さんのほんとうの気持ちはどこにあるのだ。あたし、もう結婚できるよ。こどもかもしれないけど、でもきちんと恋をしているよ。
とぼとぼと廊下を歩いていると、向こうから早坂先輩がやってきた。あたしが気づいて逃げるよりも先に、向こうはあたしに気づいていたようで、つかつかと歩いてくる。
「お前」
「なんですか」
「……なんだその重箱」
「先輩には関係ないです」
少し考えて、それからあっと声を荒らげた。
「お前また懲りもせず旧校舎に……」
「関係ないです」
「行くなって言っただろうが!」
「先輩には関係ないって言ってるでしょ!」
ほんとうにぎゃんぎゃんうるさい人!
うんざりして先輩の横をすり抜けてそのまま呼び止める声も無視して歩く。
「待てよ!」
「授業はじまるんで! 失礼します!」
それを捨て台詞に、小走りでその場を去った。教室に少し息が上がった状態で戻ると、本鈴はまだ鳴っていないのにもう先生が授業の準備をしていたので、慌てて席について重箱とお弁当箱を机の横にかけておいた袋に入れた。
眠たい午後の授業に耐えながら、結局あたしは、明日のお弁当のおかずを考えていた。やっぱり、わずかでも可能性があるなら、もしかしてがあるなら、それに賭けたかった。
◆
放課後、先生に頼まれて旧校舎の近くにあるゴミ捨て場までゴミを捨てに行ったら、まあくんさんと出くわした。
「よう」
「あっ、こんにちは」
あたしと同じく何かのゴミを捨てに来たらしい彼は、そばまで近づいてくるとわしわしと頭を撫でた。
「ちゃんと来たな、よし」
「わっ、ありがとうございます」
「ただし失敗がひとつ」
「え?」
まあくんさんがにやにやと笑いながらあたしの手からゴミ袋を奪って捨ててくれる。失敗ってなんだ、と戦々恐々としながら彼が再び口を開くのを待った。
「お前、今日の弁当に何入れた?」
「え? からあげとだし巻玉子と、ポテトサラダとプチトマトとチーズちくわと……あとおにぎりです」
「まだあるだろ」
「えっと」
メニューを思い出す。おにぎりの中身は梅干しだったかなあ。
「おにぎりは梅です」
「そこじゃねえ」
「デザートのことですか? あ、もしかして保冷剤溶けてたからぬるかったのかな」
「プリンだな」
「プリンです」
プリンの入ったタッパーには保冷剤をくっつけておいたのだけど、お昼休みにそれを取り出した時点ですでに溶けていたので、若干プリンがぬるかった記憶はある。でも、腐ったりはしていないはずだ。
「お前知らなかったの?」
「何を?」
「吉川さん、甘いの駄目なんだって」
「…………」
待って。あたし昨日丹精込めてプリンにお砂糖どばどば入れたんだけど。
「昼飯終わってからずっと顔色悪かったから、なんか変なもん食ったかと思ったけど、プリンであんな顔できるとは思わなかった」
「よ、吉川さん、言ってくれればあたしがプリン食べたのに!」
美味しいって言ったじゃん! 嫌いなものはないって言ったじゃん! 何にも、疑問にすら思わなかった、平気な顔をして食べていた。言ってくれれば!
あわあわしていると、まあくさんはあたしの狼狽を鼻で笑った。
「お前馬鹿?」
「え」
「吉川さんが、なんで我慢して食ったのかも分かんねえの?」
「……」
「お前のためだろ」
あたしのため?
「喧嘩したんだろ。それで仲直りにお前が持って来たもん、食えないなんて言えねえだろ」
厳密に言うと喧嘩はではないので仲直りでもないのだが。
あたしが悲しむと思って、もしかして吉川さんは嫌いな食べ物を我慢して食べたのか。そんな、顔色が悪いと他人に悟られるくらいに嫌いなものを。
「そんな」
「まあおかげ様でまだ吐きそうな顔してるし、作業の邪魔だけどな」
「……」
吉川さんは、困るくらいに優しすぎる。
あたしのことが迷惑なのか、好きでもなんでもないのか、ほんとうはちょっと希望があるのか期待していいのか、それは優しすぎるだけだからなのか。
分かんないよ。