02


「わかんないんです」
「分からない?」
「名前、わかんないんです」
「……」
 握りしめていたコップを、さらにぎゅうっと、手が真っ白になるほど握りしめる。
 自分のことが何一つ分からなかった。名前も、どこから来たのかも、自分が何者なのかも。まるで分からない。自分、に関する知識だけがぽっかりと抜け落ちてしまっているかのような感覚だ。
「名前も、わかんないし、ど、どこからきたのかも、わかんないし、なんにも、わかんないです……」
「……記憶がないのか?」
「……たぶん」
 言葉にすればそれはひどく不安なことに思えた。男は、ふむ、とため息をつき、立ち上がった。おろおろと見ていると、すぐに戻ってきた。と思えば、小さな鏡を持っている。その鏡を少女に手渡し、男は見ろ、と言った。
「……」
 そうっと覗き込むと、そこにはまるで知らない少女がいた。左右それぞれ薄い緑と薄い青の一対の瞳がこちらをおどおどと覗き込んでいる。白髪に近い長い銀色の髪の毛は傷みきってぼさぼさだ。そして、少女は息を飲んだ。
「……みみ」
 自分の耳は、男の耳とは違い、人間のそれのかたちをしていなかった。何かの獣のような、ふさふさとした毛におおわれた銀色の耳が、傷んだ髪の毛の合間から顔を出して、ぴくぴくと揺れていた。
「なんで、わたし、みみ」
「驚く必要はない。そういう人種はいる」
「……」
「ごく少数だけれど、いる。俺も、君以外のそういう耳をした人間を一度だけ見かけたことがある。だから君は、その一族なんだと思うが」
 男は、なんでもないことのようにそう言った。なので少女は少しだけ安心した。男がそう言うとなぜか、おかしなことではない、と思えた。
 じいっと男のほうを見ると、その視線に気づいたのか、少女の髪の毛を無骨な指で少し撫で、呟いた。
「名前が分からないのか」
 独り言のようなそれにおずおずと頷くと、男は何か考えるように首をひねる。少女が同じように首をひねると、笑う。なぜ笑われたのかは分からなかったが、いやな笑い方ではなかった。
「歳は、いくつくらいだろうな。十六か十七か、それくらいか」
 少女はまた首をひねる。何せ自分のことが何一つ分からない。年齢など、分かりようもない。
 男は顎に拳を当てて、少女を値踏みするように見た。何もかもを見透かすような強い視線にどきどきしてしまう。どこを見ればいいのか分からずに定まらない視点を持て余して、少女はそっとうつむいた。
 そのうつむいた頭に、大きな手を乗せて、男は言った。
「セレネ」
「え?」
「君の名前だ」
「……」
 おずおずと視線を上に向ければ、そこには優しい瞳でこちらを見る男がいた。少女は、びくびくしながら、その響きを舌に乗せた。
「せれね?」
「そう、セレネ。昔むかしの、月の神様の名前だ」
「月の、かみさま?」
「君の髪の毛は月の光のようにきれいだろう、だから、セレネ」
 そう言って、男はぐしゃぐしゃと髪の毛を混ぜるように頭を撫でた。首筋や耳に髪の毛が当たってくすぐったいが、なんだかそれ以上に気持ちが高鳴った。月の神様の名前をもらえるなんて、どれだけ光栄なことだろうか。
 男の手は優しく、部屋はあたたかく明るくて、自分はそんな素敵な名前をもらった。こんなに素敵なことが一気に起こるなんて、記憶はないけれどきっと経験したことがない、と言い切れるほど、それはうれしいことだった。
 でもすぐに不安になる。自分は、これからどこへ行けばいいのだろう。自分に関する記憶がひとつもない今の状態では、行くあてなどどこにもない。もちろん、帰る場所があるのかすら分からない。
 ぱあっと顔を輝かせたのも一瞬で、少女はまた、うつむいた。
 それをどう取ったのか知らないが、男は少女の頭から手を離し、また椅子に座った。そして話し始める。
「俺の名前はシディアン・ボルドー。シディアンと呼んでくれて構わない。ここは俺の家だ」
 淡々と話される内容を、ひとつずつ噛み砕いていく。シディアン、と口の中で復唱すると、彼は満足そうに頷いた。
「ちなみに場所は、フィリン王国の城下町。フィリン王国のことは?」
「……聞いたことがないです」
「そうか。地図でもだいぶ北のほうにある、大きな国だ。いい国だよ」
 少女が、理解したというつもりで頷くと、その様子を見届けて、それから、とシディアンは言う。
「俺は、そのフィリン王国騎士団の第一部隊の隊長だ。騎士団というのは、馬に乗って武器を取り、国を守る仕事だ」
「きしだん」
「そう。セレネ」
そこで、シディアンが言葉を切って、少し考えるように眉を寄せる。
「記憶が戻るまで、ここにいればいい」
「えっ」
 ぱちぱちと目をしばたかせる少女に、シディアンは不器用にはにかんだ。
「記憶がないということは、あてもないんだろう。そんな子を放ってはおけないからな」
 いいのだろうか、と思う。迷惑ではないだろうか。
「シディアンさんは」
「さん、はいらない」
「……シディアンは、迷惑だと思わないですか」
「敬語も別にいらないな。迷惑だと思うんだったら、そもそも拾って世話などしていない」
 ひょうひょうとした顔で言い切ったシディアンに少し安心して、ほっとため息をつく。なくした記憶の中で、自分がいったい何をしていたのか、どうして雪野原で倒れていたのか、全然分からないけれど、この、目の前の男のことは信じてもいいような気がした。というか、信じる信じない以前に、この男に頼る以外のことはその時点で少女にはできなかった。
 シディアンが立ち上がって、少女に手を差し伸べた。その手をおずおずと握ると、シディアンは少女を立ち上がらせて、台所へ連れて行く。三日も寝ていたせいで少し足元がおぼつかないが、シディアンはその体をじょうずに支えた。
「……?」
「俺は、忙しくてあまり家事に時間を取れない」
「……」
「だから、ここにいる間は、掃除や料理をしてくれると助かる。それなら、いいだろう」
 いいだろう、と言うのが、シディアンが迷惑ではないかと少女が考えたことに対する答えであることが分かる。
「……できるかな」
「できる。最初は皆分からないものだ。でも、練習すれば必ずできるようになる」
「……」
 おずおずと、野菜の山に目をやる。じゃがいもから、芽が飛び出て腐りかけているのを思わず見つめると、シディアンは照れたように苦笑した。
「これは捨てないとまずいな」
 シディアンの大きな手が、そのじゃがいもを掴んで部屋の隅のごみ箱に投げ入れた。

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