04


 シディアンはとても優しい人間だと思う。セレネがいくら失敗しても怒らないし慰めてくれるし、大きな手は心強い。黒曜石を思わせる凛とした瞳は、まっすぐに覗き込まれると少しおびえてしまうけれど、凛々しい中にもしっかりとした柔らかい優しさを持ち合わせている。
 そうこうしているうちに、賑わいを見せる市場に着いた。セレネは、シディアンが書いたおつかいの紙をちらりと見る。ここで、セレネは重要なひとつの事実に気が付いた。
 字が、読めない。
 慌てる。自分の記憶がなくとも字の記憶はなくしていないと思っていただけに、焦る。失われた記憶の自分が字を読めないのか、それともシディアンが書いた字を知らないのか。……きっと読めないんだ。セレネとシディアンはふつうに会話ができる。使っていた言語が違わないのに、使っていた字が違うわけがない。
 どうしようかかなり考えて、セレネは困って、籠の中の布袋を見つめた。この中に、この紙に書かれている食材を買うのに必要なお金が入っていることも伝えられていたが、果たして自分がお金を数えることができるのかすら怪しい。
 市場の真ん中でうろたえていると、セレネの横を通った太ったおおらかそうなおばさんが話しかけてきた。
「お嬢ちゃん、どうしたの」
「……」
「そんなど真ん中にいたら転んじまうよ」
「あ、あの」
 おばさんがセレネの手を引いて通りの外れまで連れてくる。
 シディアン以外に触れる、初めての人の手に混乱したセレネは、ついどもる。それから、思いついた。
「あの、あの、これが買いたいんです」
「ん? これは?」
「お、おつかい、頼まれたのですけど、わたし、字が読めなくて……」
「ああ、そういうことなのかい」
 おばさんに紙を渡せば、おばさんはなんのよどみもなく書いてある品物を読み上げた。それから、うちは野菜売りだから大抵のものは揃うよ、と自慢げに言って、セレネの手を引いて店の前まで連れていく。
 色とりどりの野菜の前でセレネがぽうっとしていると、おばさんは紙に書いてあるとおりらしい野菜を次々と籠に突っ込んでいく。籠が重みを増していき、セレネが思わずよろけたところでおばさんが言う。
「これで全部だね。お嬢ちゃん、お金は持ってるかい?」
「あっ、はい」
 慌てて、籠の底をあさって布袋を出す。じゃらじゃらと手のひらに硬貨を出すと、やはり自分ではどれがいくらの硬貨なのかまるで見当がつかなかった。それを見て取ったおばさんは、ため息をついて、セレネの手のひらから二枚取った。
「どいつがこんなお嬢ちゃんにおつかいなんか頼んだんだか」
「……シディアン」
 セレネがほんの少し恨めしげに呟いた名前は、おばさんの耳に届くことはなく喧騒の中に消えた。
「お嬢ちゃん、可愛らしいからオマケしてあげるよ」
「オマケ?」
「少し値段を安くしてあげるよ、ってこと」
「えっ、あっ、ありがとうございます!」
 ぺこっと頭を下げて、セレネが立ち去ろうとすると、おばさんが慌てて呼び止めた。
「ちょっと待ちな」
「?」
「その紙、肉とパンも書いてあったから、向かいの肉屋とパン屋にも寄りなさい」
「にく」
 セレネは、おびえた。シディアンの家にあったのは野菜とパンだけだった。肉なんか調理したことがない。でも、シディアンがそれを紙に書いたということは、シディアンが肉も食べたいと思ったということだ。自分が、肉を上手に調理できるのか、ただひたすらに不安である。
 しかし、買わないわけにはいかないので、おばさんが指で示した肉屋に、セレネはすごすごと向かった。
 セレネは、肉屋の店主にも、おばさんと同じように紙を渡して必要なものを籠に入れてもらった。そして、お金を出す。
「ん? 金の数え方も分からないのかい?」
「ご、ごめんなさい」
「いいよいいよ。これとこれをもらっておくな」
 肉屋の店主は、おばさんが取った硬貨と同じものを一枚と、より大きいものを一枚取った。それから、隣のパン屋にも寄って同じ方法で買い物を済ませた。
 一応、パン屋の店番をしていたお姉さんに紙を再度見せ、ほかに買い物が必要なことはないか聞いてみる。
「いや、籠の中にもう全部入ってるわよ」
「ありがとうございます」
 あとは、無事に帰れば任務は完了である。小走りで市場を離れて大通りをあとにする。時折地図を見ながら、シディアンの家を目指して坂を駆け上る。少しだけ道があやふやだったが、無事家に帰ることができた。セレネは、なんだか誇らしい気持ちでいっぱいだった。わたしだって、ちゃんとやればできる。シディアンの役に立てる。
 でも、おつかいのたびにあれでは困る。シディアンに、今度から口頭で買うものを言ってもらえるように頼まなくては。それから、お金の数え方。

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